1-19『山村』
「……あんた、誰?」
道とは名ばかりの、硬く荒れた土を踏みしめて進んでいた鵑の背中に、鋭い女の声が投げかけられた。
村に入った瞬間から、肌を刺すような視線は感じていた。
余所者への露骨な拒絶――そう感じていただけに、声をかけられたのは予想外であった。
「鵑と申します。水源に異変がないか、調べに参りました」
「……ってことは、お役人かい?」
「いえ。ただの物好きですよ」
鵑が振り返らずに淡々と答えると、背後の気の強そうな声の主は、訝しげに口を閉ざした。
僅かな衣擦れと――刃物を握る気配を聞き取り、鵑はゆっくりと首を振る。
「そんなに強く握っては、手を痛めますよ」
背後で、女が短く息を呑んだ。
あまりに攻撃的な態度は、かえって何かを隠していると自白しているようなものだ。
鵑は内心でそう判断すると、振り返らないまま、一歩、二歩と後退した。
そして、戸惑う女の体に、自らの背中を預けるようにして重みをかけた。
「働き者なんですね。鎌の手入れを怠らないのは、やっぱり草刈りを毎日欠かさず――」
「あんた。……あたしより、臭くないか?」
「あ、すみません。今朝まで泥を浚ってましたから」
「……なんだって?」
鵑の言葉を遮っておいて、予想外の答えに女の不審げな声が裏返り、後ずさる。
鵑は僅かに仰け反った姿勢のまま、軽い調子を崩さない。
辺りを気にするように躊躇いながらも、露骨なため息をこぼし、構えていた鎌を下ろすと、近くの草むらへ放り出した。
「悪かったよ。この村はちょっと……扱いが悪いもんで、皆、余所者には敏感なんだ。……それから、その恰好でうろつかないでおくれ」
「そんなに臭いですか?」
「臭いし、汚い。……こっちに来な」
きまり悪そうに言い訳を並べていた女だったが、矛先を鵑の汚れへ向けることに決めたようだ。
村人たちの視線は、依然として鵑の背を刺し続けている。
けれど、女が武器を捨てたことで、周囲の家々から立ち昇る人の気配が、一気に濃くなったのが分かった。
ここまで警戒されるのは、やはり何かあるのだろう。
鵑は見立て通りの状況に気を引き締め、先を歩く女の背を追った。
しばらくは、森の中を歩いた。
道すがら、女は賈白翠と名乗った。
涼しげな切れ長の目が気の強さを感じさせるが、丸みのある輪郭にはどこか親しみやすさがある。
だが、それきり彼女は口を閉ざし、足早に進んでいった。
鵑は自然と、その背の向こうへ視線を移した。
この一帯は櫟を中心とした広葉樹林が続いている。
葉はくすみ始め、見上げれば、熟しきらないどんぐりが枝先に残っている。
点々と続く切り株は、どれも切り口が新しいものに見えた。
やがて、水の気配が近づいてきた。
開けた先に現れた浅瀬で、賈白翠が足を止める。
「ここは飲み水とは別だ。洗うくらいなら問題ない」
そう言って振り返り、鵑を見た。
「ほら、さっさと脱ぎな。女同士だろ」
有無を言わせぬ調子で急かされる。
だが、鵑が迷いなく上着を脱ぐと、なぜか賈白翠のほうが呆れたように言葉を詰まらせた。
「っ……なんだい、その怪我の痕……?」
「あ。すみません、見苦しいものを」
「見苦しいで済むか!あんた、若い女が、こんな……」
いざ鵑が手足をさらけ出すと、武芸者ゆえの傷痕だらけの細い肢体は、ひどく痛々しく見えたようだ。
賈白翠はしばらく言葉を失い、呆然と見つめたまま動かなくなる。
鵑が小首を傾げると我に返ったようで、唇を噛み、ほんの一瞬ためらうように目を伏せる。
だが、次の瞬間には顔を上げていた。
賈白翠はぐいと鵑の腕を取り、そのまま強引に岸辺へ座らせる。
そして汚れた手足を、手拭いで擦り洗い始めた。
