1-14『沈家』
翌朝も、まだ朝靄が残るうちから鍛錬に勤しむ鵑に、李峻が声を掛けてきた。
昨日よりもずっと神妙な顔をして、今日の沈烔堅への謁見には同行できないと言った。
昨晩見せていた、愛する家族を慈しむ親の顔ではない。
そこには、懸念を抱いた時の、研ぎ澄まされた商人の顔があった。
「……心配事でも?」
「ああ、いや……大したことではないが……。いや、どうにも、帳簿が綺麗に揃いすぎていてな」
首を捻る李峻は、思い違いならそれでいいが、少し自分の手で調べたいのだと続けた。
些細なズレも、放置すればやがて大きく反れる。
ひとまずは、陳宜から渡された書簡があるのだから、鵑であれば一人で行かせても問題ないだろう、と李峻は言う。
李峻の顔に泥を塗るわけにはいかない。鵑は静かに、その重みを受け止めた。
支度を整え、昼前には邸を発った。
李峻の背に付いて通った道を、今日は鵑一人で歩いていく。
水鏡でしか見られない水門の開閉や、小舟による輸送が絶え間なく行われており、独特の活気が満ちている。
官庁に用のある者だけが通される、内城壁の門。
そこで門兵から声を掛けられた。
向けられた視線に特別な敵意はないのだろうが、鵑の白い髪や菖蒲色の瞳は、嫌でも人目を引く。
見たことのない顔だと訝しむ視線が肌を刺すように伝わってきたが、鵑は今更気後れすることもない。
陳宜から預かった書簡を差し出し、ただ鵑とだけ名乗った。
門兵はさらに眉間に皺を寄せた。
武人として招かれたにしては、今の鵑の体躯はあまりに細い。
おまけに今日は棍を李邸に置いてきたせいか、より一層か弱く見えたのだろう。
とはいえ、あの酷い隈に縁取られた主簿の書簡を蔑ろにするわけにもいかず、門兵はすぐに中へと繋いだ。
滞りなく確認を終え、出迎えの書吏見習いに導かれて、鵑は厳かな城郭の奥へと足を踏み入れた。
書吏見習いの後に付いて進むほど、周囲から鎧姿が減り、代わりに木簡や書簡を抱えた書吏たちが行き交い始める。
ここからが正念場だ。
課せられた役割を全うするため、心の奥底にある後ろめたさと迷いも、今は深く飲み込んでおく。
政庁の正堂に辿り着くと、書吏見習いは扉の向こうで陳宜が待っていると告げ、静かに退いた。
小さく息を整え、招かれるまま部屋へと足を踏み入れた。
そこには陳宜だけでなく、もう一人、壮年の男がいた。
上座に腰を据え、山と積まれた書簡に黙々と目を通している。
鵑が丁寧な拱手とともに深く頭を下げると、陳宜は山のように積まれた書簡の束を無造作に抱え直し、無言で彼女の横を通り過ぎて部屋を出ていった。
一瞥もくれないその態度に、鵑はわずかに戸惑う。
それは、昨日の答えだったのかもしれない。
「よく来たな。案ずるな、面を上げよ」
陳宜の去り際に気を取られていたが、残った男が穏やかな、けれど芯の通った声で鵑を促した。
顔を上げると、そこにいたのは水鏡の主、沈烔堅その人であった。
髪には白いものが混じり始めているが、溌剌とした精悍な顔付きと、勇猛を馳せた英傑らしく、その体躯からは衰えぬ覇気が満ち溢れている。
「すまん。あれはあれで、お前のことを気に入っているのだが、少々照れ屋でな」
「……照れ屋」
思わぬ評に、鵑は思わず言葉を零すように繰り返した。
沈烔堅の口ぶりからすれば、陳宜の態度は彼なりの合格によるものらしい。
もし本人が今の言葉を耳にしたら、どんな顔をするだろう。
想像の中の陳宜は、相変わらず酷い隈の浮いた顔で不自然な笑顔を貼り付け、眉を寄せていた。
「李仲岳殿の薦めで参りました。鵑と申します」
「ああ。昨日のうちに会うつもりでいたが、急用が重なってな。待たせたな」
