1-24『助命嘆願』
鵑の身体には、古い傷跡が多い。
師に拾われる以前に刻まれたものがほとんどで、かつて「これ以上は治らない」と言って嘆いた師は、新しい傷が増えることを嫌った。
(――また、怒られるんだろうな)
そんな当人の呑気な感傷とは裏腹に、肩と腕の処置は容易ではなかった。
矢は幸いにも深くは達していなかったものの、引き抜く際には相応の鮮血が流れ、医官の表情を険しくさせた。
本来ならば、医官の監視下で絶対安静を命じられているはずだった。
だというのに、本人は今、政庁正堂の執務室にいた。
水賊討伐の事後処理に追われる沈烔堅の前で、鵑は拱手を崩さず跪いている。
「……なんの真似だ」
陳宜の冷徹な声が室内を打つ。
鵑は答えない。
傷口の疼きを無視して、彼女は沈烔堅からの許しが出るまでは一分たりとも動かない、という不退転の構えを固持していた。
「この密書は……お前だな?」
沈烔堅が、重厚な執務机の引き出しから一枚の紙を取り出し、鵑へ向けた。
ようやく顔を上げた鵑は、瞳を逸らさず静かに頷く。
書状に記されたのは、豪族の家督争いに端を発する、州の根幹を揺るがす不穏な動きだ。
「内容が真実なら一大事だが……間違いであれば、首が飛ぶぞ。俺も、お前もな」
「……承知しております」
誣告の罪は重い。
それを口にする沈烔堅の声には、有無を言わせぬ圧があった。
対する鵑の声もまた、それを受け止める真摯な響きを帯び、菖蒲色の瞳に揺らぎはなかった。
「あるお方と調べる中で、二重帳簿の実態を掴みました」
「商人の不正など、よくある話だ。それと『これ』を繋げる理屈は?」
陳宜が淡々と問いを重ねる。
不確かな憶測で大物を動かすわけにはいかないという、参謀としての冷徹な牽制だ。
鵑は今度はしっかりと陳宜を見据え、首を横に振った。
「まだ。だからこそ……水賊を使いたいのです」
「……。なる、ほど。 なるほど、なるほど……」
指先で顎を叩き、鵑の奥底にあるものが私欲か否かを測るような沈黙のあと、陳宜はそう呟くと、一歩引いて頭を下げた。
これ以上の判断は主君に委ねる、という意思表示だ。
彼の先見性をもってすれば、鵑の狙いは察しがついたのだろう。
一番の難所をこれほど早く突破できたのは、鵑にとって嬉しい誤算だった。
「……もし、水賊がお前を裏切ればどうする?」
重苦しい沈黙を破り、沈烔堅が静かに問いかけた。
いつ寝返るかも知れぬ御しがたい賊を、それも恨み重なる者たちを解き放つ危うさを問うたのだ。
「心配には及びません。首領・呂塙との決着は水賊らも目にしており、丁昌なる幹部の妻君の所在も把握しております。……何より、“私”は何者も逃がしません」
それは過信ですらない、純然たる事実だった。
鵑は今回の水賊討伐の折、焼けた鉄鎖の上を駆ける身軽さ、矢を受けてなお、丁昌と少年を抱えて歩き抜く膂力を示した。
敵味方なく、その場にいた誰もが彼女の異常とも言える姿を目撃している。
その報告を受けていた沈烔堅にしても、にわかには信じがたい怪事であったが、当人の口から発せられる揺るぎない確信を前に、それ以上を問うことはできなかった。
だが、事が事だ。
鵑が掴んだ情報は、豪族の野心そのもの。
現状では商人の独断として逃げられる公算が極めて高く、そうなれば沈烔堅の失脚、そして鵑の処断は免れない。
「在野の身である私と、“逃げた賊が起こした騒ぎ”であれば、州牧の裁可を待たずとも処断できます。……ですが、今ここで物証を掴まねば、内乱では済まなくなります」
万一失敗した際は、鵑を含め勝手に動いた賊の残党として処刑すればいい。
そうすれば、沈烔堅の州牧の立場は守られる。
鵑が見据えているのは、水鏡という都市の安寧――そして、世を乱す火種を消し去ること。
そこに自分一人の生死など、最初から含まれていなかった。
