1-27『河底の命』
楼船の上から向けられた幾本もの矢は、ぴたりとこちらを捉えたまま動かない。
その張り詰めた空気の中で、鵑は勿体ぶった師の口調と笑顔を真似る。
それは思いの外、男の気を引いたようで、偉そうに髭を撫で付ける手を止めさせた。
「朱子昂様の遣いで、鵑と申します。取り急ぎ、盧侔様へお取り次ぎ願います」
畳み掛けるように出した朱澤の名に、男は目を細める。
「ならば、貴様だけ来るといい」
遠目にも分かるほど忌々しそうに顔を歪めた男に、鵑は笑みを浮かべたまま首を振る。
「私だけそちらに行っても意味がありません。申し上げた通り、献上の品は“私たちが”持っているのです。私だけでは、逆さに吊るしても何も落ちてきません」
かすかに「小娘のくせに小癪な」という言葉が聞こえた。
そんなことを言われるなら、師の真似は控えた方がいいかもしれない。
でも、いい土産話にはなりそうだ。
場違いな感想を抱きつつも鵑が笑顔を貫き通すと、初老の男は近くの兵を呼びつけ、何事か耳打ちして下がらせた。
それから間もなく、楼船から騒がしい足音が響いて、先ほどの男よりも若い、とはいっても三十路を過ぎた頃の男が姿を見せた。
彼こそが、この大船の主であり、本来、協力者たるべき男――盧侔その人であった。
彼は鵑を見るなり、「本当に白髪頭なのだな」と漏らし、すぐに無礼を訂正するように謝罪を口にすると、兵たちに弓を下ろさせた。
「いや、すまない。こちらの手違いで矢を向けてしまった」
そう言いながら、鵑たちを受け入れるための歩み板が渡され、兵たちは武装を解かぬまでも、鵑たちを受け入れる姿勢を見せた。
鵑は呂塙、丁昌、馬耼を伴い、小舟から楼船へと移った。
甲板では、縄を掛けられ一列に並ばされていた趙宇たちの縄が解かれ、鵑は連れてきた水賊の全員の無事を確認することが出来た。
「回りくどいことはなしだ。私にも貴女にも、のんびりと話をする時間は無いはずだ」
そう言って、柔和な視線と口調で鵑を迎えた盧侔は、先を促すように手を差し出した。
けれど、鵑は拱手して頭を下げると、盧侔の手を無視して「その前に」と笑顔を消して口を開く。
「冷えた体を温めるものを用意願います。……荷を持っているのは、彼なので」
そう言って視線を向けたのは、つい先ほどまで鵑を支えていた馬耼だった。
盧侔が胡乱げに視線を向ける。
馬耼は俯いているせいで顔が見えにくいが、濡れたままの服に青い顔で唇を噛み、握り込んだ拳に爪を立てて意識を保っているのだろう、その肩は震えていた。
鵑は拱手を解いて盧侔に背を向けると、馬耼に歩み寄り、両手を伸ばしてその両頬を包み込んだ。
小声で何言か語りかけると、馬耼がわずかに頷くのが手掌に伝わる。
鵑は今度は、彼の固く握られた手を自身の両手で包んで温めた。
盧侔がすぐに火鉢に熾火の用意をさせると、馬耼には乾いた布が頭から何枚も被せられた。
馬耼のその固まった指先がぎこちなく差し出した油紙の束を、鵑は受け取る。
そして、先ほど畳み直した油紙を開くと、そこに収められた帛書を丁寧に広げた。
盧侔の値踏みするような視線を浴びながら、鵑は声を張り上げる。
「某、伏して中貴人に白す。今、淬水の地、久しく主なく、民また安んぜず」
抑揚を抑えたその声に、盧侔が動きを止めたのがわかった。
「もし恩命を垂れ、某にこれを領せしめば、歳ごとの収益、敢えて私恩を忘れず」
兵たちがさざめく。
主家の内側に巣食う企みが明かされているのだから、無理もない。
「珍貨・珠玉・良材の類、別に舟を遣わし……」
「わかった、もう良い」
盧侔の声に読み上げるのを止めた鵑は、帛書から視線を上げて彼を見る。
盧侔は一度だけ鵑の手元の帛書を覗き込み、真偽を疑うように目を細めた。
けれど、わずかな思案の後にゆっくりと息を吐いた。
「盧侔様。この内容に、覚えは?」
「……いいや。私には、江杈の地を納めるだけで手一杯だ」
淬水は州境を跨ぐ公地だ。
一豪族が私的に領有を願い出るだけでも危うい。
まして、宦官へ利を流す密約付きともなれば――露見した時点で、一族ごと潰れかねない。
いくら朱澤が根回しをしてくれていたとはいえ、この内容では巻き添えや恥を嫌い、盧侔が弟を庇うかもしれない。
鵑が恐れていたのは、その一点だった。
ほんの一瞬、盧侔はあの初老の男を捜したが、その目は深く伏せられ視線は噛み合わない。
盧侔の頬が、わずかに引き攣った。
不思議と、笑っているようにさえ見える。
