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雨天決行  作者: 公星
17/30

1-17『作戦会議』


 肌を刺すような早朝の寒気のなか、鵑は呼び出しを受けた。

沈司朗の使いを称する兵が告げたのは、「軍議室へ来い」という短い命のみ。それ以上の説明は何ひとつなかった。


 顔を洗い、髪を結い、日課の鍛錬を終えたばかりだ。

身なりこそ整ってはいたが、沈司朗のあまりの気の早さに、鵑は呆気にとられる。

だが、ぐずぐずしてはいられない。

背に棍を負い、李峻に短く断りを入れて屋敷を飛び出した。


 城への道を歩きながら、昨日の出来事を反芻する。

沈烔堅との謁見、司朗との私闘、そして水門の巡回。思い返すだけで溜息が出るほど濃密な一日だった。今頃、街には「不遜な流れ者」の噂が広まっていることだろう。


(思遠様が聞いたら、面白がって揶揄ってくるんだろうな……)


 ふと浮かんだ顔を振り払う。

考えまいと決めていたはずなのに、師の顔は当たり前のように自分の根底に根付いている。今はまだ、過去を思い出したくはなかった。

幸い、身体に疲れは残っていない。

薄く白み始めた空の下、鵑は歩みを早めた。

胸の奥には、呼び出しに対するわずかな不安と、それを上回る言い知れぬ期待が弾んでいた。


 城門をくぐろうとすれば、案の定、門番に露骨な渋面を向けられた。眉間の皺をこれでもかと深く刻み、憮然とした態度で武器の預け入れを要求してくる。

元より長物を持ち込むつもりはない。

素直に差し出した棍を、門番は奪い取るように掴んだ――が、見た目以上の重さに一瞬よろめき、毒づくようにこちらを睨みつけてきた。

鵑はこの都市の正統後継者を叩きのめした相手だ。

向けられる敵意は、いわば有名税のようなものだろう。

こんなところで揉めるつもりはなく、鵑は黙って門を抜けた。


「……帰りに忘れるなよ」


 背中に投げられた不機嫌な声をやり過ごし、石畳の回廊を進む。

行き交う文官や兵たちの足音が、冷え切った空気に硬く反響していた。


 昨日案内されたばかりの城内は、改めて見るとどこも似たような造りで、放っておけば方向感覚が狂いそうだ。

記憶を頼りに角を曲がり、見覚えのある柱や庭の配置を確認しながら、ようやく軍議室の前へ辿り着いた。

扉を叩き、短い返答に従って中へ入る。

室内には地図や竹簡が広げられ、沈司朗がそれを睨みつけるように覗き込んでいた。

その向かいで、朱澤が椅子に腰掛け、別の資料に目を走らせている。


「遅い」


 顔を上げた司朗の第一声は、明らかな苛立ちを含んでいた。


「昨日、案内したはずだ」


 何をそんなに急いているのか。

鵑が口を開く前に沈司朗は視線を机に戻し、指先で苛立たしげに卓を叩き始めた。

その向かいで、朱澤がにやりと口元を歪める。


「そうだぞ。迷うような城でもないだろ」


 便乗した揶揄いに、鵑は思わず顔をしかめた。

