1-15『後継者』
医官の詰め所の戸が、荒っぽく押し開けられた。
沈司朗に半ば引きずられる形で、鵑は室内へ足を踏み入れる。
部屋を満たすのは、青臭い薬草の匂いと、燻されたような煎じ薬の苦い湯気だ。
「……どうしました」
机上の書付から顔を上げた医官は、二人の姿を認めた瞬間、小さく眉根を寄せた。
沈司朗が慣れた様子で、簡潔に詰め所の主へ経緯を述べる。客将との手合わせで揉めたという、呆れを誘うには十分な報告だ。
説明を終えた沈司朗の横で、鵑は静かに佇んでいた。
医官の視線がゆっくりと鵑の頬へ、そして沈司朗の肩へと移る。
二人を並べて見据え、深々と息を吐き出した。
「……武家の若者というのは、何故こうも手間ばかり増やすんですかね」
それは怒声ではなく、心底からの疲労が滲んだ、乾いた声だった。
「こいつが先だ」
医官の小言など全く意に介さず、沈司朗が顎をしゃくって鵑を示す。
抵抗する間もなく、鵑は椅子へと座らされた。
医官の指先が頬に触れ、袖を捲られると脇腹の打撲痕に冷たい軟膏が塗られる。
ひやりとした感覚は、遅れてじんわりとした熱に変わった。
手当ての最中、医官の指先が脇腹の古い傷痕の上を滑ったとき、ほんの一瞬だけ動きが止まる。
そのわずかな変化を、鵑は見逃さず、申し訳なくなる。
だが、医官は何も言わない。
ただ一度だけ視線を鵑の顔へと上げ、すぐに何事もなかったかのように作業へ戻った。
「……これでよし。動くなとは言いませんが、せめて無用な争いは避けるように」
「……ありがとうございました」
鵑は小さく頷き、衣の乱れを整えた。
口の中に残る鉄の味を黙って飲み込む。痕跡はほとんど隠れたので、これ以上長居する理由はないだろう。
鵑が立ち上がると、入れ替わりに沈司朗が同じ椅子に腰を下ろした。
鵑は一瞬だけその背中に視線を向けたが、沈司朗がおもむろに上衣を脱ぎ出したから、すぐさま目を逸らした。
医官には礼を言った。
沈司朗には――背中に小さく拱手するだけに留め、一刻も早く彼から離れたい一心で戸口へと向かった。
戸に手を掛けた、そのとき。
「おい、待て」
低く沈んだ声が背後から飛んできて、室内の空気がわずかに張り詰める。
青臭い薬草の匂いの中、鵑は静かに息を吸い込んで歩みを止めた。
不本意とはいえ、連れてきてくれた沈司朗に対してこれが無礼な態度だと分かっている。ただ、この男にどう接していいのか分からないのだ。
首だけを向けると、視界の端に立ち上がろうとして医官に止められる沈司朗の影が見えた。
「……その、なんだ」
歯切れの悪い前置きが、場の空気に小さな綻びを作る。
先ほどまで剣と拳で語り合っていた男が言葉を探しあぐねている事実が、奇妙な違和感を胸に残した。
沈司朗は一度息を吐き、覚悟を決めたように口を開く。
「……すまなかった」
躊躇っていたのが嘘のように、一切の迷いがない動作で沈司朗は深く頭を下げた。
鵑の思考が一瞬遅れてから追いつく。その真っ直ぐさに、言葉が出なかった。言葉を返す間合いすら測れず、ただ沈黙が二人の間に下りていく。
「……顔を、上げてください」
鵑がようやく絞り出した声は、思いのほか静かだった。
沈司朗はしばらく動かなかったが、やがてゆっくりと顔を上げる。
その眉間には、先ほどの苛烈さとは異なる鈍い後悔が刻まれていた。
「ムカついたとはいえ……女の顔を殴っちまった」
言葉の端が、わずかに掠れる。
思いがけない言葉に、鵑はわずかに目を瞠った。
「ああ、そういえば」と、彼女は殴られた頬をそっと撫でる。自分が女であるという自覚が薄いのは、今さらなことだ。
