1-20『掌の夢』
朱澤から呼び出しを受けたのは、沈司朗が城へ戻ったその夜のことだった。
導かれるまま酒楼の二階へ上がると、仕切りの向こうでは、卓を埋める料理に手を付けぬまま、険しい顔で突き合わせる二人の姿があった。
「……来たか」
「お久しぶりです」
鵑が拱手すると、沈司朗は無言で空いている席を示した。
沈司朗に会うのは、投獄されて以来か。
彼が纏う空気は、以前にも増して肌を刺すように鋭い。
聞けば、先の水賊制圧では拠点を叩き、積み荷の奪還には成功したという。
だが、その顔に勝利の彩りは皆無だった。
「本星を取り逃がしちまった」
吐き捨てるような沈司朗の言葉に、朱澤が重い溜息で応じる。
「連中、拠点の一つや二つ、捨て駒にするのは痛くもないってことでしょう。潜伏先は他にもある……いたちごっこですよ」
目の下の隈こそ和らいでいるが、朱澤の表情も大概に暗い。
剣呑な空気を隠そうともしない男二人を前に、鵑は少し思案し――。
「……!」
迷うことなく、目の前の魚料理に箸を伸ばした。
葱と豆豉で煮込まれた、味の濃い川魚。
それを器用に骨を避けながら口へ運び、肉を細かく刻んだとろみのある羹を匙で掬うと、ふうふうと息を吹きかけ、喉を鳴らして流し込んだ。
「……お前。僕が言うのもなんだけど、この空気の中でよく食えるな」
「?」
朱澤の呆れ果てた視線を受け、鵑は美味を咀嚼するのに忙しそうに目を瞬かせた。
それから、小皿に骨を除けた魚の身を丁寧によそい、当然のように朱澤へ差し出す。
「そういうことじゃない」と零しながらも、餌をもらった雛鳥のように爛々とした瞳で食事を楽しむ鵑の勢いに負けたのか、朱澤は毒気を抜かれたように小皿を受け取った。
鵑はそのまま、沈司朗にも同じように小皿を差し出す。
「水賊も生きるために必死なんです。一事を成すために万事を尽くすべし。万事思い通りの戦果を得たいなら、相応の予測と準備がないと無理ですよ」
「……だから食え、と?」
「貴方が倒れたら、無条件で私達の敗北です。それに」
沈司朗は冷めつつある料理に視線を落とし、次いで鵑を見る。
まるで敵の肩を持つような放言。自分のやり方が甘いとでも言いたいのか、と怒鳴りつけることだってできた。
だが、その菖蒲色の瞳はどこまでも澄み、冷徹な現実だけを映している。
この小娘は、何を以て“勝利”とするのか。
同じ目的の為に動いているはずなのに、彼女はさらにその先まで見据えている――。
その事実が、沈司朗の胸に拭い難い興味を兆させた。
「――すっごい美味しいです」
不意に相好を崩して笑う。ただ、この味を共有したいだけなのかもしれない。
そんな無垢な顔に毒気を抜かれ、沈司朗はようやく肺の底から重い息を吐き出した。
彼がようやく箸を取るのを見て、朱澤もまた、諦めたように小皿の中身を口に運んだ。
「いや、ちょっと待て! まだ食うのかよ!?」
「?」
朱澤が声を荒らげた時、鵑は三皿目の魚を綺麗に平らげ、蒸飯に青菜の羹をかけて口に運んでいる最中だった。
「なんだ、子昂。お前はもう食べないのか?」
「浩然! お前はこれ以上こいつに勧めるな!」
沈司朗はしばらく鵑の驚異的な食欲を眺めていたが、やがて負けじと料理を平らげ始めた。
ある程度食べてからは、もはや鵑に次々と食べさせること自体を楽しんでいるようで、卓にはさらに皿が積み上がっていく。
やがて全ての料理が消え、満足げな二人と、腹をさすって苦しそうな一人に茶が配られる頃には、当初の刺々しさは霧散していた。
「さて……調査の報告なのですが」
配られた茶が思ったより熱かったのか、鵑は一瞬肩を震わせた。
同じ轍を踏まぬよう、ちびちびと茶を啜りながら切り出した言葉に、二人は即座に背筋を正した。
「当初の想定通り、獄中と浚渫で得た収穫は小さくありませんでしたよ」
「ああ。……泥にまみれた甲斐はあったか」
沈司朗の労いに、鵑は静かに頷く。
それから、一つずつ事実を提示していった。
「ある豪族と、ここの役人たちが裏で繋がっている。獄中にはそんな噂がありました」
「おい、それって……」
「はい。朱澤様が導き出した、件の書き付けに載っている名だと思います」
