1-26『空と水の退却』
船上の喧騒に舞い戻るなり、鵑は迷うことなく弓を持つ私兵を狙って薙ぎ倒した。
物証を失うわけにはいかない――何より、今まさに命懸けで撤退する趙たちに、矢を射かけさせるわけにはいかなかった。
その果敢な姿は、湖面へと逃れる趙たちの目にもはっきりと焼き付いていた。
あんな小さいのが命を張って退路を開いてくれたのだ、ならば今ここで惑うことこそ恥だと、趙は重い物証を積み込んだ小舟とは思えないほどの猛烈な速度で商船から離れていく。
だが、その隣で不意に、水へと飛び込もうとする男がいた。
「おい、馬耼! どこに行く気だ!」
「……。あの人らだけじゃ、逃げきれねぇだろ」
手負いの呂塙と丁昌、そして戦闘はできても操船は素人の鵑。
船上に残された三人の顔ぶれを思えば、たとえ彭を退けたとしても逃げ切る術がないのは明白だった。
ならば自分こそがと趙が引き止めるよりも早く、馬耼――鵑にはただ「馬」とだけ伝えられていたその不骨な男は、凍える湖へと再びその身を沈めていた。
一方、小舟が弓の射程圏内から完全に離脱したのを見届けた鵑は、昏倒させた私兵の手から、手頃な木棍を奪い取っていた。
かつて褒美として与えられた棗の棍と、師から贈られた笄は、未だ李峻の元へと託したままだ。
あれらを受け取るのは、己の戦いを全うし、沈烔堅に真に認められてからだと心に決めていた。
けれど、ここで敵から奪った安物の棍で力を振るうだけなら、自分を納得させられた。
愛用の相棒に比べるべくもない、軽くて頼りない棍を握り直し、鵑は自身を包囲せんとする男たちに向けて猛然と床板を蹴った。
甲板へと続く狭い足場にひしめき合う、私兵たちを容赦なく打ち倒していく。
船体の揺れに呼吸を合わせ、船縁の突起を足掛かりに宙へと跳ね、敵の頭上を翻弄しながら邪魔な者を次々と冷たい湖へと突き落としていく。
揺れる足場をものともせず、嵐のように囲みを突破した先で、彼女の視界に、ようやく見知った――満身創痍の様子の二人が見えた。
けれど、その少し手前。
厚い衣の上からでも、まるで鉄板の鎧でも仕込んでいるかのように分厚く鍛え上げられた、一人の男の背中が立ちはだかっていた。
呂塙が右手を失っているという不利を差し引いても、丁昌の剛力をもってしても苦戦を強いられているのは明らかだった。
大刀を振るうその身のこなし、淀みのない足運び。
ただの粗野な悪人などではない。
一国の軍として鍛え上げられた“武人”としての、寸分のぎこちなさもない洗練された技がそこにはあった。
あれこそが、呂塙たちの言う“彭”に違いない。
必死に息を繋ぐ呂塙と丁昌に向けて、彭が冷酷な声を浴びせかける。
「落ちぶれた負け犬が。惨めな生き方しかできぬ、泥棒下がりの敗残兵め」
その言葉に滲むのは、彭という男の、武人としての傲慢な誇りだろう。
身分の上下という冷徹な現実も、鵑は理解している。
しかし、だからこそ、彼女の瞳は静かに細められた。
――許安や水鏡のような平穏な地は、この大陸ではほんの一握りに過ぎない。
この地域を少し離れるだけで、そこには毎日、血を血で洗い、生きるために親兄弟で殺し合いを演じている地獄があった。
「どうするんだ、呂塙」
「どうするも何も、舟は流されちまってるし、彭は……次凌げるかどうかじゃねえか」
微かに届いた二人の悲痛な囁き。
「おお、そうか。それなら、これで終いにしようや、水賊共!」
彭の嘲笑混じりの咆哮が響く。
かつて“羅雨昕”として各地を巡っていた頃、鵑は嫌というほど地獄を見てきた。
だからこそ、丁昌と賈白翠と共に囲んだ、あのささやかな夕餉を守りたい。
あんな顔を知ってしまった以上、彼らを嗤う言葉だけは、どうしても許せなかった。
次の瞬間、鵑の足音は完全に消えた。
無音のまま虚空へと跳ね上がった鵑は、気配すらも完全に削ぎ落とし、彭の膝裏を鋭く蹴り抜いた。
「ぐ……っ!?」
巨躯がわずかに傾ぐ。
背後からの襲撃者を捉えようと彭が振り返りかけた刹那、鵑は蹴り込んだ足を軸に空中で身を捻った。
そのまま旋回する踵に全体重を乗せ、彭の側頭部へとめり込ませる。
さらに返す勢いのまま木棍を振り抜き――鋼のような肉体に安物の棍は派手にへし折れたが、苛烈な連撃に脳髄を揺らされた彭は白目を剥いた。
