1-23『水上戦』
「……来たか」
楼船の重厚な甲板を鳴らし、沈司朗は闇の奥を見据えた。
支流から本流へと合流する出口。
船頭の言葉通り、そこには無数の分流が葦原の迷路となって広がっている。
その細かな出口にはことごとく鉄鎖が沈められ、杭が打ち込まれている。
水賊に残された道は、この蘆湾へと流れ着く航路のみだ。
静寂は、不意に鳴った、小舟の「きしり」という音に破られた。
一隻、また一隻。
水賊は逃走を最優先とし、標的を分散させるべく小舟に分乗して現れた。
その数は、当初の予測を上回る。
暗がりから這い出した影に、船内がにわかに殺気立った。
城壁さながらの船縁に並ぶ将卒たちの、札甲が擦れ合う硬い金属音。
櫓の上に配された弩に弦を掛ける低い軋み。
それらが混じり合い、一触即発の空気が水面までひりつかせる。
だが、司朗はまだ動かない。
後続が視認されてようやく、足の速い走舸が敵の両翼を包み込むように動き出した。
鶴翼に船団を展開させると、ようやく沈司朗の右手が鋭く振り下ろされた。
次の瞬間、楼船の櫓から、汊口に向けて弩兵が一斉に射掛けた。
巻き上げ機から解放された弦が弾け、地鳴りのような重低音が夜気に響く。
放たれた無数の弩矢は放物線を描いて小舟を蹂躙した。
堅牢な矢尻に底板を貫かれた舟はあえなく浸水し、激しい水飛沫を上げる。
漕ぎ手を失い、転覆していく舟。
その傍ら、水賊たちは泳げなくなった仲間の腕を掴もうと、必死に身を乗り出していた。
「逃がすな!」「退路を塞げ!」――怒号が飛び交い、夜の静寂は修羅場へと一変させた。
だが、沈司朗は違和感に目を細めた。
弩に射抜かれ、葦を血飛沫が染めている。
だが、その凄惨な光景の中にある舟の数に対して、生きた人数があまりにも少なすぎる。
水面に広がる飛沫と、力なく浮かぶ人影。
――小舟に積まれた葦が炎を上げると、その周囲の河面が鮮やかに浮かび上がった。
「下だ! 奴ら、船底に穴を空ける気だ!」
直感的な叫びが甲板を突き抜けた。
墨を流したように真っ黒な河面の下、水賊たちはすでに魚と化し、潜り込んでいたのだ。
彼らは最初から船を捨て、潜水による楼船への肉薄を狙っていた。
さらに、残った舟は燃え盛る葦を山積みにして、楼船に向かって特攻を仕掛けてくる。
「水兵、河へ飛べ! 舵を守れ! 長鉤隊、小舟を近寄らせるな!」
司朗の下令とともに、小型の短刀を咥えた水兵たちが次々と暗い河へと身を投じた。
月明かりも届かぬ水中での、感覚だけを頼りにした凄惨な刺し合い。
水面には不気味な泡が絶え間なく浮き上がり、底から湧き上がる血が夜の水をさらに黒く濁らせていく。
船縁では、兵たちが長い柄のついた鉤爪で、白煙を上げ火を吹く舟を、必死の形相で押し返していた。
「くそ……っ、風向きが悪い!」
船縁を守る兵たちが顔を歪め、激しく咳き込み始めた。
視界を奪うのは、火船から上がる毒々しいまでの白煙だ。
湿った葦が燻る不完全燃焼の煙は、風に煽られて楼船を執拗に包み込み、兵たちの喉を焼き、目を潰していく。
一人、また一人と煙に咽せ、強固だったはずの陣形がわずかに緩む。
その一瞬の隙を突き、炎を纏った小舟が楼船の側面、船腹へと激突した。
すぐさま船体に引火するわけではない。
しかし、船底の防腐処理に施された漆が、火船の熱を帯びれば話は別だ。