対して沈司朗は、殴った側であるのに痛ましいと言わんばかりの視線を向けてくる。
その視線は、次いで医官の方へと向けられた。
「……痕、残らねえか」
その問いには虚勢も棘もない。あまりの落ち込みように、医官が答えるより早く、鵑が口を開く。
「大丈夫です。戦中、何度も殴られてますから」
事実を並べただけの声音。だがその淡白さが、逆に場の温度を下げた。
沈司朗の顔がわずかに歪む。
「お前……長生きできねえぞ」
呆れとも苛立ちともつかない声音だった。
鵑は視線を逸らさず、ただ頷いた。
「そうでしょうね」
あまりにもあっさりと頷く鵑に、沈司朗は言葉を失い、小さく舌を打った。
「……もう少し、自分を大事にした方がいい」
叱責というより、行き場を失った感情の置き所を探すような言葉だった。
それまで黙って沈司朗の手当てをしていた医官は、二人のやり取りに小さく肩を竦める。
「……貴方がそれを言いますか」
「俺はいいんだよ」
即答で、理屈にもなっていない理屈を口にするその顔は、少し拗ねているようにも見える。
医官は溜息をひとつ落とし、沈司朗の治療も終わったと立ち上がり、薬瓶を棚に戻した。
沈司朗は丸まった上衣に袖を通して、鵑に歩み寄ると、姿勢を正し、改めて鵑を見据える。
「……水鏡はいずれ俺が引き継ぎ、守っていくべき場所だ。ここで暮らすお前が、そんなシケた顔してるのを、放ってはおけねえだろ」
その声音には、嫡男としての矜持と、どこか不器用な責任感が滲んでいた。
「お前まで親父殿に叱責されたのは、俺の落ち度だ。だから客将の件、俺が取りなしてやる」
意気込みを語り、自信満々に腕を組んだ沈司朗に、鵑は圧倒された。
そして同時に、振り切れない忌まわしい男の影が過り、目を細める。
ただ――目の前の沈司朗は、あの王と違って、奪うことで成り上がろうとしているわけではない。
この都市の主となって治めることを、生まれながらに期待され、それを受け入れて生きてきたのだ。
それは、どれほどの重責なのだろう。
鵑には知る由もないが、他者のために背負うべきものを全うしようとするその真っ直ぐな姿勢には、わずかに胸を突かれる思いがした。
沈司朗の言葉を咀嚼するより早く、近づいてきた沈司朗の手が伸びた。
躊躇いのない指が、鵑の手首を掴む。
「……何を」
抗議の形を取る前に、体が前へ引かれて歩き出し、足音が廊下に響く。
薬草の匂いが背後へ遠ざかっていくと、視界の端で医官が苦笑交じりに肩を竦めていた。まるで、やれやれとでも言いたげな仕草だ。
半歩前を歩く沈司朗の広い背中は自信に満ちていて、鵑は抵抗する気力も言葉も、どこかに置き忘れてしまっていた。
ただ黙って、手を引かれるままに早足で進んでいく。
「まず地理を覚えることだ」
沈司朗は当然のように言い放ち、歩みを緩めない。
背丈と歩幅が違うせいか、時折足が縺れそうになるのをなんとか堪えた。
回廊が幾度も折れ、門をくぐるたびに方角が分からなくなる。兵舎、倉庫、政庁、詰所、裏門。
次々に添えられる説明が、まだ整理のつかない記憶の上に新しい情報を積み上げていく。
二人分の足音が石壁に反響する。
見上げれば梁は高く、視線の先にはまだ続く回廊がある。
ここで迷えば、二度と出られないのではないかという、妙な錯覚が胸を掠めた。
「……覚えきれる気がしません」
思わず零した弱音に、沈司朗は肩越しに振り返る。
「そうか?城内はこんなもんだ、そのうち慣れるだろ」
返ってきたのは、あっさりとした言葉だった。
軽々しく言うが、気付けば窓の外はすでに暮色に沈み始めている。瓦の稜線が黒く浮かび上がっていた。