もう一度頭を下げた鵑に対し、沈烔堅は快活に、そして歓迎の意を込めて言葉を返した。
初めから会う算段がついていたということは、李峻への信頼も相当なものなのだろう。
同時に、昨日の陳宜による冷徹な問いかけは、自分が謁見に値するかを試す関門だったのだと理解した。
「近頃は水鏡もきな臭くてな。良からぬ噂も絶えん。李仲岳ほどの男が認める武人を迎えられるのは、俺としても心強い」
沈烔堅は素性よりも、目の前の人間が成せることを重んじる男なのだろう。
胸の奥にわずかな余裕が生まれた、その時。
廊下の向こうから、血気盛んな早足の足音が近づいてくる。
遠慮も躊躇もない、硬い靴底が床を鳴らす音だ。
沈烔堅が何かを言いかけて口を閉じるのと、乱暴に戸が開かれるのは、ほとんど同時だった。
「親父殿、今いいか」
それは断りというより、宣言に近い声だった。
入ってきたのは、背の高い若い男だ。
陽に焼けた肌に、均整の取れた体躯。上質な衣の上からでも、内側に鍛え上げられた筋肉の張りがはっきりと分かる。
沈烔堅と同じ――淀みのない真っ直ぐな光が眼に宿っていた。
躊躇のない視線が部屋の中を一巡し、最後に、部屋に紛れ込んだ異物を見るように鵑の上で止まった。
露骨なまでの値踏みだった。
鵑は背筋を伸ばしたまま、その視線を受け止め、ゆっくりと頭を下げた。
逸らす理由はないが、かといって挑む理由もない。
ただ、突然の闖入者に対しても、湖面のように静かに立ち尽くしていた。
鵑の反応に、若い男は小さく鼻を鳴らした。
視線は依然として彼女から離れない。頭のてっぺんから足元まで、体重の掛け方や呼吸の速度を強引に読み取ろうとしている。視線は鋭く、まるで肉を削ぐ刃のようだ。
「……へえ。これが?」
声音に遠慮はない。
むしろ、わざとらしいほどに軽い。
鵑の白い髪とどこか幼さを残す顔立ちに、彼が何を思ったのかは察せられる。
沈烔堅が咎めるように軽く眉を寄せた。
「……司朗」
「いや、だってよ。最近はまた水賊共が不穏な動きを見せているって噂だ。だからこそ、余計に気になるだろ?」
咎めるように名を呼ばれても、男は肩を竦めるだけ。
悪びれもせずに、見た目じゃ分からんがと吐き捨てるように言って、そこで初めて鵑と正面から向き直った。
「お前、本当に腕が立つのか?」
それは問いというより、断定に近い疑いの言葉だった。
鵑は拱手を解いて、彼に視線を返す。
沈家の後継者、沈司朗。
血気盛んな若き後継者だという話は李峻から聞いていたが、視線の圧力は決して軽くなく、礼節よりも先に疑いを投げつけてくる態度は不遜に映った。
鵑自身も、一人の武人として彼の実力には興味があった。
だが同時に、このぶつかってくるような勢いを、どこか後ろめたく感じている自分もいた。
怒りや侮辱も感じない代わりに、ただ複雑な沈黙だけが降りた。
鵑にとっての沈司朗は、ただただ余計な波風を立てる人物だという印象に尽きた。
「司朗、客人の前だ」
「分かってるさ、親父殿」
口ではそう言いながらも、沈司朗の視線が緩むことはなかった。
むしろ不敵な笑みを湛え、一歩鵑の方へと踏み出す。
その間合いを測るような足の運びは、無意識か、あるいは骨の髄まで染み付いた癖か。
間違いなく実戦を重ねてきた武人の動きだった。
「李峻の薦めだってのは聞いた。けど、俺は実際に自分の目で見たものしか信用しない」
沈司朗は腕を組み、わずかに顎を上げた。
「親父殿、この娘が本当に使えるかどうか、確かめたい」
部屋の空気がわずかに張り詰める。
沈烔堅はすぐには答えなかった。
机の上の書簡を一つ丁寧に揃え、静かに置く。