正しさだけでは人は動かず、利だけでも回らない。そして道徳だけでは、君主の道は立たない。
それを理解しなければ何一つ動かせない、という師の言葉を信じ、鵑は自らの命さえ賭け代に乗せて出た。
「……お前の望みは?」
鋭い視線を浴びて尚、折れる様子を見せない鵑に、沈烔堅は目を細める。
「捕縛した水賊の助命。それから、沈烔堅州牧の旗下にお迎えいただきたいのです」
「……。 それが、“お前の”望みか?」
己の保身や恩賞ではなく、他者の処遇を、それも賊を軍門に下すことを願い出た鵑に、沈烔堅は問いを重ねた。
鵑は賈白翠、澄や汀を思い浮かべてはにかみ――すぐに表情を引き締めると、力強く頷いてみせた。
それでいい。
事がうまく回れば、あの村は救われる。
賈白翠も、ひいては澄や汀も、怯えることなく暮らせるようになるのだから。
『雨昕』
耳元で、かつての自分を呼ぶ甘い声が聞こえた気がした。
鵑は一度目を閉じ、沸き上がる感情にそっと蓋をする。
「猶予は、これより二日だ。それ以上は一刻も待たん。……いいな?」
「はい……!」
沈烔堅の険しい表情と重苦しい口調に変わりはなかったが、その声にはわずかながら心が混じっているように感じられた。
この人だから、この水鏡は、そしてこの丙州は、人々がよくまとまるのだろう。
沈烔堅の視線を受けて、陳宜が先に歩き出す。
鵑は傷の痛みを無視して、その後に続いて獄へと向かった。
陳宜は獄の前で立つ守備兵に使いを出し、水賊との接触に障りがないよう周囲の人払いを命じた。
自らはその場に残り、鵑に背を向けて番に立つという。
その配慮に黙礼で応じ、鵑は湿り気を帯びた暗がりへと足を踏み入れた。
少し前まで、鵑自身もあの冷たい格子の中に囚われていた。
その記憶が、今の自分を不思議な心持ちにさせる。
まして、あちら側に居たはずの自分が、今は州牧を巻き込んで丁昌に語り掛ける。
そんな不安定な立場に、拭いきれない後ろめたさがあった。
「呂塙。起きてるんでしょ」
「……」
鵑が声を掛けた男は、鵑が負わせた傷も含め、出血がひどく手当ては困難を極めたという。
一命こそ取り留めたが、未だ予断を許さない。
そんな男の、包帯に塗れた背中に鵑は淡々と声を掛けた。
だが、呂塙は死んだように動かず、眠ったふりを決め込んでいる。
鵑は追及するのを止め、目を細めてから、隣の房にいる丁昌へと向き直った。
「……丁昌。潜水と運搬の精鋭を選んで欲しい。貴方とその者達と、すぐに向かいたい場所があるの」
静かな声だったが、獄舎の冷たい壁に反響し、重々しく響き渡った。
丁昌が承諾の口を開こうとしたその瞬間、隣の房から呂塙の鋭い声がそれを制した。
「小娘。何か、勘違いしてねえか」
鵑は、丁昌から呂塙へと視線を滑らせる。
その瞳に、わずかな、けれど刺すような殺気が滲んだ。
呂塙は振り返ることもせず、包帯の巻かれた手首を庇うように丸まったまま言葉を吐き捨てる。
「俺たちゃ、お前に下ったんじゃねえ。敗れて捕まっただけだ。お前の指図に答えてやる義理なんざ、どこにもねえよ」
鵑はゆっくりと目を閉じた。
今、この場で水賊たちと信頼を築くための対話をしている暇はない。
非情な言葉を叩きつけ、恐怖で縛ってでも、その裏にある沈烔堅への忠義を示し、目標を完遂しなければならない。
冷徹に徹し、目的のために己を殺す。
かつての師や、戦場に生きる者たちがやってのけてきたその術を、鵑は迷わず選んだ。
「――ここを出られるとしても?」
呟くような、けれど拒絶を許さない響き。
「あ?」
呂塙がわずかに反応を示す。
関心を引ければ重畳。
鵑は声色ひとつ変えずに畳みかけた。
「従わないのなら、お前は死ぬよ。それに、私の機嫌を損ねても死ぬ。そんなことも分からない?」
見下すように、淡々と。
その凍てつくような声を浴びて、ようやく呂塙は身を翻して起き上がり、鵑に顔を向けた。