朱澤が弾かれたように立ち上がった。
夜通し帳簿と格闘し、文字の海を泳ぎ切った末に炙り出した不審な名。
その推測が、最底辺の吹き溜まりである獄中の噂と繋がっているのだから、不眠の努力も報われたことだろう。
けれど当の朱澤は顔を歪め、聞き取れぬほどの低い声で、怨嗟に近い呪詛を吐き出している。
「……汚職か。この時期にそれは看過できねえな」
沈司朗の苦い呟きに、鵑は静かに頷き、二本目の指を折る。
「次に、徭役の人数です。一部の地域で、老人が多く働き手が極端に少ない。時期的なものかと思いましたが、あまりに露骨です。労働の重さを考えれば、若手を寄越しそうなものですが、聞いた話では、病ではなく、出稼ぎが理由だと話している者もいたほどです」
単なる困窮や不運ではない。
民の徴発そのものに、意図的な操作が加えられている。
沈司朗の眉間の皺が、刻み込まれたように深まった。
「それから、浚渫の泥です。不自然なほど細かい木くずが混ざっていました。あれは斧に慣れない者が、力任せに木を打ち倒した結果です」
「……よく分かったな、そんなこと」
「私も、やったことがあります。……でも、あれでは高く売れないし、森林は死にます」
賈白翠の必死な叫びを思い出す。
その木のもっと有効な使い方を知っているのに許されない、助かるのに出来ない葛藤。
その背景にある、さらなる歪みを睨み付けるように、目を細めて最後の指を折る。
「最後に。……私が見てきた、山村の現状です」
鵑は目を閉じ、賈白翠の乱暴で温かい指先を思い出す。
彼女を庇うつもりが無いと言えば、嘘になるかもしれない。
「はっきり言って、先程の木くずは、その村が斜面の木を若木ごと乱伐した証拠です。そして雨とともに土が河へ流れ出した。……ですが、彼らもそうでもしなければ食べていけない。これ以上奪われまいと、見知らぬ者を脅して遠ざけることでしか、今日を繋げない村でした」
だから、あまり責め立てないで欲しい。
そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
それを選ぶのは、自分でも、目の前の男でもない。
目を伏せた鵑の代わりに、朱澤が「まったく」と言いながら席に座り直す。
その顔は呆れではなく、点と点が繋がり、一本の線となっていくのを目の当たりにしたような、戦慄に近い高揚を浮かべていた。
「自分から獄に入ると言い出した時は、正気を……いや、頭を疑いましたけどね。僕には絶対真似できない」
「それ、褒めてませんよね」
「鵑の頭はともかく、この情報は重い。……親父殿も、お前を許すための方便を探しているらしいからな」
沈司朗は熱い茶を飲み下し、口角を上げた。
茶化すような二人の視線に、鵑は「頭おかしくない」と不満げに頬を膨らませる。
そんな彼女の様子に、朱澤はわざわざ腕を伸ばしてその頬を指先でつつき、楽しげに目を細めた。
やがて賑やかな食事の終わりが、間近に迫る。
「あの村を、救いたいんです」
鵑が零した言葉は、この場にふさわしくない、あまりに青臭い願いに聞こえただろう。
案の定、朱澤が真っ先に首を振った。
「あのな……さっき浩然に説教したのはお前だろ? 今のお前の役目は実績を積み、将としての器を示すことだ。民の救済は、お前が相応の権限を手にしてから考えるべきことだ」
それはまったくの正論で、今の鵑ではただの夢物語。
分かっていて尚、鵑は真っ直ぐに朱澤、そして沈司朗を見た。
「……難しいな。俺や親父殿でさえ、余程の理由がなければ動けない」
沈司朗もまた、腕を組んで真顔で言い切る。
賈白翠が言っていた通り、あの山村は豪族・盧家の所有地だ。
しかも盧家は今、泥沼の家督争いの真っ只中にある。
下手に介入すれば、水鏡の統治そのものを揺るがす政治問題に発展しかねない。
道理は、分かっている。
それでも、と食い下がる鵑の瞳に宿る熱を、沈司朗は試すように鵑を見据えた。
「どうして、その村にこだわる?」
その問いかけが、夜の静寂に重く落ちる。
「……。笑わないで、くださいね」
鵑は少しだけきまり悪そうに視線を彷徨わせた。
賑やかな食事の声が続いてるのが聞こえ、窓の外では水鏡の夜を彩る灯りが川面に揺れている。