その落ち着いた仕草からは、息子の性急さに対する呆れが窺えた。
「……確かめたい、とは?」
「簡単だ。少し手合わせすれば分かる」
沈司朗の言葉は単なる提案ではなく、すでに決定事項であるかのような響きを持っていた。
沈烔堅の視線がゆっくりと鵑へ向く。
拒むこともできたはずだ。
水の都の主である彼が助け舟を出してくれるのは分かっていた。
けれど、ここで退けば沈司朗の疑念は消えず、この街での信頼を得る機会も失うだろう。
それに。
沈司朗の瞳にあるのはただの無礼ではない。
この主の後を継ぎ都を背負おうとする――相応の覚悟を持った者の目だ。
疑い、見極めることもまた彼の責任なのだと理解できた。
鵑は静かに息を整える。
胸の奥は相変わらず光を求めて空洞のまま。
けれど、押し寄せる状況だけは真っ直ぐに受け止める。
「……お望みなら」
短く答えると、沈司朗の口元がはっきりと弧を描いた。
期待と挑発、そのどちらともつかない鮮烈な笑みだった。
「そうこなくちゃな」
「お前は本当に……」
沈烔堅が露骨に溜息を吐いた。
そこには諦めに似た色が多分に混じっている。
沈司朗は悪びれる様子もなく、肩を竦めてみせた。
「分かってるって。ただの確認だ。それに、客将として迎えるなら、腕を見ておくのは当然だろ?」
今さらな言い訳を並べ、彼は再び鵑を見た。
「今なら演武場が空いている。ついて来い」
それは有無を言わさぬ命令口調。
その真っ直ぐすぎる視線に危うさを感じるが、鵑は小さく頷いた。
沈烔堅も重い腰を上げて立ち上がる。
「……全く。血気盛んな息子でな」
不出来な息子を嘆くふりをしながらも、その視線には鵑に対する静かな確認が含まれていた。
鵑は迷いなく頭を下げた。
「構いません」
そう答える間にも、沈司朗はすでに踵を返し、振り返りもせずに廊下へと出ていく。
足音は来た時と同じく、周囲への遠慮が微塵もない。
部屋に残された空気がわずかに揺れた。沈烔堅は苦笑を浮かべ、彼女に歩み寄る。
「あれでも、この都市を背負うつもりでいるんだ。……それにな」
「?」
「本音を言えば俺も、お前の実力には興味がある」
沈烔堅ほどの傑物にそう言われるのは、閉ざされた胸の奥がわずかに弾むような感覚だった。
ただ棒切れを振り回し、降りかかる厄災を必死にやり過ごしていた幼い頃を思えば――自分は認められる存在になったのだ。
それは心の中で冷たくなっていたものを、かすかに熱くさせる力があった。
鵑は何も言わず、ただ深く頷いて見せる。
廊下の先から、急かすような沈司朗の声が飛んできた。
「置いていくぞ!」
鵑は一歩、力強く踏み出す。
己が鵑として生きるための、最初の戦場へと。
廊下を抜け、幾つかの中庭を横切る。
先を行く沈司朗の足音は力強く、その後ろを鵑が続き、さらに少し距離を置いて沈烔堅が歩く。
途中ですれ違う兵や役人たちが、何事かと足を止めて視線を寄越した。
人の流れが自然と同じ方向へと集まり始めていた。
やがて、土を踏み固めた広い鍛練場に出た。
壁際には武具棚が並び、槍や剣、木製の訓練用武器が整然と掛けられている。
既に数人の兵が汗を流していたが、若君の姿を見るなり姿勢を正し、その直後に奇妙なものを見るように目を丸くした。
客人らしき白髪の少女。
しかも、手ぶらだ。ざわめきが波紋のように小さく広がっていく。
沈司朗は演武場の真ん中で足を止め、振り返った。
「そういや……お前、武器はどうした。持ってないのか」
「沈烔堅様のお目通りに参じたまでなので」
「……そうか」
鵑が淡々と答えると、司朗は顎で武具棚を示した。
「好きなのを選べ。素手でもいいが、それじゃ流石に不公平だろ」