一度漆に火が回れば、内側から爆ぜるように燃え広がる。
沈司朗の頬を、焦熱の風と冷や汗が同時に伝った。
「懸幕を下ろせ! 水嚢を惜しむな!」
熱された漆が放つ、鼻を突くような特有の異臭が立ち込め始める。
沈司朗の怒号が、白煙に巻かれた不透明な甲板に響き渡った。
兵たちは目に涙を浮かべ、喉を刺す煙を堪えながら、ずっしりと水を吸った厚手の牛皮幕を船縁から一斉に投げ落とした。
水を湛えて重く垂れ下がった牛皮は、小舟と楼船の間に割り込むように広がり、漆を灼こうとする炎を強引に圧し潰した。
肉が焼けるような凄まじい水蒸気が噴き上がり、さらなる煙が視界を白く染め上げていく。
状況は一進一退。
視界を塞ぐ煙が渦を巻き、水面下では兵たちが命を削る白兵戦を繰り広げている。
その混迷のただ中で、沈司朗は未だ白く煙る前方を鋭く睨み据えていた。
ふ、と沈司朗の口許がわずかに緩む。
しかしそれは刹那のことで、すぐさま軍指揮官としての峻厳な表情へと引き締められた。
「水兵は汊口に向かえ! 長鉤隊は水兵が離脱次第、水中を狙うんだ!」
沈司朗の命が、太鼓の音とともに戦場を震わせる。
燃え盛る小舟は、今なお楼船にその船首を向け、じりじりと距離を詰めている。
けれど、沈司朗は船体の守備以上に、船底に潜り込んだ水賊を一掃することを選んだのだ。
河面には、重々しい赤で水を浸食する水賊の体が、動く気配も呼吸の泡を吐くことも忘れ、ただ無造作に浮いていた。
水中での死闘を演じていた味方の兵たちが、その隙間から次々と顔を覗かせた。
彼らは沈司朗の指示を受け、速やかに封鎖された支流の出口へと向かって泳ぎ出す。
――その、途中。
風に煽られた火の粉を浴びて、赤黒く焼けた鉄鎖の上を、羽毛のような軽やかさで駆け抜ける影があった。
熱が皮甲を焼く間もなく鉄鎖を蹴り、その勢いのまま火船へと躍り出る。
煙を巻き上げる小舟に降り立ったその影は、すかさず舟に残っていた水賊を容赦なく河の中へと蹴り落とした。
続いて、舟の均衡を保つために積まれていた、己の体重ほどもありそうな重い砂袋を掴み上げる。
全身の筋を軋ませ、咆哮とともにそれを燃え盛る葦の山へと叩きつける。
砂袋の口がほどけ、滝か雪崩を想起させる音を立てて、砂が火元を圧殺した。
続けざまに、人影は空になった麻袋を河へと放り投げて浸し、水を吸って鉄のように重くなったそれを、煙の噴き出す隙間へと力任せに被せていく。
そうして炎と煙を物理的に封じ込めた小舟を力強く蹴ると、人影は次なる燃え盛る小舟へと渡っていった。
水中からその光景を見上げていた潜水兵たちは、呆気に取られたようにその超人的な行動を凝視していた。
よくよく見れば、激しく動くその腕を、赤い鮮血の線が辿っていたようにも見えた。
けれど、手負いを感じさせないその苛烈な動きに、潜水兵たちは己の見間違いを疑ったが、頭上から降り注いだ鋭い声に慌てて顔を向けた。
「上がれ! あの娘に続くぞ!」
蒙克の鋭い号令とともに、差し伸べられた別動隊の手によって、潜水兵たちは次々と船上へと引き上げられていく。
見れば、すでに鎮火させた小舟には、他の兵も乗り込んで櫂を漕ぎ出していた。
「大人しくしていろと言ったのに、あの小娘……!」
毒づきながらも、その手つきは素早く次の指示を飛ばしていた。