そして司朗が再び顔を上げるより早く、朱澤に向けて「べー」と子供のように舌を出して見せる。


「あ」


 朱澤が声を漏らした瞬間、鵑は何事もなかったかのように澄ました顔に戻った。

黙って頷くのは癪だったが、これで少しは溜飲が下がった。


 不審げな視線を向けてくる沈司朗に対し、鵑は拱手して遅参を詫びた。

朱澤はそれ以上追及せず、ただ疲れたように息を吐く。

一歩踏み込むと、室内には乾いた墨の匂いが満ちていた。

誰かが夜を徹して筆を走らせた残滓だろうか。

その香りはどこか懐かしく、鵑は無意識のうちに指先で笄(こうがい)の感触を確かめていた。


 鵑の微かな郷愁に気づく様子もなく、沈司朗は机上の資料の山を押し出し、低く告げた。


「昨晩、すべて改めた。整理のために必要な箇所は書き写したが……前回の浚渫(しゅんせつ)が甘かったとは思えん」


 こともなげに言うが、積まれた竹簡や書簡の束は尋常な数ではない。

水門の通行記録から納税、役人の名簿に至るまで、街の呼吸すべてを洗い出したかのようだ。

これを一晩で整理し、要点を書き写したというのか。

筆を置いた朱澤が、凝り固まった肩を回しながら言葉を添えた。


「直近三年分に関する限り、不自然な点は見当たりません。時期も、内容も、帳尻は合っています」


 朱澤の声には、徹夜作業の疲弊がそのまま宿っているようだった。

昨夜、鵑たちと別れた後に司朗へ報告し、そのままこの難儀な作業に付き合わされたのだろう。

目の下の隈が痛々しいが、主君への忠義か、あるいは乳兄弟ゆえの諦めか。


(それにしても、これほど紙を贅沢に使うとは)


 近年流通が増えたとはいえ、紙は未だに貴重品だ。

それを私的な調査で湯水のように使えるのは、流石は商都・水鏡というべきか。

そして何より、この二人はこれだけの紙を一晩で潰したのか。

かつて見慣れた光景ではあるが、今の鵑にはいささか眩しすぎた。


 沈司朗は二人の反応を気にする風もなく、竹簡を巻き直しながら低く呟いた。


「何もないなら、それでいい。だがな……親父殿やこの街をナメられたまま、見過ごすわけにはいかねえ」


 言葉の端に滲む必死さは、後継者としての自負だろうか。

責任を背負う者の声音であり、逃げ場を探す気配がない。

だが、朱澤がすぐに首を振る。


「それは分かります。ですが、記録は白だ。李家の主人が言っているのはあくまで李家内部の懸念であって、水鏡全体の問題ではない……そう判断すべきじゃないですか」


 司朗の目は、夜通し数字を追った後とは思えないほど鋭く光っている。

これほどの労力を費やしてもなお「足りない」と己を追い込むのなら、君主とはどれほど過酷な生き方なのだろう。

その横顔に、鵑は半ば呆れ、半ば感じ入っていた。


 朱澤の言う通り、現状では「何かが起きている」証拠は何もない。

だが、鵑には司朗が何に突き動かされているのか、心当たりがあった。


(大きな災厄は、些細な違和の積み重ねから弾ける。だからこそ、日々の揺らぎを見逃してはならない)


