1-16『水の隠し事』
水鏡は水の気配と共にある。
城下を巡る運河は灯火を映し、揺らぐ光が僅かな茜と紺を映した水面に幾重にも重なっていた。舟の櫂が水を掻く音、桟橋に当たる水音、遠くで縄を引く軋み。人の営みと同じほど、水の気配が濃い。
三人は橋を渡りながら、自然と歩みを緩めていた。
ふと、通りの先で舟が立ち往生しているのが見える。
「……またか」
沈司朗が低く呟き、眉間に皺を寄せた。
三人が立っているのは、運河に沿って張り出した石造りの小橋の上だった。沈む太陽が溶けるように水面に揺れ、橙色の光が幾筋にも裂けて流れている。
その先、水路の曲がり角で数艘の舟が団子のように詰まり、船頭たちが声を荒げていた。
櫂が水を掻く音と、船腹が擦れる鈍い響きが、湿った空気に重く滲む。
「最近やたら多いですね。舟が詰まったり、桟橋が通行止めになったり」
朱澤の言葉に、鵑は視線を巡らせた。
確かに、先ほど通った別の水路でも同じように舟が足止めされていた。荷を下ろして押し歩く商人、苛立ちを隠さない船頭、行き場を失った客の姿。水の都市に似つかわしくない滞りだった。
沈司朗は腕を組み、橋の欄干に寄りかかるようにして水面を睨む。夕日の反射が彼の横顔を断続的に照らし、思案の影を濃くしていた。
「今日も、確かに多かったな」
朱澤が短く頷く。彼は水路の縁へ数歩近づき、足元の石の濡れ具合を確かめるように靴先で軽く擦った。
「雨が続いてるわけでもないのに、水位だけ妙に高い。舟底が擦るって文句も出てます」
その言葉に、鵑も水面を見下ろす。
流れは緩やかで、高波が有るわけでもないのに岸石の半ばまで、濡れ跡が上がっている。水面の高さに対して、舟の喫水線が不自然に浅く見えた。
櫂が入る角度、波の返り方、岸に当たる音の重さ。細かな違和感が、静かに積み重なっていく。
沈司朗は顎に手を当て、視線を細めた。
「……浚渫が甘いのか?」
独り言のような呟き。だが答えを確かめるように、無意識に周囲を見回している。
その横で、鵑は一歩だけ橋の端へ寄った。水面の揺れを追い、対岸の石垣の濡れ幅を測るように目を細める。舟の傾き、流木の流速、浮かぶ油膜の形まで視界に収める。
「……水位を、勝手に操れる場所があるのでしょうか」
ぽつりと落ちた声に、二人の視線が向いた。
沈司朗の眉がわずかに動く。
「……どういう意味だ」
問い返す声は低く、猜疑の色を帯びている。
それもそうだろう。いきなり管理体制を指摘したようなものだ。
配慮に欠けた発言ではあるが、鵑はそこに触れずに首を振った。
「自然に増減しているなら、沈烔堅様や陳宜様が何もしないとは思えません。ですから……もし、人為的に操作されているなら」
言い終える前に、沈司朗の表情が引き締まった。思案の迷いが消え、その顔には将としての判断の速さだけが残る。
「だとしたら、問題だな」
短く断じる声。夜風が橋の上を抜け、水面が細かくさざめいた。
沈司朗は一瞬だけ沈黙し、運河の上流と下流を順に見比べる。頭の中で地図をなぞるような目だった。
彼は水鏡を治める沈家の嫡男だ。何か思い当たる節があるのだろうと、鵑はその横顔を見ていた。
思案の時間は僅かで、沈司朗は躊躇いなく踵を返す。
「……一度、調べる」
そして、それだけ言うと、歩き出した。
迷いのない足取りが石畳に響き、灯りの列の中へまっすぐ伸びていく。
「おい、浩然!」
呆気に取られていた朱澤が、我に返って呼び止めた。
沈司朗は半歩だけ振り返り、何かを思い出したように鵑を見る。
そして朱澤へ視線を流した。
「……そいつ、送ってやれ」
短く言い残し、その背中は灯火に照らされ、あっという間に人波へ紛れていった。
何か気になる事が有るにせよ、脇目も振らないとはこの事だと、鵑はただその背中を見送った。
その判断の速さは君主に求められる資質であり、けれど周囲を置き去りにする速度は――鵑もそうだけれど、周囲に理解されない事も、非難される事も多い。