ようやく終わりかと思った矢先、沈司朗は歩みを止めぬまま告げる。
「次、城下行くぞ」
「……え?」
思わず声も裏返る。時間も、覚える量もすでに限界に近い。
いや、幼い頃の師からの“有り難い”指導で無茶をしていたことを思えば、まだマシか。
うんざりしたような鵑に構わず、沈司朗は掴んだ腕を引いたまま門を抜けて外へと出た。
夕餉の匂いが空気に混ざり、灯りが一つ、また一つと軒先にともり始める。城下は、昼とは違う顔を見せようとしていた。
「これは、司朗様!今日は遅いですな」
通りに入るや否や、声が飛ぶ。
沈司朗は軽く手を上げて応じ、そのまま店先に視線を流した。
「張の旦那、腰の具合はどうだ」
「ああ、お陰様で。薬が効きましたよ」
「それは良かったな。無理すんなよ」
歩きながら交わされる短い会話。
次の店では店仕舞いをしている女将に声を掛け、別の露店では子供の名を呼んで早く帰れと注意している。
相手の名が自然に口から出るのは、ただ顔を覚えているだけでなく、彼らの生活の細部まで把握しているからだろう。
鵑はその光景を、少し後ろから静かに眺めていた。
沈司朗は、時折振り返っては「ここは市場」「あっちは鍛冶屋通り」と教えてくれる。
その都度、何か買いたいならどこがいいだとか、何かしたいなら誰々を頼るといいだとか、今の鵑にはまだ必要のないことまで、つらつらと語り続けた。
不遜で、苛烈で、短気な若君。その印象が、完全に消えたわけではない。
けれど今、灯火に照らされた横顔には、昼間の険しさはなく、この場所を守る覚悟と、都市を慈しむ気配が滲んでいた。
城門の方角を振り返ると、空はすっかり夜の色に染まり始めている。
覚えきれない地理と、途切れない声掛けと、見知らぬ人々の視線。
すべてが一度に押し寄せ、胸の奥には静かな疲労が広がった。
掴まれたままの腕に食い込む指の力は強く、迷いがないけれど――忌まわしい影とは違うのだと、十分に理解できた。
まるで、この土地そのものが、彼の歩幅に合わせて呼吸しているかのようだったから。
鵑は小さく息を吐き、夜へと移ろう城下の灯りを見渡した。
見知らぬはずの場所が、ほんの少しだけ輪郭を持ち始めている気がした。
不意に、通りの向こうを行く線の細い男を見付けた沈司朗が足を止め、軽く顎を上げた。
「子昂」
沈司朗の声が、人の行き交う通りのざわめきを軽く裂く。
呼ばれた男は足を止め、ゆっくりと振り返った。視線がこちらを捉えた瞬間、その表情が露骨に険しくなる。
「げ」という声が聞こえた気がして、鵑はわずかに眉を動かした。
子昂と呼ばれた男は、辟易した視線を沈司朗に向け、やがてその隣に立つ鵑へと滑らせる。
警戒の滲む鋭い目つきが、全身を値踏みするように上から下へと往復した。
「浩然様……なんです、そいつ」
隠す気もない不信感が声に滲んでいる。通りを行き交う人々の足音が背後で続く中、子昂にとっての鵑は場違いな異物らしい。
値踏みするような視線を受け止めながら、鵑は小さく息を整えた。肩の力を抜き、視線を落とし過ぎないように保つ。
「客将になる予定の鵑だ。鵑、こいつは朱澤」
沈司朗はあっさりと言い、ためらいなく鵑の肩を軽く叩く。紹介というより、場に押し出す合図に近い。
促されて一歩進み出た鵑は、拱手した。
通りの風が袖を揺らし、夕暮れの灯火が三人の影を足元に落とす。
「鵑と申します」
朱澤はすぐには答えず、視線を細めたまま黙り込む。
その視線は、赤く腫れの残る鵑の頬と、沈司朗の顔にある傷の痕を何度か往復した。
二人の間であったことを察したのか、朱澤は手を打つ。