言い方は軽いが、射抜くような眼光は変わらない。
鵑としては拳でも良かったが、言われるまま棚の前に立った。
槍、剣、長刀。
いくつか手に取って重さを確かめ、すぐに戻す。
視線は自然と使い慣れた長物の並びへと向いた。
木製の棍。
李峻の邸に置いてきた棍よりも遥かに軽いが、重心は悪くない。
手に取り、軽く一振りすると、空気を裂く音が静かに鳴った。
掌に伝わる違和感はあるが、扱えないほどではない。
「それか」
沈司朗は短く言うと、自分も棚へと歩み寄り、迷いなく一本の木剣を引き抜いた。
気付けば、演武場には多くの兵や将が集まっていた。
誰もが鍛練の手を止め、鍛練場の周りに大きな輪を作る。
声を上げる者はいないが、期待と熱を孕んだ視線が場を満たしていた。
沈司朗の側に立つ者たちの、静かな応援。
完全な敵地だ、と鵑は思う。
だが、胸の内は驚くほど静かだった。
湧き上がるのは高揚感ではなく、ただ冷徹な状況の認識だけ。
沈烔堅が輪の外側に立ち、腕を組んで二人を見据えた。
「ほどほどにな」
「分かってるさ」
司朗は短く答え、数歩下がって間合いを取った。
砂を踏む乾いた音が響く。
木剣の切っ先が真っ直ぐに鵑へと向けられた。
「遠慮も手加減もいらん。お前の本気を見せろ」
鵑は棍を両手で構え、腰を落とす。
深く呼吸を整え、視線を司朗の肩口に置いた。
目を合わせすぎず、筋肉のわずかな強張りから動きの起点を見定めるためだ。
「……貴方も」
短く、射抜くように返す。
沈司朗の口元が獰猛な弧を描いた。
「当然だ」
腕を組んだままの沈烔堅が、鋭く一言を投げた。
「始め」
その声が落ちるよりも早く、沈司朗が爆発的な踏み込みを見せた。
躊躇のない直線。
上段から振り下ろされた木剣が猛烈な勢いで空気を切り裂く。
荒々しいが、軌道は正確だった。力任せではない。
徹底的に鍛え抜かれた型の中に、天性のしなやかさが混ざり合っている。
(強い――)
最初の一太刀を受け流しながら、鵑は直感した。
木剣を真っ向から受ければ、棍ごと圧し折られる。
彼女は棍を斜めに差し込み、刃を受けるのではなく滑らせることで、その強大な衝撃を横へと逃がした。
剣筋が逸れたわずかな隙を突き、踏み込み返して棍の先端を沈司朗の喉元へ突き出す。
沈司朗はすぐさま上身を逸らしてこれを回避し、突き出された棍を剣の腹で強引に叩き落とした。
一度、距離が開く。
だが沈司朗は息をつく間も与えない。
再び地を蹴り、今度は鋭い横薙ぎ、さらには低い位置からの切り上げと、間断のない連撃を繰り出す。
猛攻の中にも隙が極めて少ない。
鵑は目まぐるしく足を運び、棍を盾にするのではなく案内役にするように、刃をいなし続けた。
角度を変え、滑らせ、反らせる。
一瞬の呼吸の間を逃さず、鵑が棍を振り上げた。
沈司朗の肩口を狙った鋭い一撃――。
それを司朗は剣を立てて防ぎ、膂力に任せて跳ね返す。
その威力に、鵑の体がわずかに宙へ浮き、一歩後退させられた。
そこへ、司朗の追撃が飛ぶ。
足を払うような低空の斬撃。
鵑は反射的に跳ねて避け、着地と同時に反転、棍を旋回させて、司朗の脇腹へと横薙ぎに振るった。
乾いた木音が絶え間なく響き渡り、周囲を埋める兵たちの空気が一変した。
最初は困惑混じりのざわめきだったのが、次第に地鳴りのような歓声へと変わっていく。
激しく上がる土煙が、二人の周りで舞い踊った。
激闘の中、沈司朗の剣が鵑の反応の遅れを突き、防御に回した棍の中心を深々と捉えた。
横たえた棍を両手で支えることで連撃を防いだが、剛剣の威力は、鵑の細い腕より先に木材の限界を超えた。