ともすれば美しい舞のようですらある、軽やかな跳躍と螺旋の暴力。
勇名を馳せたという武人が泡を吹き、まるで切り倒された巨木のように甲板へと崩れ落ちる。
地響きのような重い音を立てて船体が激しく揺れ、それまで殺気立っていたあたり一面が、水を打ったように静まり返った。
「羅雨昕……てめえ、何の真似だ?」
「……。今は、雨昕じゃないよ」
静まり返った甲板で、掠れた声を上げたのは呂塙だった。
誰もが最強の用心棒と信じていた、彭が一撃で沈んだ恐怖から、取り囲んでいた盧承の私兵たちが明確に怯んで後退る中、今は味方であるはずの呂塙だけが、胡乱げな、剥き出しの警戒の目を鵑に向けていた。
呂塙からすれば当然だった。
かつて自分たちを壊滅寸前まで追い込んだ怨敵が、今さら命を張って助けに来る理由などない。
むしろ、自分たちを切り捨てて手柄だけ持ち帰った方が、沈烔堅の旗下へ入るには都合が良かったはずなのだ。
だからこそ、もし彼女が牙を剥いてきたならば、この任に就く当初に交わした約束を反故にした彼女の悪行を公に晒し、刺し違えてでも道連れにする――。
呂塙が裏で立てていた、その覚悟すら揺らぐほどの困惑が、その低い声には滲んでいた。
そんな男たちの視線を真っ向から受け止めながら、鵑は小さく息を吐いた。
「私はね、あの頃と違って、自分で守りたいの」
「はぁ?」
「私は鵑。夜に鳴いて、鳴いて、鳴き続けて……たとえ血を吐いても、春を告げるために鳴き続ける鳥」
冬の寒さの中で鳴き続けて、血を吐くことを恐れない。
この名に恥じない生き方ができる、胸を張れる夢が、今の自分にはあった。
「だから、一緒に来てよ。私一人がどれだけ高く飛べてもね、目的地には辿り着けないんだよ」
そう言って、かつて自分が壊滅させ、悔しくも取り逃がしてしまった残党に向けて、鵑はいたずらっぽく、けれどどこまでも真っ直ぐに微笑んだ。
貧しさから賊に身を落とすことなど何処にでもある話で、これまで散々見てきた。
羅雨昕のままでは彼らを救えないから、ただ乞われるがままに戦うことしかできなかったけれど。
鵑として生きる今なら、夢を追って、少しだけ欲をかいてみたいのだ。
少なくとも、泥を啜ってでも立ち上がろうとする彼らなら、きっと自分と共に、血を吐きながらでも世界の果てまで飛んでくれる。
そんな、確かな直感があったから。
何を馬鹿なことを、と渋面で睨みつける呂塙の隣から、沈黙を守っていた丁昌がのっそりと歩み出た。
丁昌は倒れた彭の前にしゃがみ込むと、その懐を乱暴にまさぐり、幾重にも厳重に油紙に包まれた何かを引っこ抜いた。
そして、静かにその行動を見守る鵑の前に膝を突き、両手でそれを差し出したのだ。
「丁昌……!」
相棒の突飛な行動に、呂塙も思わず声を荒らげかけた。
しかし、跪く丁昌の頑なな背中と、真っ直ぐな鵑の瞳を交互に見つめ――やがて、喉まで出かかった言葉を呑み込むように、乱暴に頭を掻いた。
呂塙は一歩前に出ると、残された左手にもう片方の腕を添え、不恰好な拱手の形を取った。
かつて自分たちを地獄に落とした少女のなかに、今の彼らは、命を預けるだけの価値を見出だしていた。
「おい! お頭! 生きてるのか!?」
盧承の私兵すら立ち入れない緊迫した空気を切り裂いたのは、商船のすぐ下から響いた、馬耼の声だった。
いつの間にか泳ぎ着いた彼が、流れされたはずの小舟を竹竿で川底へ深く突き刺して繋ぎ止めている。
「とりあえず、逃げよう」
「……お前は向こうへ飛べ」
鵑の短い促しに、呂塙はそう言って支流に続く真下ではなく、船尾の湖側を指差した。
鵑が囮にされることなど、今さら議論するまでもなかった。
鵑はすぐに駆け出し、二手に分かれて甲板を蹴った。
丁昌、呂塙の順で小舟の船尾に着地すると、その凄まじい衝撃を逃がすように、馬耼は泥に突っ張った竹竿をたわませて舟の転覆を防いだ。
そこでようやく呆然自失から我に返った私兵たちが、「捕まえろ!」「あのガキだけでも逃がすな!」と一斉に武器を構えて鵑に殺到してきた。
しかし、鵑は手にしていた折れた木棍を、追っ手の足元へ向けて容赦なく投げ捨てた。
彭という最大の矛であり盾を粉砕された私兵たちは、鵑の視線を前に、当たらないと分かりきった棒きれにすら怯む。
