1-18『尻尾』
「ここで大人しくしてろ」
獄吏の無造作な掌が、鵑の痩せた背を牢の奥へと突き飛ばす。
首には重い木枷、手足には鉄の鎖。
抗う術がない鵑は、しかし、よろめくことはなかった。
自らの足で冷徹な鉄格子の内へと踏み込み、汚れた床に膝を折り、背筋を正して静かに座す。
その凛とした佇まいに気圧されたのか、獄吏は吐き捨てるような舌打ちを残し、重々しい鉄扉を閉ざした。
今ごろ水鏡の城下では、件の“不遜な流れ者”が捕まったという噂は、水鏡を乱す不穏分子を取り除けた朗報として広まっていることだろう。
だが、今まさに鉄格子の向こうに立つ巨躯の男、李峻だけは、噛み潰した苦虫のような表情を隠そうとはしなかった。
「……で。どうして、こんなことになっているんだ?」
「申し訳ありません、李峻殿。お顔に泥を塗ってしまいました」
「そんなことはいい。噂では、沈司朗様への不敬が原因だと聞いたが……」
「あはは。まあ、そんなところです」
多忙な李峻が、わざわざ牢舎まで足を運ぶとは思わなかった。
いくら師と懇意とはいえ、これほどまでに自分を案じてくれている。
その事実は、凍てつく牢内にあっても、鵑の胸に灯火のような温かさをもたらした。
鵑が投獄されたのは二日前。沈司朗、朱澤と共に、水鏡の影を浚った直後のこと。
理由はどうあれ、衆人環視の中で主君の嫡男を殴りつけておいて、何の咎めもなしに済むはずがない。
鵑は沈司朗が呼びつけた兵に連行され、この薄暗く澱んだ空気の底に収まったのだった。
「笑い事じゃないだろう。仲違いは解消されたんじゃなかったのか?」
「……」
「まあ、極刑にはならんだろうが、処罰を下すのは当の沈司朗様だというし……。今からでも、貴女の本当の名を明かして――」
「李峻殿」
鵑が捕らえられたことで、彼女を推挙した李峻の立場をも危うくしている自責が、鵑の胸を刺した。
今まさに彼が口にしようとした“英雄”としての名を明かせば、こんな屈辱的な扱いは即座に解かれ、彼の名誉も守られるだろう。
けれど、鵑は静かに首を振ってそれを遮った。
「棍と……あと、これ。預かってもらえませんか? 泥仕事で失くすのも、汚すのも……嫌なので」
そう言って、白い髪の束からそっと笄を引き抜く。
師から贈られた梓の木肌を、惜しむように指先でなぞり、格子越しに差し出した。
李峻は何かを言いかけ、結局は言葉を飲み込んでそれを受け取った。
棍は既に回収し、保管してあるそうだ。
「まったく……。貴女は、本当に黎景殿の教え子なのだな」
片手でこめかみを押さえ、李峻は皮肉めいた口調で吐き捨てると、これ見よがしに大きなため息を吐いた。
それに対し、申し訳なさそうに、けれどどこか晴れやかな微笑を浮かべる鵑。
李峻は呆れたように肩をすくめると、そのまま背を向けて去っていった。
黴と饐えた臭いの立ち込める獄から、鵑が再び外の光を仰いだのは、それから三日後のこと。
折悪く、近隣の村々は秋穫の最盛期に人手が奪われ、水路を浚うための徭役が不足するなか、鵑に下されたのは、一兵卒ですら音を上げる酷役であった。
膝まで泥に浸かり、黒く濁った沈殿物を掬い上げる。
枷こそ幾分か軽くなったものの、背に突き刺さる監視の目は鋭く、民たちの軽蔑を含んだ呟きは容赦なく耳を打つ。
「沈家の慈悲も、これでは甘すぎる」「まだこの地に留まるとは」
牙を剥く不満の渦中にあっても、鵑の心は凪いでいた。
ただ、眼前の泥にのみ意識を研ぎ澄ます。
腐臭を放つ泥に塗れ、晩秋の水に指先を朱く染めながらも、鵑は無駄口一つ溢すことなく、黙々と泥を掻き出し続けた。
やがて、彼女に向けられる視線に変化が訪れる。
小柄で“不遜な流れ者”と噂されていた少女が、誰よりも深く汚泥に沈み、食を惜しみ、陽が落ちるまで腰を折って働き続ける。
その献身は、民衆の視線を哀れみと感嘆へと変えていった。
次第に「若様も悪かったのではないか」「あんな幼い娘だ、きっと止むに止まれぬ理由があったのだろう」と、噂は好意的な尾ひれを付けて広がり始める。
浚渫も終盤、雨による遅れが懸念されていたが、鵑の働きに触発された者たちの尽力もあり、予定通りの完遂が見えてきた頃だ。