 いつだったか、師が仕える太守が口にしていた言葉だ。

司朗の根本にあるのも、おそらくそれと同じ、本能的な危惧なのだろう。


「あの」

「なんだ」


 鵑の呼びかけに、司朗が顔を上げた。

この机に並ぶのは、水鏡の軍機にも関わる国家機密だ。

君主に「客将には不安だ」と拒絶された身の自分が、これほど無防備に閲覧してよいものか。

鵑が文字を読めないと思われているのだとしたら、あまりに不用心すぎる。

だが、朱澤は知っているはずだ。

昨夜、李峻の帳簿を共に読み解いたのだから。


 一歩もその場から近付こうとしない鵑に、その疑問を察したのか、沈司朗はわざとらしく鼻を鳴らして腕を組んだ。


「お前を客将としてねじ込むには、実績が必要だ。俺だけが認めても、親父殿は首を縦に振らねえからな」

「……それにしても、豪胆すぎませんか」


 鵑の驚愕を代弁するように、朱澤が呆れた溜息を司朗に投げつけた。

当の沈司朗は、不敵に口角を上げて「勘だ」と言い切る。


「拳を交わして分かった。お前は信用できる。それに……次こそは、本気のお前と手合わせしたいからな」

「……結局、それが本音ですか」


 呆気にとられる鵑の横で、朱澤がじっとりとした視線を送る。


「この戦闘狂の筋肉馬鹿が」


 朱澤の呟きを聞き逃さず、司朗は笑顔で青筋を浮かべ、その頭を小突いた。

大袈裟に痛がる朱澤。

いつものやり取りなのだろう。


 その様子を眺めていた鵑と、司朗の視線がかち合った。

沈司朗はまるで、悪戯を思いついた悪ガキのような笑みを浮かべる。


「お前だって、今更逃げねえだろ?」


 挑発的だが、確信に満ちた言葉。

きっと、自分が司朗に抱いた同族意識を、彼も感じているのだ。

こう言えば、自分が乗ると分かっている。

昔からの知己のような振る舞いが少し癪だったが、否定はできなかった。

鵑は一歩、机へと歩み寄る。


「私の方が、怪我は少なかったようですしね」

「ハッ、あんなの掠り傷だ」


 手合わせの決着は、まだ付いていない。

あえて優位を主張してみせると、思った通りの反応が返ってきた。

鵑は小さく笑い、司朗の正面に立つと、今一度深く拱手した。

司朗はそれを満足そうに受け止め、力強く頷いた。


 わだかまりが解けたところで、ようやく本題へ入る。

これだけの資料を洗ってなお、自然災害以外の綻びは見つからない。

もしこれが誰かの思惑だとするなら、露骨な手段を避け、長い時間をかけて密かに仕掛けられた策である可能性が高い。


(ただの猜疑心かもしれない)


 その疑念は常に頭の片隅にあったが、鵑はあえて無視した。

「気のせい」で片付けてしまえば、結論を急ぐあまりに真実を見逃す。

何より、目の前の資料の山と、それを積み上げた沈司朗達の努力を無下にはしたくなかった。

沈黙のなか、沈司朗の指先に押された紙束が、わずかに乾いた音を立てて軋む。


 様子を窺っていた朱澤が、腕を組んだまま長く息を吐き出した。


「……役者も揃いましたし、ひとまず、整理しましょう」


 朱澤は視線を地図から外し、鵑、そして沈司朗へと順に目を向けた。


「昨夜、僕、そして李峻殿と鵑の三人で見た通り、水門も、李峻の帳簿も、“表面上”は白」


 鵑は黙って頷いた。

脳裏に、夜の帳に包まれた水路と、風に揺れる灯火の影が甦る。

あの静寂、何も起きなかったという事実こそが、かえって薄気味悪い違和感として肌に張り付いていた。


 朱澤は一拍置き、今度は司朗を真っ直ぐに見据えた。


「その上で、お聞きします。……この件、本当にこのまま、僕らだけで進めるおつもりですか?」


 室内の空気が、ふっと冷え切ったように引き締まった。

確証のない違和感を公にする弊害。

万が一、空振りに終われば「嫡男が根拠のない疑念で街を騒がせた」と人心を失いかねない。

暗に「もっと別の方法で鵑の実力を示せばいい」と告げる朱澤の問いに、鵑もまた司朗の横顔を盗み見た。


 沈司朗はすぐには答えず、広げられた地図に視線を落とした。

その目は、紙の上の図形ではなく、そこに広がる水鏡という都市そのものを見据えているようだった。

やがて、沈司朗は静かに首を振る。


「……効率のいい手なら他にもある。だがな、朱澤。これは鵑が気づいたことだ」

「それは、分かってますが」

「それに、もし万が一があれば……俺は見過ごせねえ」


 低いが、迷いのない声音だった。

父である君主に、己が後継として相応しいか試されている立場。

沈司朗にとって鵑は、己の眼力を証明するための試金石でもあるのだろう。

どこまで彼女を使いこなせるか。

そんな風に利用されているのだと理解しながらも、鵑の胸に不快感はなかった。


(いつも、誰かが後ろにいたのに)