その隙に鵑は船縁を強く蹴り付け、その細い身体を湖上の虚空へと躍り出させた。
「じゃあね」
私兵たちを飛び越え、ひらりと、鳥のように船から飛び降りた白い影。
その下では、すでに竹竿を構えていた丁昌と、川底から引き抜いた竹竿を持ち直した馬耼が、息を合わせて再び川底を力強く突き通していた。
泥を振り払い、小舟がぐっと前へと動き出す。
一瞬の機を狙い、速度の乗り始めた船首へと鵑は舞い降りていく。
呂塙の指示で、小舟が動き出してすぐに竹竿を引き戻した馬耼が、その衝撃ごと受け止めるように待ち構え、鵑の身体を両腕で捕まえた。
「しっかり掴まっとけよ!」
丁昌が声を張り上げ、船尾で竹竿を押し込む。
群生する葦を鮮やかに掻き分ける見事な竿さばきによって、小舟は矢のような速度で商船から離れていった。
小さくて軽い鵑は、その速度と激しい揺れに振り落とされないよう馬耼に抱き抱えられたまま、商船から向けられた弓の掃射を間一髪で逃れるよう丁昌に退路を指示し続ける。
やがて完全に矢の届かぬ範囲まで逃げ切ったことを確認すると、彼女は、ようやく深く息を吐くことができた。
しかし――。
「おい! あれ、趙たちだろ!?」
苑湖へと逃れた先に、二隻の巨大な楼船と、それを取り囲む複数の快速舟が連なるようにこちらへ向かってきていた。
一足先に物証を乗せて撤退したはずの趙――趙宇たちが、楼船の甲板に立たされているのが見え、呂塙が怒号を上げる。
「テメエ、やっぱり裏切ってやがったのか!?」
向けられたその言葉に鵑は目を丸くし、心外だとばかりに頬を膨らませた。
一発殴って大人しくさせてやろうかと思わないでもないが、荒々しく揺れる舟から落ちないよう、馬耼に抱き込まれていて身動きも取れない。
「あの船は……盧侔か」
溢すように丁昌が言った。
「そう。これを誰より欲しがってるのは、あの人だからね」
その呟きに鵑は頷くと、懐にしまい込んだ油紙の束を取り出した。
恭しく折り畳まれた油紙を開くと、一枚の絹布が現れる。
そこに墨で書かれた内容に素早く目を通すと、鵑は再び油紙で厳重に包み直した。
「……何が書いてあるんだ?」
「うーん……。『利に令りて智昏む』って感じ?」
「あ? 何言ってんだ?」
呂塙の反応を面白がるように「そのうち分かるよ」と屈託なく笑い、それからすぐに口許を引き締めた。
丁昌に向かう先は趙宇たちの囚われている大船だと示し、小舟は速度を落とさぬまま進んでいく。
そうして手筈の船へと近付いていくと、船縁に並んだ兵たちが、番えた矢の狙いを鵑たちに定めた。
指揮官の言葉ひとつで、あれらは一斉に降り注ぐだろう。
そんな生きた心地のしない状況のなか、背後からは馬耼越しの、事情を知らぬ強い猜疑心が突き刺さる。
けれど鵑はそれを無視して、馬耼の腕から抜け出てすっくと立ち上がると、その小さな両手を固く組み、見上げる大船に向けて声を張った
「お前たち、ここで何をしている?」
「……お答えする前に、その物騒なものを向けるのはお止めください」
拱手こそ組んでいるが、鵑はそう言って返事を拒んだ。
「……卑しい賊の言うことなど、どれも同じだな」
顔を見せた初老の男は、偉そうに髭を撫で付けながら鵑たちを見下ろした。
そして、呂塙と丁昌の顔を見た瞬間、その色を僅かに変えたのを鵑は見逃さなかった。
恐らく彼らの素性を知っているのだ。
場合によっては、過去に盧承に仕えていたことさえ把握しているのかもしれない。
盧侔の配下であるその男からすれば、ただ見慣れない白髪の少女――鵑の失言を待っているに過ぎないのだろう。
「それは残念です。盧侔様は、約束を反故になさるお方だ、と噂が立ってしまいますね」
鵑は何食わぬ顔のまま、そう言って拱手を解いた。
こんな時、素直なだけでは駄目だ。
今、鵑の手元に在る“もの”が何なのか、彼らがどこまで把握してるのかを見抜かねばならない。
「私たちが持っているのは、盧侔様が手にするはずの“織物”です。それも、“最高級の絹”でできた、ね」
こんなとき、師ならきっと、不敵に笑うだろうから。
鵑は、精一杯の不敵な笑みを浮かべた。
4枚切りの食パンをトーストして、バターを染み込ませて食べるのが好きです。