そんな蒙克の歯噛みを余所に、楼船を包んでいた白煙はみるみると勢いを失っていく。
あれが、“小娘”の仕業だとは、にわかには信じられなかった。
「やはりお前か、羅雨昕!」
立ち込める白煙を切り裂き、男が絶叫した。
鵑がいよいよ燃え盛る小舟の一隻へと飛び移った先にいたのは、髭面に覆われた醜悪な顔を歪ませる、むさ苦しい小太りの男だった。
水賊の首領、呂塙である。
呂塙は逃走用の小舟の中央、炎に照らされながら、恐怖と憎悪が混濁した瞳で鵑を睨み据えていた。
「忘れもしねえ!三年前、お前のせいで俺たちは落ちぶれた!」
鵑は、揺れる小舟の船首を爪先で打ち付けるように叩いた。
その音は、死をもたらす足音のように呂塙の耳に届いたはずだ。
年数まで鮮明に覚えているとは、余程その時の傷跡が深いのだろう。
「逆恨みもいいとこですね」
鵑を名乗るよりも以前、水賊の討伐を目的に水鏡へと渡った際に対峙した因縁の男。
丁昌があれほど断定的に“羅雨昕”の名を出したのは、噂の出所がこの呂塙だったからだという推測は、今や確信に変わった。
「それより、もう沈烔堅様の軍門に下った方がいいんじゃないですか?次なんて、無いですよ」
「ふざけるな!お前が居なきゃ、こんなことにはならなかった!」
「……だから、それは逆恨みですって」
呂塙は吠え、携えていた重厚な環首刀を掲げた。
鵑は足元に落ちていた別の刀を拾い上げ、炎を払うように一振りする。
揺らめく火影が、彼女の頬にこびり付いた返り血と、右肩と左腕に突き刺さったままの、折れた矢の軸を赤々と照らし出した。
鵑の爪先が、もう一度船板を叩く。
乾いた音が響くと同時に、彼女の身体は弾かれたように宙を舞った。
呂塙の眉間を狙い、頭上から刃を振り下ろす。
鵑の鋭い一撃を、呂塙は環首刀を斜めに寝かせることで受け流し、そのまま体重を乗せて鵑を弾き飛ばす。
狭い小舟の上、刃と刃が激しくぶつかり合う金属音が連った。
鵑の指先は、すでに右肩の負傷による痺れで感覚が鈍り始めていた。
刀を握る掌には嫌な汗と血が混じり、一撃を交わすたびに肩の傷口から熱いものが溢れる。
対する呂塙は、鵑の負傷を見逃さなかった。
小舟の揺れを利用した重厚な薙ぎ払いを繰り出し、鵑は刀を垂直に立ててこれを受けたが、衝撃で膝が深く沈み、船板が煙と共に悲鳴を上げた。
呂塙が追撃のために大きく踏み込んだ瞬間――崩れゆく船体の傾きを逆手に取り、鵑は身を預けるようにして半身を沈めた。
空を切った呂塙の豪剣。
その硬直を見逃さず、鵑は最短の軌道で肘を突き出し、相手の手首にある脈へと鋭い衝撃を叩き込んだ。
呂塙の指先が麻痺し、環首刀が夜の河へと虚しく舞い落ちた。
獲物を失った呂塙は、己の腕に走る激痛に顔を白くさせ、慌てて周囲を見渡す。
だが、そこにあるのは冷たい河と、沈司朗率いる楼船の巨大な影だけだった。
水に潜んでいた水賊たちは、引き揚げられた網に、文字通り魚のように絡め取られ捕らえられた。
鵑の刀は、いつでも首を撥ね飛ばさんばかりの鋭さで呂塙の喉元に突きつけられている。
楼船の船縁からは幾十もの長鉤が突き出され、櫓の上の弩兵たちは、指先ひとつで弦を解き放つ準備を整えていた。
呂塙は屈辱に震える拳を下ろし、ゆっくりと膝を突く。
そして。