鵑には幸い、頭の回転が速すぎる師や、即断と慧眼を持ち合わせた統治者が側に居たから、子供ながらに重宝されていたのだと思う。
沈司朗にとっては、沈烔堅や陳宜がそうなのかもしれない。その人達に頼れない時、彼は何を信じて、何を頼るのだろう。そんな興味が湧いた。
けれど、残されたのが沈黙と朱澤では、その答えは得られないだろう。ほんの少し、気まずい影が落ちる。
朱澤は頭を掻き、視線を泳がせた。
「……で、お前の住まいは?」
「……今は、李峻殿の家に」
「ああ、あそこか」
納得したように頷き、顎で道を示す。
沈司朗が居ないからか、それとも鵑を受け入れていないからか、朱澤の口調は少し荒い。
「じゃ、ひとまずそっち行くぞ」
二人は並んで歩き出した。
沈司朗の強引な歩幅とは違い、朱澤の歩みはどこか慎重で、言葉を選ぶような沈黙が続く。
水路に映る灯りが揺らめき、足元に淡い影を落とす。先ほどまでの賑やかな掛け合いが嘘のように静かだった。
それでも、水の音だけは変わらず寄り添う。
舟の軋み、波の返し、遠くに聞こえる誰かの声。それらが混ざって、水鏡という街の呼吸のようだ。
鵑は隣を歩く男の横顔を一瞬だけ見た。
沈司朗とは違う、無骨で不器用な沈黙。その中に、人の温度が滲んでいる。
李峻の家へ続く道を、二人は静かに進んでいった。
李家の門をくぐると、迫り来る夜の気配は一転して穏やかな灯りに包まれた。
中庭には柔らかな明かりが落ち、水の匂いに生活の気配が溶けている。
だが出迎えた奥方の表情には、どこか落ち着かぬ影があった。
「主人が、まだ戻っておりません」
静かに告げる声の端に、隠しきれない不安が滲む。
まだ遅くはないだろうに、と鵑が首を傾げれば、奥方は少し迷ったように視線を落とした。
「今日は早く帰ると言っていたのです。……ですが、昨夜も、今朝も……何か気掛かりな様子で……」
言い淀むその言葉に、鵑は早朝の庭先を思い出す。
棍を振っていた自分に向けられた視線と、言葉を選ぶような間。確かに李峻は、気になることがあると言っていた。
朱澤は顎に手を当て、しばし考え込む。
「……水運の筆頭である李峻殿なら、何か掴んでるかもしれないな」
短く言うと、奥方に招かれ家の入口から奥の部屋へ案内されると、椅子に腰を下ろした。待つ、という判断に迷いはないらしい。
やがて、奥の部屋から賑やかな足音が近づく。
「おにーさん、だれ?」
幼い声と共に、汀が雪崩れ込んできた。澄も後に続いた。標的にされたのは、意外にも朱澤だった。
腕を引かれ、袖を掴まれ、質問の矢が容赦なく降り注ぐ。
「ちょ、待て、順番に……!」
朱澤が困惑しながらも相手をしているうちに、いつの間にか汀が膝の上にその短い両腕を乗せて寄り掛かり、隣で澄が汀を剥がそうとしている。
最初はぎこちなかった朱澤の表情も次第に緩み、気付けば子どもたちの高さに目線を落として応じていた。
沈司朗が威勢と豪放さで人を惹きつけるのなら、この朱澤という男は、良くも悪くも慎重で真面目。一人では輝く事が無いように振る舞っている。そんな風に見えた。
つまりは、まだ信じきれる程の付き合いではない。
鵑は、澄と汀の顔が曇らないよう、黙って朱澤を眺めていた。
やがて時間が経つにつれ、朱澤の肩が目に見えて落ちていく。
遊びに付き合い続けた結果だ。笑顔のまま、ぐったりとした気配が滲み始める。子供の体力を侮ってはいけない。
外では、遠く舟の櫂が水を打つ音がした。
李峻の帰りは、まだだった。
李峻が帰ってきたのは、夜の帳がすっかり下りた頃だった。
門の外で足音が止まり、控えめな咳払いが一つ。奥方が「お帰りなさいませ」と声をかけると、疲れの色を隠しきれない顔の李峻が姿を現した。肩にはまだ外気の冷たさがまとわりついている。
部屋に入り、李峻の眉がわずかに上がった。
「……朱澤殿?」
朱澤は膝に乗っていた汀を抱え、隣に座る澄の頭に手を置いたまま立ち上がり、軽く礼をした。