「……ああ。昼間に浩然を殴った猛者がいるって聞いたけど、お前?」
「えっと……多分?」
「本気か、お前! 小さいのに、よくやった! 僕は朱澤。字は子昂だ」
そう言うと、拱手したままの鵑の肩を遠慮なく叩いて破顔する。
さらに懐を探ったかと思えば、強引に掴んだ鵑の手のひらに蜜餞を――子供に駄賃でも渡すように載せた。
呆れ顔の沈司朗が「俺にも寄越せ」と手を差し出すが、朱澤はそれを叩いて顔をしかめる。
そんな二人のやり取りの横で、鵑は手のひらのそれをまじまじと見つめた。
蜜漬けの梅のようだ。
ひとくちで頬張ると、甘さと同時に酸っぱさが広がって、思わず目を丸くした。
「じゃあ、まあ、よろしく」
結局、蜜餞を貰えなかった沈司朗は、面白くなさそうに鼻を鳴らす。
そんな様子に満足したのか朱澤は短く言い残し、踵を返した。まるで用件は終わったとでも言わんばかりの、迷いのない背中だった。
だが次の瞬間、沈司朗の手が朱澤の背中を容赦なく掴んだ。
あまりにも遠慮のない力で衣の襟が引かれ、朱澤の体は半歩後ろへ引き戻される。
「お前も来い」
「嫌です。断ります」
朱澤は間髪入れず拒絶を示した。その声には苛立ちがはっきりと滲んでいる。
通りの商人が何事かと視線を寄越したが、二人は気にも留めない。
沈司朗は口角をわずかに上げ、逃げ道を塞ぐように距離を詰める。
「どうせまたフラれて、暇だろ」
一拍。
そして空気が凍り付いた。
次の瞬間、朱澤の表情が真っ赤に染まる。
耳の先まで赤く染め、握りしめた拳をわなわなと震わせた。
「浩然、てめえ……!余計なことばっかり覚えやがって!」
「図星か」
「違えよ!」
怒鳴り声が通りに響き、周囲の人々が面白半分に視線を向ける。
その騒がしさの中で、鵑は口の中に広がる甘酸っぱい余韻を堪能しながら、目を瞬かせ二人を見比べていた。
政庁や鍛錬場で見せる顔よりも、随分幼い――年相応な応酬が続いている。
沈司朗の飄々とした笑みと、朱澤の真っ赤な顔。その落差に、胸の奥がわずかに緩むのを感じた。
やがて二人は、ふと同時に、じっと見つめる鵑の視線に気付く。
急に黙り込んだのは、見られていた気まずさからだろうか。
「とにかく来い」
「とにかく嫌です」
重なった声が、妙に揃っている。
その光景に思わず吹き出しそうになり、鵑は慌てて口元を押さえた。
鵑の反応に沈司朗が眉をひそめ、朱澤がわずかに目を見開く。
そしてまた、お前のせいだと罪ですらない何かを擦り付けあっている。
しばらくの沈黙の後、朱澤が折れた。
「……ああもう、分かりましたよ」
さも被害者のような顔で肩を落とし、諦めたように手を振る朱澤だが、その軽薄な様子に哀れみは湧かない。
きっとこの二人にとっては、これが日常なのだろう。
「行きゃいいんでしょ」
「最初からそう言え」
「お前、いつか刺されるぞ」
文句を零しながらも、朱澤は二人の横に並ぶ。
「というか、もう遅いですし。女の子連れ歩くのはどうなんです?」
「あと数ヶ所だし、俺とお前が居れば問題ないだろ。それに」
沈司朗が自身の頬に軽く拳を当て、ちらと鵑に視線を落とす。
「鵑は強い」
朱澤に向けていた悪戯な視線が、今度は鵑に向けられた。
けれど、答え方に迷う鵑の代わりに朱澤が「男前にされましたね」と揶揄うが、うるせえ、と返す沈司朗の声に怒気はなく、どこか軽い。
灯りの連なる通りを歩きながら、鵑は二人の掛け合いを横目で追った。
奇妙な均衡で、三人の足音が夜の城下へと溶けていく。
敵地のように感じていた城下の夜が、ほんの少しだけ、温度を持って近づいてくる気がした。
アップルパイが食べたい




