1-30『名簿』
鵑が客将として最初に命じられたのは、元水賊たちの身柄を引き受け、彼らを把握することだった。
まだ完全に罪を赦されたわけでも、正式な兵に編まれたわけでもない彼らは、河港近くの古倉を仮宿舎としてまとめて移されていた。
二階や奥には寝起きできる場所があり、外には舟着場がある。
表向き彼らは、州牧府預かりの水夫見習い。
けれど自由な身ではなく、門には見張りが立ち、武器は返されなかった。
鵑がこの場に着いて目にしたのは、昨夜の酒が抜けきらない様子の男たちが転がっている姿だった。
彼らがくるまっていたのは使い古された薄い衾だった。
いくら南方とはいえ、晩秋も終わりに近い。
まともな寝具を早めに与えないと、凍え死ぬ者が出るかもしれない。
「おーきーてー! 仕事だよ!」
「……仕事ぉ?」
いびきを上げて転がっていた何人かの肩や頬を叩いて起こして回る鵑。
寝起きの低く掠れた声で凄む趙宇は、昨日あれだけ鵑に親しげにしていた男と同じとは思えない迫力がある。
「あれ……? お嬢?」
「起きてー」
「……なに? 嫁に来たの?」
「違うよ。名簿作るの。ほら、起きて」
寝惚け眼で両腕を広げた趙宇を無視して、鵑は隣の男の肩を叩いた。
大きな欠伸をしながら伸びをする趙宇を置き去りに、二階に続く階段の軋む板を踏み締めて登る。
そこでは丁昌が眠りこける呂塙を無視して、掃き掃除をしていた。
鵑の姿を認め、丁昌の持つ箒が一瞬だけ止まる。
少しだけ決まりが悪そうに視線を泳がせた。
「……鵑か。仕事と言っていたな?」
「あ……うん。皆の名簿を作るように言われてるんだ。丁昌にも、手伝って欲しい」
「そうだったのか。……分かった。こいつらを起こして、すぐに降りよう」
物証奪取に走っていた時には、後ろめたさを覚える暇もなかった。
けれど、対峙したあの時に言い合った言葉は、彼の考えを真っ向から否定したものだ。
鵑はそれを間違いだったとは思わない。けれどあの時、どれだけ言葉を尽くしても丁昌には届かなかった。
その感触だけが、まだ胸の奥にわだかまりとして残っていた。
対する丁昌は、年長者ゆえの余裕、あるいは諦観からか、一呼吸で気まずさを押し込めて、あまりにも自然な態度と何気ない言葉で鵑に向かい合った。
情けなくも、そんな態度に胸の奥の強張りが少しだけ解けていく。
その態度を期待の表れと受け取るなら、賈白翠のことも、逃げずに聞かなければならないと拳を握り締めた。
鵑の意気込みを知らない丁昌は、粗末な箒を壁に立て掛け、呂塙や二階で睡眠を貪る男たちを叩き起こして回る。
一階では、一足先に目覚めた腹いせか、未だ眠りこける仲間を足蹴にして起こして回る趙宇が見えた。
野蛮で、雑な連中だ。
そんな声が聞こえた。
きっと本人は小声で言ったつもりなのだろうが、何もない古倉にその声はよく響く。
声の主は法曹の吏だ。
鵑はその声に振り返りかけ、けれど何も言わずに男たちを見た。
否定できるほど、彼らの過去は軽くない。
今ここでその言葉に頷くことも異を唱えることも違うと、目を細めて言葉を呑み込み、古倉の入口付近を見て息を吐いた。
鵑と共にこの場を訪れた書吏たちが、黙々と仕事の支度を進めていた。
法曹の吏が粗末な低い机に竹簡を置き、起き抜けの元水賊たちを顎で一人ずつ呼びつける。
書吏は呼び出された者から、名前、年、郷里、技量などを聞き出して記録し、州牧府預かりの者として、ひとりずつ簿籍に載せていった。
鵑が彼らを整列させ終え、書吏の手元を覗き込むと、竹簡には申告された内容のほか、傷や見た目の特徴、罪状、妻子縁者の有無まで克明に書き込まれていた。
先の蘆湾戦で捕縛された水賊は四十三名。
全員の名、特徴、罪状、縁者を書き付けるだけでも大仕事だった。