それは、わずかな油断であったのかもしれない。
負傷と疲労、そして煙による眼痛。
鵑が霞む目を一瞬擦った、その刹那のことだった。
呂塙は豹のような素早さで身を翻すと、黒々とした河へと飛び込み――。
「え……?」
鵑の細い足首を強靭な握力で掴み、そのまま無理心中を図るように漆黒の淵へと引きずり込んだ。
慌てて息を止めるが、衝撃とともに冷たい水が鼻腔を突き、思考が白く染まる。
足首に感じる万力のような力を蹴り落とそうと踠くが、水中に不慣れな鵑の身体は浮力を制御できない。
肺の中の空気が急速に失われていく。
鵑は浮上を試みるべく身をよじったが、巻き上がった泥と気泡、そして夜の暗闇に阻まれ、もはや上下の感覚すら失われていた。
手探りのまま、足元の影に向けて手にしていた刀を闇雲に振るった。
己の足に痛みはない。
だが、視界の隅で赤黒い何かが墨を流したように広がり、周囲の水を濁らせていく。
その直後、ずしりと重かった沈み込む感覚がふっと消えた。
この好機を逃すまいと、鵑は微かに届く水面の光を求めて視線を滑らせる。
だが、渾身の力で水を蹴り上げようとした瞬間、右足の筋が不吉な音を立てた。
――動かない。
冷気と負傷による限界。
真っ暗な河の底でゆらりと揺らめく水草が、溺れる者を地の底へ引きずり込もうとする黄泉の手のように見えた。
ああ、なるほど、と。
どこか他人事のように納得しながら、鵑は強張っていた身体から力を抜いた。
下手にあちらを意識しては、意識が途切れるのが早まる。
そうして水底を漂うことを受け入れた直後、背後から荒々しく、けれど力強い腕がその身体を抱き上げた。
「はッ! げほっ……! ごほッ、ごほ……っ!」
「こ、の……馬鹿が!!」
激しく咳き込み、肺に溜まった泥水を吐き出す鵑の耳元で、雷が落ちた。
そう錯覚するほどに凄まじい怒声は、沈司朗のものだ。
今なお、荒い呼吸を繰り返す鵑を抱きかかえ、力任せに抱き上げている腕もまた、沈司朗のもので。
「油断しやがって……! それに、この……ッあ"あ、くそ! 蒙克! この馬鹿を医官の所へ連れていけ!」
「はっ!」
鎮火した小舟を操り、すぐ傍まで漕ぎ寄せていた蒙克が、慌てて鵑の細い身体を受け止める。
沈司朗は鵑を引き渡すと、自らは隣の小舟へと兵の手を借りず、飛沫を上げて乗り上げた。
その直下、沈司朗の命を受けて飛び込んでいた潜水隊が、呂塙を捕えて浮かび上がって来た。
呂塙は水中での攻防で右手首の先を失い、赤く濁る水面を背に、力なく意識を失っていた。
沈司朗は荒ぶる感情を強引に抑え込み、状況を確認すべく周囲に鋭い視線を走らせる。
「し、ろ……さま」
「……なんだ」
隣の小舟から、蒙克の制止を振り切るように、か細い、今にも消え入りそうな声で鵑が呼び掛けた。
沈司朗はその声を逃さず拾い、眉間に深い皺を刻んだまま顔を向けた。
「あの人たち……裁可に、猶予を……」
「……寝てろ!」
突き放すような言葉。
だが、その声は微かに震えていた。
それを最期に、鵑は張り詰めていた意識の糸を静かに手離した。
蘆湾の夜を焦がした炎は、ようやくその勢いを弱め始めていた。
この話を書くのに、チャッピーとジェミーに当時の状況やらなんやら、資料として色々聞いたけど、滅茶苦茶楽しかったです。
歴史って面白い。