思わずと言わんばかりに名を声に出した李峻。その声には驚きと色々な感情が垣間見えた。
娘達を溺愛する親馬鹿の目には、鵑であの態度だったというのに、今、どんな風に映っているのだろう。
不意に過った疑問は見送り、朱澤の隣で鵑が先に口を開く。
「遅くなった所、送っていただきました」
簡潔な説明に、李峻は一瞬だけ鵑の頬に視線を巡らせ、状況を呑み込む。やがて肩の力を抜き、小さく頷いた。
「ああ……沈司朗様相手に、大立ち回りしたと聞いた時は肝が冷えたが……」
流石、情報が早い。
耳が痛い話だが、沈司朗とは和解済みだ。いや、そうは言われてないが、恐らくその認識で良い。
だからそんな嫌味でちくちくと刺すような目で見ないで欲しい。思わず、鵑は視線を逸らしていた。
「それなら、ちょうど良い。もう遅い時間です。よろしければ一緒に食事を」
鵑を詰めるのは後回し、そういうことなのだろう。
密かに肩を揺らして笑っていた朱澤に、話題が向けられる。
そしてその言葉を、朱澤は一度は遠慮した。客人として踏み込みすぎることを避けるように、丁寧な辞退の言葉を並べる。
だが、その袖を引いたのは汀だった。
「ねえねえ、一緒に食べようよ!」
屈託のない笑顔と遠慮のなさに、朱澤の表情が崩れる。断る理由が音を立てて崩れ去り、ついには苦笑交じりに頷いた。
食卓は賑やかだった。澄は静かに様子を見守りながらも時折質問を投げ、汀は絶え間なく話しかける。朱澤は応じながらも、終始幼い姉妹の勢いに押されていた。
その様子を、鵑は引き続き観察していた。まだまだ計り知れない男だが、きっと善意が芯にあるのだろう。
やがて奥方が「もう遅いから」と優しくも有無を言わせぬ調子で澄と汀を連れていく。二人は不満げに振り返りながらも、最後には朱澤へ大きく手を振って去っていった。
子供達の足音が遠ざかると、部屋に静けさが落ちる。油灯の揺れが、壁に淡い影を作っていた。
朱澤が姿勢を正し、声を落とす。
「……李峻殿。最近、何かおかしなことはありませんか」
問いは穏やかだったが、芯に硬さがある。
李峻は、すぐには答えなかった。
指先で茶器の縁をなぞり、わずかに視線を伏せる。沈黙の間に、外の風が窓をかすかに鳴らした。
やがて、朱澤を見据える。
「……沈司朗様の乳兄弟、ましてや、朱家の方に……隠しても意味はありませんな」
席を立ち、一度奥の部屋へ消える。戻ってきた時、腕には厚みのある帳簿が抱えられていた。
几帳面に使い込まれた表紙。机に置かれる。
李峻は帳面を開き、数頁をめくる。並ぶ文字は整然としており、一見して乱れはない。むしろ、見事なほどに整っている。
「……こちらを、ご覧ください」
指先が止まった。積荷台帳らしきそれは、荷主や品目、数量・重量、荷印や税支払の有無等がびっしりと書き込まれていた。
朱澤と鵑が身を乗り出して覗き込む。どこを見ても不自然さは見当たらない。誤差はあれど、帳尻は合い、記録としては完璧に見える。
だが、李峻は首を横に振った。
「重なり過ぎているのです」
静かな声だった。
「人の商いというものは、綺麗には並びません。風や潮、誤解や些細な間違いが必ずどこかを狂わす。だが、同じ形で狂い続ける事もまた、あり得ない」
指で数字をなぞる。その動きには、長年帳簿を見てきた者の確信があった。
李峻は、不自然だという部分の帳簿の細かい文字を指先でなぞり、読み上げる。それだけでは何の事か分からない鵑が首を傾げ、朱澤も眉間に皺を寄せた。
水位低下で荷を分割、口伝で聞いた数の書き間違い、数量単位の違い――更には、本来ならば他言しないような、役人の知人という特別待遇の暗号。
それらを李峻は説明し、もう一度先程と同じ部分を指差す。
すると、訂正や差異を含めて事細かに記しているからこそ、水位の乱れと荷の差異が出る日が重なることが、やたらと目立つ事に気付く。
「残念ながら、決定的な証は無い。だが、こうも噛み合うと、自然な事とは言えない」