その手つきはどこか慣れていて、動きに迷いがない。
乱暴に見えて、ひとつひとつの傷に触れないように――もう痛むことのないそれを哀れみ、丁寧に汚れを落としていく。
「下向きな」
「こう?」
「もっとだ」
「ぉわあ!」
言われるままに首を下げた鵑の頭を、賈白翠がぐっと押さえる。水面が目前に迫った。
臭い、臭いと文句を並べながらも、賈白翠は鵑の結った髪をほどき、手で掬った水を何度もかけていく。
「こっちには皂莢があるんだ。こいつなら、こんな汚れくらい……」
鵑は不思議な気持ちでいっぱいだった。
見知らぬ土地で、互いに素性も知らない相手に髪を洗われている。
乱暴な口調に反して、触れる指は見た目ほど荒くない。
皂莢の泡に包まれた髪が、ゆらゆらと河面に映っていた。
泡を流しきって軋む髪を丁寧に絞りながら、自分もすっかり濡れてしまったことは気にも止めず、賈白翠は鵑の手を引いて歩き出した。
すぐ近くにある、木組みと屋根だけの簡素な物置へ向かい、そこから古びた麻布を取り出して鵑の頭にかぶせる。
湿っているのか、かすかに生臭い。
そんなことを気にする間もなく、先ほどまでの丁寧さが嘘のような、遠慮のない手つきで体を拭き上げられ、髪も勢いよく拭われる。
頭が揺さぶられるほどだ。放っておけば乾くだろうに。
これは、なんだか。
ふと、どこかで見た光景が脳裏をよぎる。
――仔犬を洗っていた女の手つきに、似ている気がした。
あの仔犬も、こんな心地だったのかもしれない。今も元気にしているだろうか。
これも、郷愁と呼べるものなのか。
答えのない疑問は胸の奥にしまい、乱暴で、けれどどこか穏やかな時間が過ぎていく。
すっかり体に染み付いた泥を落とされ、鵑が礼を述べれば、賈白翠は鼻を鳴らした。
汚いままうろつかれたくなかっただけだと言い張り、腕を組んでぷいとそっぽを向いてしまう。
だが、その耳が赤く染まっていることに気づき、鵑は小さく笑った。
「聞いてもいいですか?」
「……駄目だ」
「でも、こんなに綺麗になりましたよ?」
「……服が汚いままだろう。それは自分で何とかしな」
そこまで面倒を見てもらうつもりは鵑にもなかったけれど、もし余裕さえあれば、賈白翠は新しい衣まで用意してくれたかもしれない。
そう思うと、鵑の胸の奥にじんわりと温かな灯が宿った。
だからこそ、これがきっと賈白翠を追い詰めることになる質問だと予感しながらも、鵑はあえて口を開いた。
「どうして、若い松を伐っているんです?」
松は建材としても有用だが、何より松脂だ。
舟の防水に欠かせないそれは、水鏡の必需品。
加工の手間はかかるが、若い木まで乱雑に伐り倒してしまうよりも、ずっと長く、深くこの村を潤してくれたはず。
いくら困窮しているからといって、それを売りさばいてしまうことは、自らの未来を自分たちの手で削り取っているように見えてならなかった。
「それに、ここにはこれだけ豊かな森林があります」
「……やっぱり、あんた、役人じゃないか」
「違いますよ」
「なら、なんであんたみたいな子供が、そんなことまで知ってるんだい」
溶けかけた警戒心を再び剥き出しにした賈白翠の瞳を見つめ、鵑は静かに微笑んだ。
そして、柳や竹が生い茂り、若い松や櫟が木漏れ日を河面に落としている美しい情景を一度眺めてから、最後にもう一度、賈白翠を真っ直ぐに見据えた。
「物好きなので」
照れたように笑うと、鵑は賈白翠のあかぎれだらけの手をそっと取り、子供が甘えて遊ぶようにゆらゆらと揺らした。
驚いて目を剥いた賈白翠が、止めるように鋭い声を上げたが、鵑は楽しげに笑って言葉を重ねた。