失った右手の痛みと屈辱に歪んだ顔が、鵑の菖蒲色の瞳と衝突する。
「……本当に、出られるんだろうな」
「貴方達の働き次第だよ。言っておくけど、誰か一人でも逃げたら、お前を殺す。逃げた奴も、地の果てまで追って私が殺す」
獄の床よりも冷ややかなその視線。
鵑が放つ威圧感は、もはや単なる脅しではなかった。
三年前、そして昨夜、自分たちを壊滅に追い込んだ白髪の鬼のそれだった。
呂塙の額に、嫌な脂汗が流れる。
隣の房で沈黙を貫いていた丁昌が、重い空気の中でゆっくりと手を挙げた。
彼は呂塙の顔色を一度伺い、それから同じ獄に繋がれた数名の男たちを指し示す。
「……それなら、あいつとあいつだ。名は馬と趙。運搬と潜水なら、うちの中で右に出る奴はいねえ」
丁昌は一人ひとりの名前と役割を静かに告げた。
その表情には、鵑の覚悟を真っ向から受け止めた者特有の、諦観に似た覚悟が宿っていた。
「丁昌。それと、今呼ばれた者たちだけを出そう」
「おい! 話が違うぞ、小娘!」
血相を変えて立ち上がった呂塙の怒声に、鵑は小首を傾げてみせた。その表情には、本当に何を言われているのか分からない、という無垢な戸惑いさえ浮かんでいる。
「……何が?」
「お前、さっき『ここを出られる』って言ったじゃねえか!」
「私、呂塙を出してあげるとは言っていないよ?」
片方しかなくなった手で格子を握る呂塙を、鵑は両腕を組んで冷淡に見下ろした。
鼻を鳴らすその仕草は、弱った獲物を弄ぶ獣のようでもある。
「『働き次第』と言ったんだよ。それに、あまり時間が無いの。下るつもりがないのなら、大人しくここで裁きを待てばいい。これは、そういう取引」
「小娘が……!」
「これで最後だよ。――その小娘に従うの?従わないの?」
苦虫を噛み潰したような呂塙の顔を冷徹に見つめ、やがて彼が「わかった」と苦渋に満ちた声を漏らすと、鵑は陳宜から託されていた鍵を取り出した。
「じゃあ、向かおうか」
「どこへだ?」
それまで、成り行きを見ていた丁昌が首を傾げた。
その間にも、丁昌と指名された四名が、手枷を残したまま牢から出される。
最後にようやく、呂塙の房の鍵が回された。
「丙州南典郡江杈」
「おい、そこは……」
丁昌が、信じられないものを見るような目で鵑を凝視する。
一方で、呂塙は呆気に取られた表情を浮かべた後、堰を切ったように声を上げて笑い出した。
「なんだ、それなら、やっぱり俺が必要じゃねえか! よくもまあ、あんなに脅しやがって!」
「……脅しではないけどね」
その高笑いを耳障りだと言わんばかりに、鵑は手元にあった短刀を呂塙の首筋に添えた。
一瞬で静まり返り、たじろぐ呂塙。
彼はすぐさま両手を挙げ、引きつった笑みを浮かべながら「冗談だ」と押し黙った。
呂塙がこれほど露骨に変心したのは、彼がかつて盧承という男の私兵であった過去があるからだ。
商人と結託し、今回の騒乱を裏で引いている張本人。
それが、丙州に根を張る豪族、盧家の嫡男である盧承だ。
盧家では先代が後継を指名せぬまま他界したことで、家督争いが泥沼化していた。
庶子である兄と、正妻の子である弟。
嫡男である盧承は己の正統性を説きつつ、力で兄を排斥しようと画策している。
だが、その盧承という男は、かつて己の手駒であった呂塙や丁昌ですら、使い捨ての道具としてぞんざいに扱っていたという。
二人の胸中にあるのは、かつての主に対する冷え切った復讐心か、あるいは生き残るための打算か。
呂塙の変わり身の早さは懸念材料ではあるが、今はその毒さえも喰らわねばならない。
丁昌の浮かない顔を横目に、鵑たちは人目に付かぬよう、夜の静寂に紛れて水鏡を発った。
二日の猶予を削るように、馬車の唸りと蹄の音が、濃い闇の向こうへ溶けていった。
今日の夜ご飯は何にしようかな。
最近暑くなってきたし、さっぱりしたものがいいかなぁ。




