1-21『森の中のせせらぎ』
丘の上から望む日の出は、壮観の一言に尽きた。
まだ冷たく灰色の静寂に沈んでいた風景に、一筋の陽光によって朝露を輝かせ、鮮やかな色彩が挿し込まれていく。
凛とした秋の匂いを深く吸い込んで、鵑はしなやかな脚で硬い土を蹴った。
「おはようございます、白翠姐」
「ひっ、……あ、あんた!?」
山村の入り口、櫟の巨木から音もなく舞い降りた白い影。
一目散に駆け寄ってきた鵑を前に、賈白翠は目を見開き、吐き出しそうになる心臓を押さえるように胸元を強く掴んで仰け反った。
「な、なんなんだい、一体……。何の用だよ!」
「お手伝いに来ました。水汲みでも草むしりでも。あ、樵るのも得意ですよ」
「……嫌味のつもりかい?」
鵑の顔を見てようやく脱力した賈白翠だったが、すぐさま尖った視線に戻すと、家の脇に置かれた空の木桶を掴んだ。
鵑を無視し、突き放すような早足で歩き出す。
だが、どれほど歩を速めても、背後には音もなく白い少女がついてくる。まるで、親鳥の影を追う雛のように。
「なんでついてくるんだ!」
「言ったじゃないですか、お手伝いだ、って。水汲みなら任せてください。こう見えて、力はあるんです」
鵑は誇らしげに、薄い胸を張ってみせた。
その腕には、いつの間にか家の横にあった小さめの甕を抱えている。
少し先に、石で囲われた水場を見つけた。
あれが飲み水かと問えば、賈白翠は憮然としたまま頷く。
それならばと、鵑は賈白翠の手から木桶をひょいと掠め取ると、甕と桶を軽々と抱えたまま、水場へと地を駆けた。
「ちょ、ちょっと、あんた! 転ぶよ!」
「大丈夫です!」
案じる声を背に、鵑は濡れた岩場を跳ねるように飛び越えていく。
湧水を引き込んだ水場は、上澄みを汚さぬよう丁寧に石が積まれ、幾度も修理された痕跡のある柄杓が置かれていた。
「これで汲めばいいんですね」
「そうだけど……あんたねえ……」
ようやく追いついた賈白翠は、激しく肩で息をしていた。
その様子を見た鵑は、手近な岩を指さして休んでいるよう促すと、手慣れた動作で柄杓を取った。
波を立てぬよう、そっと上澄みだけを掬い、木桶へ注ぐ。
その淀みのない所作は、長年過酷な労働に従事してきた者だけが持つ、無駄のない美しさを帯びていた。
賈白翠は、圧倒されるまま、吸い寄せられるように岩へ腰を下ろしていた。
「白翠姐。松脂が駄目なら、あの竹で籠でも編んで売るのはどうですか?」
「……やってるよ、そんなこと」
水を汲みながら話しかけてくる鵑には、微塵の疲れも見えない。
急峻な斜面を慣れた足取りで歩き、終いには跳ねるように先を行っていたというのに。
柄杓が何度も水を切り、二つの木桶を満たし、さらに大きな甕を並々と満たしていく。
作業が終わると、鵑は手際よく木桶を縄で括り、天秤棒に繋いで肩に担いだ。
それだけではない。
空いた片腕で甕を抱え込むように持ち上げると、何事もなかったかのように平然と歩き出したのだ。
傷だらけの細い四肢で、己の体重を遥かに超える重荷を支えてふらつきもしない。
賈白翠はただ口を開き、言葉にならない驚嘆で見送るしかなかった。
「これ、全部家に運べばいいですか?」
「あ……いや、そんなには置けない。隣に分けてやるんだ」
「はーい」
家に戻り、木桶を下ろして甕を抱え直した鵑が、そのまま隣家へ向かおうとする。
だが、その襟首を賈白翠が慌てて掴んだ。
「あんた、その頭は目立ちすぎる。外で……いや、中に入りな。大人しくしてなよ」
なかば強引に腕を引かれ、鵑は賈白翠の家へと足を踏み入れた。
竈から漂う煙の匂い。
物は少ないが、隅々に彼女の物とは明らかに違う、男物の衣服や荷物が置かれている。
「旦那は今、水運の護衛に出てるのさ。元は盧承様の私兵だったんだけどね。何が気に入らなかったのか、さっさと辞めちまって、あのろくでなしは」
「へえ……」
木桶から大きな甕へと水を移しながら、賈白翠が顔も上げずに語った。意地を張るのを諦めたのか、それとも鵑の働きぶりに毒気を抜かれたのか。
作業を終えると、次は甕を隣家へ運ぶという。
隣に住む老夫婦は、夫が寝たきりで、老婦人が一人で全ての家事をこなしている。
賈白翠は折を見ては、こうして手伝いをしているのだ。