「精が出るのう!」
泥を運ぶ鵑を呼び止めたのは、雷鳴のような快活な声であった。
目の前に立つのは、老いてなお、古木のような強靭な筋躯を誇る老人だ。
白銀の髪こそ鵑と同じ色だが、その佇まいは“翁”と呼ぶにはあまりに矍鑠として、周囲の空気を圧するほどの覇気に満ちている。
鵑は即座に手を止め、泥で汚れた手で拱手し、深く頭を垂れた。
男の名は、皇甫植。
沈烔堅とは古い付き合いで、猛将として名を馳せた人物だ。
今は好好爺の相を浮かべているが、纏う空気は依然として、一軍を鼓舞し敵を挫く武人のそれであった。
「これは、さるお方の独り言だがな」
勿体ぶった言い回しだが、声を落として密やかに話す姿にはどこか愛嬌がある。
「――愚息を叱るのは親の勤め。それを他人にさせたことに申し訳が立たぬ。だがしかし、実によい拳であった、とな」
「……」
「吾輩もあの場に居合わせたが、実に見事な武よ。吾輩の血も滾るというもの」
そう言うと潜めた声を大笑いで取り止め、鵑の肩を大きな掌で叩いた。
軽い調子だというのに、凄まじい衝撃に肩が外れるのではないかと思った。
「いずれ、戦場で肩を並べる日を待っておるぞ」
去り際にそう残すと、皇甫植は周囲を憚ることもなく豪快に笑い飛ばし、その逞しい背を揺らして去っていった。
沈烔堅からの密やかな赦し。
あるいは、この労働を通じて民の警戒を融かしたことへの、無言の労いか。
鵑は、皇甫植の広大な背中が見えなくなるまで頭を下げ続け、再び、砂泥との格闘へとその身を投じた。
――――
都の心臓部を貫く主幹水路から、泥濘がことごとく排されるまで半月。
水鏡の街は本来の瑞々しさを取り戻していた。
水面に砕ける陽光は、秋の深まりと共に透明度を増し、往来する小舟の棹が立てる水音も、耳をくすぐるほどに軽やかだ。
それは、鵑にとっての刑期満了を告げる音でもあった。
最後まで踝を拘束していた鉄枷が外された瞬間、解放感が四肢を駆け抜けた。
鵑は静かに立ち上がり、泥仕事を見守っていた官吏へと、拱手して一礼を捧げる。
果てのない放浪や、死線を潜る斥候の任に比べれば、この程度の酷役は造作もない。
だが、自らの手でこの街の停滞を一つ洗い流したのだという確かな充足が、鵑の胸の奥に灯っていた。
しかし、感慨に浸る時間は短かった。
機を計ったように現れた別の官吏が、鵑に先導を促す。
案内されたのは、城郭の隅に位置する、陽光の届かない冷え冷えとした一室。
扉を開けると、立ち込める墨の臭いと共に、机に突っ伏して死体のようになっている男の姿が目に飛び込んできた。
朱澤だ。
目の下には、墨を塗ったかのような濃い隈が居座っている。
彼は虚ろな目で鵑を捉えると、すぐ側にあった紙を掴み、ひらひらと力なく振ってみせた。
「ようやく……ようやく、尻尾を掴んだぞ……」
声は掠れ、もはや気力だけで意識を繋ぎ止めているのが分かる。
鵑は彼に近寄り、動きの鈍い朱澤から渡された紙を受け取った。
そこには、他者の筆跡をなぞったような歪な文字の練習痕や、羅列された人名を無残に塗り潰した黒い線が、執念の痕跡として刻まれている。
「こいつら……都水の役人の筆跡を真似て、虚偽の報告書を紛れ込ませてやがった……。んで、真似された役人の身辺を洗ったら、金の流れが真っ黒な奴らが出てきた」
腕を下ろすのを忘れたまま、うつ伏せで愚痴る朱澤の声は、半分ほど机に吸い込まれて聞き取りにくい。
ついでとばかりに、微かに動く指先で、数本の竹簡と乱雑な書簡を示した。
紙に記された名と日時を、それらと見比べていく。
朱澤が不眠不休で膨大な資料の海を泳ぎ、このわずかな矛盾を掬い上げた執念が、紙の端々の折れ曲がりに滲んでいた。
「……沈司朗様は?」
「ああ、浩然か……。あいつなら今朝、水賊の制圧に駆り出されたよ。今頃、八つ当たりでもしてるんじゃねえの……」
もはや体裁を取り繕う気力すら尽きたのだろう。
骨が溶けてしまったかのようなだらしなさで、朱澤は重い瞼を閉じる。
その直後、静まり返った部屋に、規則正しい寝息が響き始めた。