「私、松脂の作り方を知っています。水鏡に売れば、きっと若い木を売るよりずっと儲かりますよ」
「そんなこと、あたしらだって知ってるさ! でもね、この山は盧家のもんで、勝手は許されないんだよ!」
「盧家?」
「いいかい。ここは、沈烔堅様じゃなくて、豪族様の土地なんだ。……勝手な真似をしたら、何をされるか分かったもんじゃない」
目を怒らせて言い放つ賈白翠。
それは鵑よりも自分に返る現実のようで、苦々しく顔を歪めた。
儲けを出しても、色んな名目で税をつけて全てを持っていかれるだけだと呟く声は、痛みに呻くみたいに聞こえた。
鵑は黙ったまま――事実に構わず、賈白翠の腕を振り回しながら、そのままくるりと回ってみる。
回ったことに格別の意味はなかった。
ただ、励ましも慰めも言えない代わりに、胸の中に渦巻く不満と疑問、そして奇妙な高揚を表したかった。
賈白翠の言うことが事実なら、確かに鵑の提案は大きな火種になるだろう。
さらには、この険しい悪路だ。
山村までの道は、お世辞にも整備されているとは言えない。
運搬の労苦を考えれば、将来を削り取るような目先の伐採しか道が残されていないのも、無理からぬことなのかもしれない。
「……でも、今のやり方を続けていれば、いずれ水鏡から責任を問われますよ」
「……なんだって?」
もう一度、賈白翠の腕を潜るようにして鵑は回る。
そして、泥まみれになってまで気づいた事実を反芻した。
水路の端、壁の肌に張り付くように浮いていた細長い木くず。
それが浚渫で掻き出した泥の中にまで、細かく砕かれた状態で沈んでいた。
松の特徴によく似たその破片は、日頃から流れてくる見慣れたものだからこそ、街の住人たちは見過ごしていたのだろう。
けれど、粉のように細かい木くずは不自然だ。
普通に斧を振るっただけでは、そんな無残な姿にはならない。
それはまるで、手慣れない誰かが力任せに引きちぎるようにして、木を伐り倒したのではないかと思わせた。
地面を支えていたはずの木々が失われ、剥き出しになった丘の斜面が、雨とともに河へと流れ込んだ。
きっとそれが、水鏡の流れを詰まらせたのだろう。
いずれ官吏たち――沈烔堅も、気付くだろう。
そうなった時、豪族に責任を押し付けられるのも、考えられる末路の一つ。
鵑の言葉に、賈白翠の顔は見る間に青ざめていった。
彼女は唇を強く噛むと、今まで以上の力で鵑の手を振りほどいた。
「あんたには関係ないことだ! もう帰っておくれ!」
追い払うように帰り道を指し示す。
賈白翠は鵑の真っ直ぐな瞳に怯えるように後ずさり、背を向けると、そのまま足早に立ち去ってしまった。
鵑は、遠ざかる彼女の背を追わなかった。
不条理や理不尽に喘ぐ村など、この広い地の果てまで見渡せば、いくらでもあるだろう。
かつて見た塞北もそうだった。
最北端の見捨てられたあの村は、幸運を装った毒に侵され、すべてを諦めた澱みの中に沈んでいた。
けれど、あの村は玄欒によって、自ら変わることを選んだ。
未来を築くため、たとえそれがどれほど険しい道であったとしても、彼らは確かに歩み始めたのだ。
鵑に、同じことはできない。
塞北とこの山村では、土地が抱える因習も、闇の正体も何もかもが違う。
それでも。
鵑は静かに拳を握り、一度だけゆっくりと瞬きをして、肺の底に溜まった熱を吐き出した。
「……よし」
独りごちる声に、迷いはない。
棍を振るう以外に出来ることが、鵑の進むべき道になって広がっているのだから。
キャベツを一枚一枚剥がしたい時は、無理矢理剥がすんじゃなくて流水を流し込んでむくと綺麗に剥がせるんやで(ロールキャベツでしか使えないライフハック)