「おや、白翠さん。……その子は?」
「あ、ああ、この子は……その、雲漢の親戚の子さ。力自慢だからね、水汲みを手伝わせたんだよ」
「まあ、そうだったのかい。ありがとうね、お嬢ちゃん」
「どういたしまして」
照れ隠しのような賈白翠の嘘を、鵑は柔らかな微笑で見届けた。
それから、鵑は畑仕事や家畜の世話など、賈白翠の一日の立ち回りに影のように付き従った。
そんな日々が三日も続けば、朝露に濡れた畑の隅で、賈白翠が“間違えて”多めに作ったから、と朝餉を鵑に差し出すようになった。
そして、遠巻きに見ていた村の子供たちも、一人、また一人と、白い髪の少女の周りに集まり始めていた。
「そういえば、松の近くに珍しい茸が生えていました。確か香りが独特で、好事家が高値で買い取ってくれる珍味だと聞いたことが――」
「いい加減にしな!」
賈白翠の家。水汲みの前にと差し出された、塩味だけの薄い粥を食みながら、鵑はどこか楽しそうに報告した。
けれど、椀を乱暴に置いて言葉を遮った賈白翠の目は、険しく吊り上がっていた。
これまで何度か、村でできることを提案してきたが、返ってくるのはいつもこの拒絶だ。
まるで自分の足で立ち上がることを放棄したかのように、彼らは村の寿命を削るやり方を変えようとしない。
この村にはまだ、未来を担う子供だっているというのに。
「……あんたはまだ若いから知らないだろうけどね。水鏡だって、少し前までは大荒れだったんだ。ここらは戦場としても、文字通り骨の髄までしゃぶり尽くされた」
「……」
「いくら貧しいって言ったって、あの地獄に比べりゃ、よっぽどマシなのさ」
吐き捨てるように言って、賈白翠は再び椀を手に取ると、残った粥を啜った。
鵑は椀を傾けたまま、その言葉の裏にある恐怖をじっと聞き届けていた。
そして、その上で静かに口を開く。
「それでも、このままでは駄目です。先細りしていくだけだもの」
「っ、分かってるよ、そんなこと!」
鋭く響いた声とともに、椀が投げ捨てられた。
床に叩きつけられた椀が空しく跳ね、まだ残っていた薄い粥が、泥の床に無惨に広がっていく。
「なんだ、何が分かってるんだ?」
「あ……」
賈白翠の背後から、不意に野太い声が響いた。
現れたのは、熊を思わせるほどに体躯の逞しい男だ。鵑は反射的に身構えたが、賈白翠は男の顔を見るなり、張り詰めていた肩の力をふっと抜いた。
「アンタ……」
「外まで声が聞こえたもんで何事かと思ったが。なんだ、その白髪頭の子供は」
「あ、いや……その」
「鵑といいます。賈白翠姐には道に迷った時に助けていただいたので、お礼にお手伝いをさせていただいていました」
瞬時に警戒を解き、丁寧な礼を尽くす鵑に、男はしばし呆気に取られ、やがて腹の底から笑い出した。
「おお、そうか! 相変わらず世話焼きだな、お前は」
豪快な笑い声が、室内に淀んでいた刺々しい空気を一気に吹き飛ばした。
男は丁昌と名乗った。彼こそ、賈白翠が元兵士のろくでなしと語る夫であった。
その逞しい腕で賈白翠の肩を叩くと、久しぶりの我が家なのだから落ち着けと言い含め、彼女を座らせた。その手の温もりに、賈白翠の瞳の奥に宿っていた尖った光が、ようやく和らいでいく。
その間に、鵑は床に落ちた椀を拾い、こぼれた粥を手際よく片付けた。
丁昌は「そんなのは後で俺がやる」と制したが、鵑は笑って首を振る。
それよりも一緒に畑へ行こうと、丁昌は鵑を連れ出した。
働きすぎの賈白翠には、家で休んでいるよう言い含めて。
畑は、昨日鵑が刈り遅れていた大豆の収穫を終わらせたばかりだ。
土か踏みしめられた跡が残っている畑の横、乾燥のために束ねられた大豆が、秋の日差しを浴びていた。
「お前さん、“羅雨昕”か?」
歩きながら、丁昌がふいに問いかけた。
その声音には、依然として消えない警戒が混じっている。
気付いてはいたが、争うつもりのない鵑は飄々とその背を追っていた。
しかし、予想だにしなかった名に、鵑は面食らったように口を開けた。
「ら……うきん?」
「なんだ、違うのか」
丁昌は足を止め、振り返って顎を掻きながら空を見上げた。
「大きな県や郡じゃ、結構有名な話だぞ」
曰く。