さらに偽りがないかを呂塙や丁昌に確かめ、必要なところを直していくうちに、全員の改めが終わる頃にはすっかり日が暮れ始めていた。
出来上がった名簿の正本は法曹へ戻されるため、写しは明朝届けると言われた。
鵑は封じられる前の竹簡を一通り読ませてもらった。
官吏は、こんな小娘にはどうせ覚えられまいと鼻を鳴らして帰って行った。
しかしその成果は、州牧府からの炊き出しを配る時にすぐ現れた。
近くに荷役人や水夫用の炊事場があるが、古倉の外に仮竈が組まれ、大鍋で粟粥と干し魚の羹が煮られた。
州牧府の倉から出された糧を、河港の下働きたちが木桶に移して運び、見張りの兵が睨む前で、元水賊たちは鵑から一人ずつ椀を受け取る。
鵑は相手の顔を見て名を呼び、四十三名誰一人間違えることなく椀を渡したのだ。
見張りの兵は、危ぶむように鵑を見ていた。
元より彼女は水賊と繋がっていたのではないか、そんな疑念が浮かぶが、椀を受け取る男たちの訝しげな、或いは驚嘆する反応は偽りなく見えた。
「全員の名前を覚えたのか?」
「うん。まだ名前と何ができるかくらいしか覚えてないけど」
「……十分だろう」
率先して手伝う丁昌は、鵑のこともなげな様子に目を丸くしていた。
丁昌は大したものだと笑い、その大きな手で鵑の頭を撫で回した。
そして一番最後に食事を受け取ると、それを掻き込んでいた。
食事後、呂塙と丁昌に明日の段取りを伝えて解散させた。
けれど丁昌を呼び止め、鵑は躊躇いながらも意を決して話を切り出した。
「あの、丁昌。白翠姐の、ことだけど……」
「ああ……。俺たちのことで、お前には心配を掛けちまったな。……悪かった」
丁昌が深々と頭を下げる。
鵑は驚いて頭を上げるよう言ったが、丁昌はなかなか従わなかった。
賈白翠という女性は、鵑には浅からぬ何かを感じる人だ。
背後から鎌を向けられ、臭いと罵られ、皂莢で泡まみれで洗われたから、そう思うのかもしれない。
けれど、それでは足りない、何かがある。
その人が、丁昌を一目見ただけで安堵の息を吐いた姿が胸に焼き付いて離れない。
あの女性にとって、この熊みたいな丁昌という男はかけがえのない存在なのだ。
ようやく頭を上げた丁昌に、疑問を投げ掛ける。
彼なら、その答えを知っている気がした。
「……白翠姐は、怒るでしょうか」
「いや。……あいつが口うるさい時は、照れ隠しさ」
丁昌もまた、賈白翠を語る時の眼差しが柔らかい。
それはきっと、今も賈白翠が丁昌を案じているだろうことを彼は知っていて、丁昌もまたそんな賈白翠を想っているからだ。
「白翠姐は……山村を救ったら、水鏡に来てくれますか?」
「……。あの村に恩義を感じてるからな。お前次第だ」
「私……次第?」
丁昌が鵑を見る。
鵑の向こうに賈白翠を見ているのか、酷く優しい眼に戸惑う鵑を見ながら、丁昌は力強く頷いた。
真剣に悩むように眉間に皺を寄せた鵑の頭を、その大きな手で撫でた。
『あいつは、お前をえらく気に入ったみたいだ。あんな嬉しそうに話してるのを見たのは、いつ以来だったかなぁ』
『俺達には子供がいないから、余計に可愛いんだろうよ』
ふと思い出した、あの時の丁昌の言葉。
もし仮に、それは賈白翠だけでなく、丁昌も同じなのだとしたら。
――いや、それを望むことは許されない。
そう思う傍らで、何故だか、胸の奥に期待のようなものが渦巻く。
求めてはならない、在ってはならない存在を今さら求めることなど、師に言われるまでもなく、とうの昔に置いてきた筈だ。
言葉を失くしたように固まる鵑を「明日も早い」と丁昌が促して、くるりと古倉に背を向けさせた。
そのまま背を軽く押されることで、ようやく動き出した鵑が振り返ると、丁昌は手を振っていた。
どうしてこんなにも賈白翠を救いたいと、守りたいと思うのかは――分からない。
けれど、賈白翠と丁昌の二人と一緒に食べた、あの貧しい食事が、どうしても忘れられない。