鵑は苦笑を堪え、机の上に散乱した硯や筆、そして彼が命を削ってまとめ上げた不眠の成果である紙束を、汚れないよう端に寄せた。
そうして資料の全体像に一通り目を通していく。
水鏡には、陳宜のような文官も、皇甫植のような猛将も揃っている。
それほどの才覚が揃いながら――だからこそ、悪事を働く者は狡猾だ。
鵑は、闇に潜む者の執念深さに、僅かな呆れを覚えずにはいられなかった。
それは、かつて李峻の依頼で対峙した水賊も同じだった。
少数での奇襲に始まり、追撃をかわしては射程外から執拗に船を穿つ。
航行不能間際まで追い詰めるその嫌らしい戦法は、後に師から、対抗策についての講義を受ける契機となったものだ。
鵑は小さく吐息し、読み終えた竹簡を巻き直した。
その横で、朱澤が弾かれたように身を起こした。
袖で口元の汚れを無造作に拭い、寝惚け眼で辺りを見回すと、目の前にいる鵑を見てどれくらい寝ていたかと焦ったように問う。
四半刻も経っていないと告げると、彼はそうかとだけ短く吐き出し、豪快な骨の音を鳴らして背を伸ばした。
「僕はこいつを片付けたら、帰って寝る。お前も、もう戻っていいぞ」
朱澤は欠伸を噛み殺しながら、先ほど鵑が整理した竹簡を、重そうに抱え直した。
手伝いたいのは山々だが、鵑はまだ正式な役職に就いているわけではない。
機密に触れるものを公然と運べば、また不必要な火種を生むことを、朱澤は察して遠ざけてくれたのだ。
鵑は黙って、深く拱手した。
短く別れを告げると、鵑は足早に城を後にした。
背後で城の門が閉まる音を聞きながら、彼女の心はすでに、次に打つべき一手へと動き始めていた。
桟橋を渡ったところで、熱を帯びた噂話が耳に飛び込んできた。
それはまさに今、鵑が欲していた情報だった。
輪の中心にいた男たちに声をかけると、彼らは泥汚れが染み付いた少女を訝しげに見下ろしたが、鵑に気圧されるようにして情報を差し出した。
話を聞き終わると男たちに礼を述べ、その次の瞬間には、走り出していた。
久しく拘束されていた体は、最初こそ錆びついたようにぎこちなかったが、それも数歩のことだった。
解き放たれた四肢は、疲労よりも身軽さを主張し、吸い込む空気とともに風と一体になっていく。
水鏡の城郭を抜けると、道は河に沿って伸びていた。
平原の向こうには小高い丘が横たわっている。
その丘からも水鏡へと支流が流れ込んでおり、この土地がいかに水の恩恵に依存しているかを改めて実感させられる。
男たちの噂によれば、沈司朗が水賊制圧に向かったのは、丘とは反対側の平原に構えられた関所付近だという。
あの辺りは地勢が険しく、大規模な整備が難しい。
関所という要所でありながら、沈烔堅の威光が届きにくい死角なのだ。
水運の起点でありながら、同時に外敵を呼び込む隙でもある。
鵑は、その場所が抱える矛盾に、拭い去れない不安を覚えた。
――だが、あそこには今、沈司朗がいる。
彼が遅れを取ることはないだろう。
鵑は関所へ続く道に背を向け、丘へと足を進めた。
目指すのは、水源の近くにあるはずの小さな村だ。
事前に頭に叩き込んだ地図が、脳内で地形と重なる。
複雑な城の回廊に比べれば、土の匂いがする自然の造形は、驚くほどすんなりと彼女の五感に馴染んだ。
丘を越え、村に辿り着いた鵑を待っていたのは、古びた家々と、見る影もなく痩せさらばえた畑の光景だった。
村の入り口に立っても、迎え入れるような活気は微塵もない。
水源に近い村だというのに、畑を潤すべき用水路は枯れ、ひび割れた土底を晒している。
傍らには、壊れた水車が放置されたまま傾いていた。
「これは……深刻だね」
思わず呟きが漏れる。
水鏡の街中で見た、溢れんばかりの水路や豪華な噴水とは、まるで別世界の光景だ。
ふと、民家の陰から一人の幼い子供が顔を覗かせた。
だが、鵑と目が合った瞬間、子供は怯えたように肩を竦め、奥へと逃げ込んでしまった。
そして。
「……あんた、誰?」
空気が、張り詰めた。
今日の夕飯はロールキャベツにするか、豚骨ラーメンにするか。
とりあえず、買い物に行かねば。