真っ白な髪を編んで背に流し、身の丈ほどもある棍を振り回す童。
その足は馬より早く、大男の一刀さえ軽々といなしてしまうのだという。
「とんでもなく強いらしくて、数年前にはこの水鏡にも現れたそうだ。最近、そいつに似たのが水鏡で捕まったって噂で持ちきりよ」
目を細めて鵑を値踏みするように見つめた丁昌だったが、「まあいいか」とすぐに話を流した。
今は目の前の枯れた切り株を処理するのが先だと言って、畑に踏み込む。
鵑も小さく頭を振り、その背に続いた。
丁昌の大きな手は、枯れた根を土ごと豪快に引き抜いていく。
賈白翠も手慣れてはいたが、やはり男手の力強さは圧倒的だ。
作業はみるみるうちに捗り、鶏や豚の世話を終える頃には、いつもより早く家路に就くことができた。
「なあ、白翠! 折角だ、今日は肉を食おう!」
主の帰宅祝いか、あるいは客人へのもてなしか。
名目は何でも良かったのだろう。
丁昌が機嫌よく笑うと、賈白翠は「そんな余裕がどこにあるんだ」と目くじらを立てたが、彼が持ち帰った荷物の中に蓄えがあるのを見て、渋々と腰を上げた。
初めて囲む、三人の夕餉。
丁昌が郡で聞いた噂話や、今日出会った村の子供たちの様子を語り、鵑がそれに相槌を打つ。
初めこそ沈黙を貫いていた賈白翠も、二人に代わる代わる水を向けられると、最後には折れて言葉を返すようになった。
竈の火が爆ぜる音とともに、賑やかな笑い声が室内に満ちていく。
食事が終わる頃には、辺りはすっかり深い闇に包まれていた。丁昌は鵑に泊まっていくよう勧めたが、彼女は丁重にそれを辞退した。
「こんな真っ暗だ、遠慮しなくてもいいんだぞ」
「いえ。明日は朝から、人に呼ばれているものですから」
「なんだ、じゃあ明日は来ないのか」
残念がる丁昌とは対照的に、賈白翠は「清々する」とでも言いたげに鼻を鳴らした。
だが、その横顔には、ここ数日の険しさは消えていた。
「こいつがこんなに楽しそうにしてるのは久々だ。俺はまたすぐに仕事に出ちまうからよ。鵑、また来てやってくれ」
丁昌が言うそばから、賈白翠が「何を言ってるんだ」と怒りながら、その逞しい背中を無遠慮に叩いた。
朱に染まった彼女の耳たぶは、彼女の本心を晒した照れからだろう。
叩かれた場所を気にもせず笑う丁昌の姿に、鵑は温かな心地で微笑んだ。
帰り道は星と月明かりだけを頼りに、目印さえ闇に呑まれた森を進む。
風に揺れる葉のざわめきは、時に遠いせせらぎのようにも聞こえた。
この深い森でさえ、賈白翠が語ったかつての戦火から、辛うじて生き延びたものたちなのだろう。
そんなことを考えながら、鵑は吸い込まれそうな暗闇の中を、迷うことなく歩き続けた。
翌朝、李峻の邸宅は、昨日までの静寂が嘘のような賑やかさに包まれていた。
「鵑お姉ちゃん! もう一回、もう一回!」
「汀、次はこの父が……」
「父様はいや!」
「イヤ!?」
李峻が愛娘の拒絶に硬直する傍らで、鵑は苦笑しながら棍を構えた。
棍を水平に持ち、汀を掴まらせたまま棍を持ち上げ棍を立てるようにゆっくりと回す。
棍が垂直になると、頂点に辿り着いた汀が棍を滑り降りて鵑の腕に収まり、歓声を上げた。
そんな即席の遊びに付き合わされたのは、汀が先日から駄々を捏ねていると聞いたのが発端だった。
本来、人を生かしも殺しもする道具を、汀は綺麗だと言って触りたがる。
その小さく汚れを知らない手に触れさせたいものではなかったが、汀は恐れを知らず、鵑の武器を無邪気な瞳で見つめていた。
地獄を見たように落ち込む李峻を、奥方と澄が宥める。
昼過ぎになり、はしゃぎ疲れた汀が眠たげに目を擦り始めると、奥方と澄は彼女を連れて奥の部屋へと戻っていった。
ようやく訪れた静寂の中、鵑は李峻と向かい合って茶を飲む。
数日前、泥にまみれて戦っていた頃とは打って変わって、穏やかで美しい昼下がりだった。
「……なるほど。よし、すぐに調べさせよう」
「ありがとうございます」
だが、交わされる言葉の内容は、風景とはかけ離れて重い。
庭を流れる本物のせせらぎを聞きながら、鵑は決然とした足取りで立ち去る李峻の背中を、静かに見送った。
塩バターパンとシュガーバタートーストって、大人になってからの方が美味しく感じる。