だから、あの家庭を守りたいのだと思う。
そしてもう一つ、この水鏡で守りたいと思う家庭を思い出す。
今朝、李峻は居候だった鵑の見送りに「またいつでも来るといい。妻も娘たちも喜ぶ」と笑っていた。
特に懐いていた汀は、今頃頬を膨らませて鵑を探しているかもしれない。
その姿を思うと、胸の奥が少しくすぐったくなった。
鵑は、居所として与えられた、古倉に併設された小さな小院へと向かった。
鵑に仕える、年かさの女中と下女も州牧府から遣わされて、既にそこで待ち構えていた。
小院は長く使われていなかったらしく、最初に開けた時には厚い埃と蜘蛛の巣、黴の匂いが出迎えた。
それでも、日中に女中と下女が掃き清め、寝台、机、燭台、水甕など、生活に必要なものは一通り州牧府が揃えてくれていたおかげで、難なく生活はできそうだ。
燭台に火を灯して、沈烔堅から渡された簡牘の山に向き合う。
なんだか物足りなさを感じるのは、隣に師が居ないからだと気付いて、髪に挿した笄を手に取った。
少し短めで、青みを帯びた小さな白玉と、彫られた蝶紋様だけが飾りの、梓を磨いた派手さの欠片もない笄。
あの頃、師が彼女に叩き込んだ書簡の数に比べれば、目の前の山など何でもない。
いつかのように師から逃げることも、分からぬたびに問い返すことも、ましてや勢い任せに飛び付いて甘えることも許されない今は、一人でこれくらい覚えねば。
一度目を閉じて、ゆっくりと息を吸い、またゆっくりと吐き出す。
鵑の部屋から灯りが消えたのは、空が白み始めた頃のことだった。
――――
鵑による元水賊の統制は、波乱続きだった。
元が荒くれや流民、作法も知らない平民、あるいはそれ以下の扱いを受けてきた者が多かったのだから、当然だ。
けれどそんな彼らに鵑は、最低限と称し――実際には軍務と生活に必要な文字を厳選した七百余字の習得を課した。
明らかに最低限ではない文字数に、時に不服の声を上げて投げ出す者もいた。
けれど鵑は付きっきりでその文字の意味を教え込み、三月経つ頃には、全員が自分の名、仲間の名、数字、米や船などの頻出字が読めるほどになっていた。
彼らは呂塙、丁昌の見立てのもと、幾つかの班に分けられた。
水鏡の警備、水路巡回、船や道具の整備、船荷の検分、読み書きと軍律の教育を繰り返していくことで、賊を兵に作り替えていった。
水鏡の警備では、初めは「元とはいえ、水賊による警備など不要」と市民から不満も上がった。
それでも鵑は彼らと共に警備に参加し、時に肩がぶつかったと市民に絡んだ部下を――躊躇いのない、見事な飛び蹴りで打ち落とした。
間髪入れずに当事者の首を掴み、力任せに地に伏せさせると、自らもその場に膝をついて深々と頭を下げる。
「彼らは軍律の教育中であり、この場は許して欲しい」と矢継ぎ早に謝罪すると、連帯責任で同班の男たちにも頭を下げさせた。
その勢いに圧されて市民が頷くと、鵑は素早く立ち上がり、男たちを引き連れ、市民に笑顔を向けて去っていったのだ。
そんな話は、既に面白おかしく市井に広がっていた。
従えるべき彼らと鵑との間に、未だ確執はあった。
だが、元首領である呂塙、そして次席の丁昌が率先して鵑に従う姿や、馬耼、趙宇といった実力者が脇を固めることで、大きな反発は起こらなかった。
そんな中、未だ先の蘆湾での戦いを忘れられず鵑を許せない一部が、荷役明けの半日休みに昼間から河港近くのうらぶれた酒楼で愚痴を零していたことがあった。
「何が“お嬢”だ、趙の野郎」
「馬もだ。あいつ、この前、あの女に近付こうとしただけで睨んできやがった」
酒を呷り、監視の目も気にせずに店の端で不満を言い募る。
その内容は鵑が気に入らない、それに従う仲間も気に入らないと、どこにでもある不満だ。