盧侔はこの瞬間、盧承を切り捨てるように、首を横に振った。
少なくとも、庇い立てはしないと決めたのだろう。
その覚悟を確かに見届けると、鵑は趙宇に視線を向けた。
視線を受け取った趙宇もまた、歩み寄りながら背中に隠し持っていた、ほどいた竹簡の一部を鵑に手渡す。
「これは……」
「盧承様の裏帳簿の一部です。残りは、彼らから押収した行李の中にあるはずです」
竹簡を盧侔に差し出して、既に趙宇たちが運んでいた行李と漆箱の存在を示すと、先ほどからずっと鵑を睨み付けていた初老の男が、指示を帯びて足早に去っていく。
そして、もう一隻の楼船と快速舟が動き出して、先ほどまでの鵑たちの戦場であった商船へと向かっていく。
彼らはもう、家督争いをする兄弟ではない。
悪事を働いた者と、それを裁く者だ。
その裁量は、鵑にはない。
「しかし……盧承には彭とかいう食客がいると聞く。水賊を使ったとはいえ、よく目を掻い潜ることができたな」
鵑たちを乗せた楼船だけが、本流沿いの盧家の河港へ向かう。
そこで盧侔の快速舟へ乗り換える。
本流を下れば、水鏡までは早い。
あとは日暮れまでに河港へ辿り着き、州牧府へ駆け込むだけだった。
河港へ向かう最中、盧侔が何気なく溢したその言葉に、呂塙が反応した。
火鉢に左手と右手首の断端をかざし、けれど視線は熾火に向けたまま口を開く。
「何言ってんだ。うちの大将は、あの彭を一撃で仕留めたんだ。小さいナリだからって、甘く見てもらっちゃ困るな」
その言葉は、盧侔だけでなく周辺にいた彼の私兵を動揺させた。
同時に、その言葉から呂塙が鵑を認めたのだと嗅ぎ付け、趙宇たちはわずかに視線を上げた。
だが、話題の渦中であるはずの鵑は、自身の話だと思っていないのか、全く耳に入っていない様子だ。
それよりも、小舟の上で振り落とされないよう支えてくれていた、馬耼の手の冷たさが、ずっと気にかかっていた。
凍てつく水に何度も潜ったのだ。
鵑は今も、己の子供じみて高い体温を分け与えるように、彼の青い頬を小さな両手で包み込んで温め続けている。
河港に着くと、手筈通りに二隻の快速舟が用意されていた。
沈烔堅へと届ける物証を積み込み、水賊たちと盧家の護衛、そしてあの初老の家宰が分乗する。
用意が整うなり、快速舟は水鏡へと続く本流を矢のように滑り出した。
さすがは盧家の船と言うべきか。
家宰が一度口を開けば、厳重な河泊の検分すら素通りしていく。
途中、盧承の追っ手と思わしき船が迫ったが、別船の護衛たちが鮮やかにそれを追い払った。
日暮れ時、河面が茜色に染まり、金色のさざ波が立つ頃、一行は水鏡への最短の港へと滑り込んだ。
上空にはすでに濃紺の夜が帯び、星々が瞬き始めている。
港には、腕を組んで待ちわびた様子の朱澤が立っていた。
鵑の姿を見るなり、彼は大股で歩み寄ってくる。
「浩然が沈烔堅様を引き留めてる。早く行け」
「うん。朱澤様、ありがとうございます」
「……鵑」
「?」
水賊たちが積み荷を下ろす傍ら、朱澤は懐の革袋から、蜜餞を一つ取り出した。
それを有無を言わさず鵑の口元へ差し出す。
おずおずと開けられた口に甘い梅を放り込むと、朱澤は「もう少しだけ気張れよ」とぶっきらぼうに言い残し、その場に留まって後片付けを引き受けた。
口いっぱいに広がる甘酸っぱさに突き動かされるようにして、鵑は呂塙と盧家の家宰を連れ、城郭へと足早に向かった。
朱澤の手回しと盧家の家宰の威光により、城門で彼女らを止める者は誰もいない。
政庁正堂へと続く楼閣を一気に駆け上がり、沈烔堅の待つ大扉の前に立った。
「……よく、戻ったな」
部屋に入るなり、沈烔堅からどこか安堵したような、しかし驚愕を隠しきれない視線が向けられた。
その隣では、沈司朗が腕を組んだまま、ただじっと鵑を見つめている。
「盧承様は、民ではなく土地を見ていました」
沈烔堅の前に進み出て拱手すると、懐からまだ湿り気のある油紙に包まれた帛書を差し出した。
それは盧侔にも突きつけた密書と、盧承の野望が生々しくしたためられた地図であった。
内容に目を走らせ終えた沈烔堅は、鵑に視線を向けた。
それから、同行した家宰へ盧侔の真意を問いただす。
盧承を切り捨てるという盧侔の決意をその口から聞き届けると、沈烔堅は帛書を傍らに控える主簿の陳宜へと手渡した。
陳宜は、すでに机の上に積まれていた竹簡の束を迷いなく広げる。
河港の封鎖、関所への通達、江杈への急使――あらかじめ、あらゆる事態を想定して記されていた命令が、そこには整然と並んでいた。