「確かに、誰かが荷を触っている可能性が高いですね」
李峻の言葉を朱澤が引き継いで頷く。灯の火が揺れ、帳面の影が波のように動いた。
鵑は無言で文字を見つめる。整然と並んだ列の奥に、誰かの意図が潜んでいるような気配を探すように。
その横で、朱澤が互い違いの袖に腕を差し込み、僅かな緊張を滲ませて口を開いた。
「……貴方は、これを誰かに話しましたか?」
李峻の答え――その相手によっては、間違いなく首を突っ込むべきではないだろう、と鵑も予感していた。
李峻もそれを分かっているから、言葉を選ぶように、少しだけ答えるまでの一呼吸を置いた。
「まだ、誰にも。……疑うにも、順序がありますから」
言葉の終わりに滲んだ苦さに、鵑はわずかに目を伏せた。疑いは、人を傷つける。李峻はそれを知っているのだ。
疑い、すぐに動き出せば早い解決を見込めるが、時として軋轢を生む。
けれど鵑も――沈司朗も、そうしてしまう性質だ。何故だか諌められている気分で、同時に、沈司朗が気になってしまう。
自分は上手く行かない事が多かった。だから、今こんな所に居るのだとも言える。
それなのに、自分と似た選択をするあの人が、万事上手くやれるというのなら、自分と何が違うのだろう。
そんな、ある種の僻みと偏執。そんな負の感情を抱いていることすら、鵑自身のこれまでの生き方を否定する材料に思えた。
李峻が帳簿をそっと閉じる。厚い表紙が重なる鈍い音が、静まり返った内室に落ちて、鵑は自己否定を中断した。
朱澤は息をひとつ吐き、視線を天井へ泳がせてから低く言った。
「浩然に、伝えても?」
その言葉で、部屋の温度が一段下がったように感じられた。灯火の影が壁に揺れ、三人の輪郭が不安定に伸びる。
李峻は顎に手を当て、少しの間を置いてから頷いた。
視線が卓上から窓の方へ流れ、また戻る。やがて声を潜めた。
「最近、怪しい動きをしている商家がある。表向きは小さな荷運びだが、妙に羽振りが良い。桟橋の使用許可も急に増えた」
「ほう?」
朱澤の目が鋭く細まり、姿勢が前のめりになる。卓に置いた手が、わずかに音を立てた。
李峻は言葉を慎重に選ぶように、ゆっくり続ける。
「……だが、背後の資金の流れが見えん」
その言葉を聞きながら、鵑は無意識に窓の外へ視線を移していた。格子越しに見える夜の水路は、黒い布のように静かに広がっている。
だが耳を澄ませば、遠くで水音が重なり合っていた。小舟が動く音にしては、どこか不自然に続いている。
流れが、強い気がした。岸壁に当たる水の音が、短く硬い。
鵑は視線を戻し、静かに口を開いた。
「……今も、水位が高い音がしますね」
その一言に、朱澤と李峻は同時に立ち上がる。椅子が床を擦る音が重なり、部屋の空気が一気に動いた。
「確認しに行くおつもりで?」
「……僕も一度は、この目で様子を見ておきたいですから」
朱澤はそう答えると、腰の短剣に手をやる。
鞘を押さえ、抜け具合を確かめる仕草は自然で、迷いがない。
李峻は帳簿を素早く布で包み、灯火を一つ消した。室内の影が深くなり、外の夜気が濃く流れ込む。
鵑は立ち上がりながら、もう一度だけ窓の外へ目を向けた。
黒い水面の奥で、見えない流れが何かを運んでいる気がした。
「浩然が居たら飛び出してるでしょうね」
朱澤のぼやきに、鵑は小さく苦笑する。あの男なら、異変を放っておけるはずがない。だって――鵑も、今ここで動かなければ、何かが悪い方に向かう気がするから。あの男からは、どうしてだか同じ気配がする。
三人は静かに家を出た。夜気は冷たく、街灯の灯りが水面に揺れる。
生憎、水門に続く道にも水門近くにも、門番や夜警以外、水を気にする人影は無かった。
しかし、朱澤が低く呟いた。
「……誰かが“水”を動かしている、か」
鵑は息を潜め、暗がりの向こうを見据える。
静かな夜が、確かに何かを隠しているのだと畏怖を覚えながら。
スマホの初期化で色々飛びました。
草案データも消えました。なんてこった。