店の雰囲気を悪くさせる中、一人の男が無遠慮に男たちの卓に近付き、彼らの席に音を立てて座った。
「よお、飲んでるか?」
趙宇だ。
普段となんら変わらない様子で、給仕に杯を持ってこさせる間、彼らの空の杯に卓の上の酒を注ぐ。
「……なんの用だ」
「何だよ。今までもお前らと普通に飲んでただろ」
酔い任せの剣呑とした空気を気にもせず、自分の杯が来るとそれに酒を注ぎ、軽く呷る。
「俺はいいけどよ、馬の前で言うなよ。……殺されるぞ」
「あ?」
「あいつのあれは、恋だの愛だの……そんな色っぽいもんじゃねぇよ、多分な」
声を荒げるでもなく飄々としたいつもの様子で馬耼の話題を持ち出す趙宇に、くだを巻く男たちは押し黙る。
今まで愚痴の的にしていた趙宇本人を前に、同じことが言えるほどの度胸は無いようだ。
「それによ、お前ら勘違いしてんじゃねえの? 俺らがこうやって酒飲めんのも、そもそも生きてんのも、お嬢のおかげだろうがよ」
杯の中身を飲み干して、手慣れた仕草で次を注ぐ。
そのあまりに淡々とした言葉に、一人が勢いよく立ち上がる。
「あの夜に死んだヤツらのことを忘れたのか!?」
その怒声は、辺りの注目を集めるには充分過ぎた。
けれど、怒りをぶつけられた当人はどこ吹く風と杯を持ち上げる。
「……俺らは生きてんだろ」
「ッ! テメェ!!」
言い返すことは出来ず、立ち上がった男が拳を振り上げる。
それまで凪のようだった趙宇の瞳にも、険しいものが混じった。
「だから納得しろ、なんて言わないよ。私が皆に刃を向けたのは、本当のことなんだから」
男たちを止めたのは、そんな鵑の声。
趙宇の影に隠れるように立っていた彼女は、菖蒲色の瞳で男たちを真っ直ぐに見た。
拳を振り上げた男は、その真摯な眼差しに気まずそうに拳を隠す。
「……あら、お嬢。いつからそこに?」
「えっと……『お嬢のおかげだろうがよ』ってところから?」
「はー。盗み聞きなんて、いい趣味してんね」
鋭さを納めた趙宇がからかうように言うが、鵑は首を傾げる。
「殴り返そうとしてた人よりは、マシじゃないかな。喧嘩は懲罰だよ?」
大仰に鼻を鳴らし、短い腕を組む鵑。
そのわざとらしい仕草を前に、趙宇は一拍置いて吹き出して笑う。
笑って、さりげなく握り締めていた、節くれ立った拳を緩めた。
「じゃあ、まだ喧嘩してないし、見逃してくれんの?」
「うーん……林和、史仁、金謙。言いたいことはある?」
趙宇から視線を滑らせて、鵑は酔いどれの男たちに水を向ける。
もはや酔いは醒めたかのように青い顔の男、諦観から首を緩く横に振る男、そして、未だに隠しただけで納めることの出来ない拳を握った男は押し黙る。
しばらくの沈黙の間、鵑は彼らを急かすことなくただ真っ直ぐに見上げていた。
白くて小さな、儚いもののような有り様なのに、その菖蒲色の視線に射抜かれると――あの夜の恐怖がぶり返し、彼の胃を締め上げた。
唐突に口元を押さえて、堪えきれずに吐き出した男に他の男たちや給仕たちが騒ぎ出す。
誰よりも早く、彼の介抱に手を伸ばそうとした趙宇を引き留めたのは、棍の石突きが地面を砕く音だった。
背負っていた棗の棍で、垂直に土間を穿った鵑は無言のまま、吐瀉物にまみれた彼が答えるのを、なおも待っていた。
それまでは手を貸すな、という言外の圧を放つ少女に、彼はとうとう折れた。
「……ねえ、よ」
自らの裾で口元を拭う男の視線から、悔しさが諦めに変わる瞬間を見届けるや否や、鵑は素早く棍を背負い直し、汚れるのも構わず彼の背を摩った。
趙宇や給仕にも声を掛けてその場の緊張を解くと、手早く周辺が片されていった。
そうした小さな衝突と折り合いを幾度も重ね、暦の冬が終わりに差し掛かる頃、彼らは鵑をただの上官ではなく、“主”として見上げるようになっていった。
昨日の夕飯に海鮮塩焼きそばを作りました。
次は倍量で作ります。