沈烔堅はそのうちの一枚を厳かに取り上げると、朱泥を含ませた官印を捺した。
「鵑。約束通り、水賊の裁可は保留としよう」
「!」
その言葉に、鵑は弾かれたように肩を跳ねさせてから、深く頷いた。
ようやく胸の奥の重荷が降りたと、長く息を吐き出す。
その後ろでは、呂塙が目を見開いて驚愕に眉を寄せていた。
事の経緯を何も聞かされていないのだから、無理もない。
「それから、彼らの水軍への登用だが……」
沈烔堅が言葉を続けた、その時だった。
ことん、と軽いものが、床に落ちる音が響いた。
白く小さな少女が、支えを失ったように、その場に力なく崩れ落ちていた。
刹那の速さで、沈司朗が鵑を抱き上げる。
湿った外衣越しの身体は、驚くほど軽く、異様に熱い。
腕の中の少女は、辛うじて細い呼吸を繰り返して胸を上下させているだけだった。
沈司朗は、沈烔堅が下そうとしている答えの重さを知っている。
この期に及んでまだ過酷な泥沼に彼女を巻き込むつもりかと、腕の中のあまりの軽さと熱に堪えかね、沈司朗は父へ向かって「親父殿」と口を開きかけた。
――それを止めたのは、背後にいた男の声だった。
「俺たちは、河底で腐るはずだった命だ」
呂塙はそう言って、包帯の痛々しい右の手首を突き出すようにして掲げた。
失笑めいたものを唇に浮かべ、誰もその不敬を止めないことを理由に、言葉を続ける。
「この娘は、命を賭けて俺たちを拾ったんだろ。なら、俺たちはこの娘の為に命を張るのが、道理じゃねえか」
礼儀もなにもあったものではなかった。
だが、その濁りのない言葉に、沈烔堅は値ぶみするような視線を呂塙へ見遣り、それから、きつく唇を噛み締める息子へと目を向けた。
「……目覚め次第、鵑を正式に受け入れる」
沈烔堅は静かにそう告げると、顎で大扉を差し示し、早く医官の元へと運ぶよう、沈司朗を促したのだった。
――――
鵑が目覚めたのは、三日後の昼を過ぎた頃だった。
鼻を突く、じっとりと苦い生薬の匂いに、目を覚まして早々、鵑は不快そうに眉を寄せた。
見上げた天井は、李峻の家のものよりも遥かに高く、立派な梁が通っている。
「お。……やっとお目覚めか?」
「朱澤様……」
「正式に客将だとさ。起きたら挨拶に来いってよ」
茶化すような声に視線を向けると、寝台の脇に朱澤が腰掛けていた。
その向こうの薬机では、医官らしき初老の男がこちらを振り返り、のっそりと立ち上がるところだった。
「一つ、申し上げたいのだが宜しいか」
そのまま鵑の枕元までやって来た医官は、開口一番、有無を言わさぬ鋭さをその瞳に宿してそう言った。
「水賊討伐の後、矢傷の手当てをした時に私は確かに言ったはずだ。“絶対安静”だ、と」
「……はい」
「それなのに、舌の根も乾かぬうちに強行軍を行ったそうじゃないか。君は、私の言葉が聞こえなかったのか? それとも、理解できないほど愚かなのか?」
「それは、その……。ごめんなさい……」
寝台の上では逃げ場もなく、鵑は小柄な体をさらに縮こませるようにして萎れていく。
そんな様子を、顔を背けて肩を震わせて笑っていた朱澤だったが、医官から「朱澤様は、彼女の武功の“立役者”だそうですね?」と冷ややかな矛先を向けられ、ぎくりと背筋を伸ばした。
その分かりやすい反応に、鵑が寝台の上からにやりと笑い返すと、朱澤は慌てて彼女を指差し、「先生、こいつ全然反省してません!」と言いつけた。
結局、二人揃って叱りつけられる羽目になった。
やがて、ぶつくさと未だ小言を口にする医官の元から、薬研を擦る乾いた音が響き始める。
そうして出来上がった薬は、黒くて青臭い汁が椀いっぱいに湛えられた、見るからに禍々しいものだった。
朱澤は薬を飲むのを手伝うという名目で、鵑の背中を支えて起き上がるのを助け、実に楽しそうにその椀を差し出す。
鵑は露骨に顔を歪めて、「臭い」だの「熱すぎる」だのと言い訳を並べ立てていた。
だが、背後で薬研を動かす医官の手がピタリと止まり、その目が鋭く据わった気配を察するや否や、朱澤の手から椀をひったくるようにして一気に飲み干した。
涙目になりながら「苦い」と溢すと、朱澤は「良薬は口に苦し、だな」となぜか得意げな顔をする。
納得のいかない鵑は、八つ当たりのように朱澤の手の甲を、軽い音を響かせて叩いたのだった。
河泊…関所。
ここまでの戦闘やら設備やら調べるのすごい楽しかった。
歴史を知るのは楽しい。