鈍い破砕音とともに木棍が真ん中からへし折れた。
沈司朗の木剣は容赦なく、そのまま彼女の頭部へと振り下ろされる。
但し、鵑の目は死んでいなかった。
彼女は瞬時に手首を返し、手の中に残った半分ほどの棍を突き上げるように振るった。
折れた先端を木剣の側面に叩きつけ、その必殺の軌道を強引に横合いへと弾き飛ばす。
そして沈司朗に立て直しの隙を与えない。
間髪入れず、もう一方の手で握っていたもう半分の棍を沈司朗の顔面へと投げつけた。
沈司朗が咄嗟に身を捻ってそれを回避し、猛攻が止んだ。
その隙に距離を取る二人の足跡が、深く地面に刻みつけられていった。
沸き立つ歓声の中、誰もが予想外の好勝負に酔いしれていた。
だが、周囲の熱狂とは裏腹に、沈司朗の表情は徐々に硬くなっていく。
太刀筋は鋭いものの明らかな苛立ちが混じり、踏み込みが強すぎる。そのわずかな呼吸の乱れと揺れる剣先を、鵑は見逃さない。
武器が半分以下になってもなお戦意を損なわず構え直す名もなき少女を前に、沈司朗の瞳には周囲の興奮とは別種の、昏い熱が宿り始めていた。
熱を帯びた司朗の剣は、始めよりもさらに鋭く荒々しさを増していく。
一見すると粗削りで力任せのようだが、決して隙にはならず、その刃筋は寸分の狂いもなく急所のみを狙ってくる。深い踏み込みには、間合いを奪うことに一切の躊躇がない。
対峙する鵑の胸の奥には、彼の武に触れるたび逆撫でされるような嫌悪感が渦巻いていた。
戦い方は全く違う。
なのに――だからこそ似ていた。
思考の底から拒絶してもなお浮かび上がる、あの忌まわしき影。
寒戎王、宋武筮。
血の匂いを纏い、同族を武で従え、「愛している」と宣い、その腕の中に『 』を抱いたまま戦った男。
あの時、彼から投げつけられた問いが、今も呪いのように耳の奥にこびり付いている。
『俺は を愛してる。お前のそれは、なんだ?』
あの時、答えなかった。答えられなかった。
答えを持たないまま、ただ力の限りを尽くし、返り血を浴び、『 』を奪い返すことだけを考えていた。
その答えは、もうこの手の中には残っていない。
不意に、刃が閃く。
鵑は折れた棍でそれを受け流し、危ういところで間合いを外した。
足裏が土を削り、呼吸が浅くなる。
世界の全てだった『 』の顔が、脳裏を過る。
怯えた瞳。細い足。
最後に見た、大粒の涙。
あんなにも美しいのに、自分は醜いと泣いていた。
守ると誓ったはずなのに、なぜ――。
思考が過去の泥濘に沈み、足が抜けない。
戦場において、思考の空白は死を意味する。
明らかな鵑の隙に苛立ちを剥き出しにした沈司朗が木剣を投げ捨て、風を裂く重い拳を振るった。
頬骨を直撃する凄まじい衝撃。視界が白く弾け、意識が遠のく。
予期できなかったわけではない。
なのに、鵑の身体は紙切れのように大きく吹き飛び、背中から冷たい土に叩きつけられた。
肺が空気を拒み、激しく咽ぶ。
周囲の喧騒が一瞬で凍りついたように途切れた。
霞む視界の中で、影が覆い被さる。
胸倉を掴まれ、乱暴に引き起こされた。
指が衣に食い込み、首元が締まる。
「……それが、お前の本気か?」
低く、地這うような押し殺した声。
目の前の沈司朗の顔には、露骨な失望が浮かんでいた。
眉間に深い皺を刻み、噛み締めた奥歯の隙間で、やり場のない怒りが軋んでいる。
――勝手に期待して、勝手に失望して。
その態度は、鵑の胸の奥でざらついた感情が爆発的に膨れ上がる。
何が分かる。
じわりと広がる苛立ちの先に、忌まわしい影が重なる。
問い詰めるような目。勝手に測り、勝手に決めつける独善。
――どいつも、こいつも。