それらに背を押されるように、胸の中の想いを逃がさないように掴んで、沈司朗を見つめ返した。
「夢の為、です」
「夢?」
鵑は、水鏡に流れ着いた日のことを思い出す。
失意の中を漂う鵑に射し込んだ、幼い姉妹の、眩いばかりの笑顔。
その未来を守るという小さな祈りで、立ち上がることができた。
李峻、沈烔堅、朱澤。そして目の前の、沈司朗。
他にも、出会った人々は鮮烈で、自分だけがこのままではいられないと前を向けた。
「私は、大切な“友人”を……世界の全てだと思って、彼女の為に生きてきました。……でも」
『 』には、別の“世界”が生まれてしまった。
あの夜、どうしたら、何と答えれば良かったのか、散々考えた。
そして、彼女の為ではなく――自分はどうしたかったのか。
最近になってようやく、考えることが出来た。
赤子のように泣いて、みっともなく喚いて、私を選んでと縋れば良かった。
けれどそれができないくらい、鵑の足は真っ直ぐに大地を踏み締めていて、伸びた背筋が下を向かせなかったから。
「彼女との日々には……戻れない」
当たり前に自分が隣にいるはずだった場所は、もうどこにもない。
その事実だけ、今でも、どうしても声が震えてしまうけれど。
沈司朗の黒々とした瞳が、弱りそうになる心を奮わせた。
喉の奥にせり上がる、泣き叫びたいほどの孤独を必死に押し殺して、言葉を絞り出す。
「それでも、私には力がある。人よりも多くを助けられるだけの、力が。そうやって助けた人を守れたら、それがきっと」
その為に必要なことは、黎景から教わった。
まだまだ足りないと笑われるかもしれないけれど、師が語った言葉が、今の鵑の中で確かな形を成している。
「――私の、新しい“世界”になる」
いつの間にか硬く握り締めていた掌を、ゆっくりと開く。
小さくて、傷だらけ。
こんな掌でも、確かに掴めるものがあると知っている。
その熱をもう一度包み込むと、沈司朗が口を開いた。
「……それで、“世界”をどうしたいんだ?」
王になって、そのまま握り潰すのか。
夢の為に、人々を無闇に振り回すのか。
そんな野望も夢物語も、幾千幾万と語られてきたけれど、それを叶えた者がどれだけいたことか。
荒唐無稽な夢だと、言外にその眼は研がれていた。
「守りたいんです。悲しいこと、辛いこと、全部から」
鵑は、はにかんでそう告げる。
きっと間違えることもある。迷った末に、後悔に暮れることもある。
それは、その小さな掌には、あまりに過ぎた大願だとわかっている。
けれどあの日、泣いて崩れた“世界”を許し――手放すことができた自分だから、掴めるものだと信じて疑わない。
多くの人を救うことでしか、自らの魂を救えない。 そんな痛々しいまでの切実さが――言葉を超えて二人に伝わっていった。
「……嫌いじゃねえんだよな。そういう熱いの」
彼女を射貫くように見つめていた沈司朗の口角が、不敵に持ち上がった。
鵑は、目を丸くする。
無礼だと怒鳴られる覚悟はあった。鼻で笑われる準備もしていた。
けれど、返ってきたのは、共に地獄を覗き込んでくれる者だけが浮かべる、不敵で、ひどく頼もしい笑みだ。
「そうやって感化されるの、どうなんです?」
冷めた声で横やりをいれた朱澤が、重々しく息を吐く。
「でも、まあ……浩然をその気にさせたんだ。どうせ僕も付き合わされる。しっかりやれよ」
呆れた風に言いながら、見せ掛けだけの冷静を装い、鼻を擦る朱澤に力強く頷いて見せた。
苦い茶を分かち合うこの卓の上には、確かに自分の居場所があった。
今なお、恋しくて堪らない『 』との記憶も、指先に残るあかぎれの痛みすら、今は、自分が生きている証として愛おしかった。
水鏡の水に揺れる月は、あの日の月よりも、欠けて歪んでいるけれど。
月照孤心志未央(月が照らす中、志は尽きない)
願将微力護群蒼(小さな力でも人々を守りたい)
前塵已断情猶在(過去は断たれたが想いは残る)
自定其身立一方(自らの在り方を定め、その立場に立つ)
今、確かに、鵑はこの地に立っているのだから。
早く解凍したい時は、水に浸けるに限る。
そして今日の夕飯は油淋鶏。