 今までの自分は、一人で生きてきたつもりでその実、常に――“彼ら”の庇護下にあった。

だが沈司朗は、彼女の背景を知らぬまま、目の前の「鵑」という個人の言葉を信じようとしている。

その危ういほどの信頼に、応えたいと切に願った。


 鵑は思考を切り替え、改めて資料の山を見つめた。

現状では、水位の乱れも舟の停滞も、事務的に処理されて終わる程度の事象でしかない。

沈烔堅や重臣たちを動かすには、今のままではあまりに材料が乏しい。

沈司朗が、指先で徭役名簿の端を叩いた。


「親父殿や陳宜を説得するには、言い逃れの出来ねえ証拠が要る。まずはその材料を揃えるぞ」


 短く、断じるような言葉。

朱澤はしばらく司朗の顔を見つめていたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。


「……分かりました。では、地道な痕跡探しからですね」


 反論を続けていた朱澤の、意外なほどあっさりとした承諾。

考えてみれば、彼は昨日も文句を言いながら案内に同行し、夜には司朗を伴って李家の話を聞きに行っていた。


(乳兄弟、か)


 李峻の言葉が頭をよぎる。

もし自分にも、こんな風に支え合える兄弟姉妹がいたなら――。


 ふいに浮かびかけた顔を、鵑は意識的に思考の底へと沈めた。

今は、今すべきことだけに集中するために。

鵑は深く、静かに頷いた。


 朱澤が現状を整理するべく、水鏡の現状を一つひとつ地図の上に落とし込んでいく。

水路の詰まり、船底の接触。

規則通りに行われる水門の開閉。

浚渫の記録も完璧であり、天候の急変もない。

そこまでは、すでに共有された事実だ。

だが、その「完璧すぎる記録」こそが、朱澤の眉間の皺を深くしていた。


「鵑。お前なら、どこを洗う」


 朱澤に水を向けられ、鵑は資料の山を見据えたまま、よどみなく答えた。


「……兵の入れ替わりと、水利官の懐事情。物流の停滞がどの商家に利益をもたらしているか。それから、近隣豪族の不穏な動き、です」


 人事にまで踏み込む提案に、朱澤の目が鋭く細められた。

同時に、司朗の机を叩く指先が、ぴたりと止まる。

二人の反応で察した。

おそらく、そのあたりはすでに彼らの網に掛かっている。

鵑はさらに踏み込んだ。


「夜警の死角が漏れていないか。商家の収賄を、どこまで『街の潤滑油』として見逃してきたのか」

「……概ね、調べは進んでる」


 司朗の答えは短かったが、その声には苦渋が混じっていた。


「それなら、あとは現場の違和と、これらの数字を突き合わせるだけですね」


 鵑の言葉を朱澤が引き継ぐと、沈司朗は指先で再び机を叩いた。

今度は規則正しく、軍鼓を刻むような音だった。


「大きく動けば、鼠どもに逃げられる。それじゃあ意味がない」


 鵑と朱澤は、同時に頷いた。

焦燥よりも、冷徹な緊張が室内の温度を下げていく。


「……調査対象を絞りましょう。疑わしい穴を、すべて洗い出す」


 朱澤が新しい紙を広げた。乾いた音が静寂に響き、彼は迷いなく筆を走らせる。


 昨晩、李峻が指摘した「整いすぎた数字」。

帳尻の合わない積荷の数。

水門の通行記録に隠された、空白の時間。

三人は沈黙に沈み、ただ資料と対峙した。


 繰り返し視線を往復させるうち、文字の輪郭が滲み、墨の跡が別の形を成していく。

整然と並んでいたはずの記録が、いつしか正体を隠した“仮面の列”のように見え始め、鵑は一度だけ目を閉じて深く息を吐いた。


 それでも、手は止めない。

竹簡が重なる硬い音だけが、夜の名残を残した軍議室に降り積もっていった。


コンビニのバスク風チーズケーキ食べた。美味しかった。また買ってこよう。

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