胸の奥で理性を繋ぎ止めていた何かが音を立てて千切れた。
胸倉を掴まれたまま足を踏み出すと、真正面から視線がぶつかった。
「もう一度聞く。それが本気か。……答えろ!」
唸るようなその言葉が最後の引き金となった。
口の中に広がった鉄の味を飲み下し、鵑の腕が跳ね上がる。
言葉はなく――ただ、剥き出しの殺気だけを拳に宿して。
次の瞬間、真正面から沈司朗の顔面を殴り抜いた。
鈍く重い音が演武場に響き渡る。
細い腕からの一撃に沈司朗の上体が大きく仰け反り、半歩退いて砂を跳ね上げた。
その手が僅かに緩んだ隙を逃さず、鵑は逆に彼の胸倉を掴み返して引き寄せると、間髪入れずに顔面に頭突きをかまし、無言のままさらに踏み込む。
追撃の拳を振るおうと腕を引くと、横から振り抜かれた膝が彼女の脇腹を深く抉った。
再び肺の空気が強制的に押し出され、苦悶の息が漏れる。
死角からの容赦ない反撃は、苛立ちを孕みつつも極限まで研ぎ澄まされていた。
拳と拳の距離が詰まる。
武器を捨てた者同士の、逃げ場のない間合いで。
場外の音は聞こえない。
思考も視界も明滅して、ただ倒れないように、ただ目の前の男を殴る事だけ――。
「そこまでだ!」
雷鳴のような一声が鍛練場に落ちる。余熱を帯びていた空気が一瞬で凍った。
声の主、沈烔堅が歩み出る。
その顔は険しく、先程までの豪胆な笑みは影もなく、二人を射抜く視線は刃のように冷たい。
二人は素早く互いを解放し、この都市の“君主”に頭を垂れた。
「それ以上は武人の試合とは呼べない。稚拙な私闘だ」
低く、しかし容赦のない声音だった。叱責は二人を等しく射抜き、沈司朗が何か言い返そうと唇を開く。
「ですが――」
「だがも何もない」
言葉は鋭く遮られた。
感情を削ぎ落とした眼差しが二人の立ち姿を測るように往復した。
「武人であるならば、怒りに己を明け渡すな。司朗、お前は俺の後継者として、自覚が足りない」
沈司朗は肩を強張らせ、悔やむように俯く。
そして沈烔堅は、今度は鵑へと言葉を向けた。
「お前の実力は分かった。しかし、このままでは将としての器量に不安が残る」
胸の奥で何かが鈍く軋んだ。反論は浮かばない。否定する材料を、鵑自身が持っていなかった。
ただ黙って拱手を崩さず、頭を下げ続けるしかできない己に唇を噛む。
「……二人とも、医官に診て貰うように」
それだけを残し、沈烔堅は踵を返す。
背は振り返らない。衣擦れの音が遠ざかり、やがて回廊の奥へと消えていった。
張り詰めたままの静寂が落ちる。
残されたのは散った呼気と、まだ解けきらぬ熱だけ。
沈司朗はその場にどかりと座り込むなり、地面に拳を叩き付けた。
その横で鵑は小さく息を吐いた。
己の拳を見下ろす。
迎えられる前の身でありながら、この有様だ。
君主の後継者を殴るなど不敬の極み。処刑されても文句は言えない。
今こうして拘束されていないのは、沈烔堅が事を荒立てる気がないからだろう。
胸の内では自身を諌める言葉が幾つも浮かんだが、すでにどうしようもない現実だった。
将達に急かされるように、兵達も持ち場に戻って行く。
もう、ここに居座る理由はない。
李峻や陳宜には合わせる顔がないが、いっそこのまま立ち去ってしまおうか。
そう思った瞬間、力強く首根を引かれた。
「……そっちじゃない」
沈司朗だった。
先ほどまでの殺気立った気配は姿を潜めている。
だが完全に消えたわけではない。指先の力に、まだ燻る苛立ちが混じっているのが分かる。
「治療は、いりません」
鵑は短く言う。
折れてる感覚はない。血も流れていないのだから、少しすれば直るだろう。
「要る要らないの問題じゃない」
沈司朗の声は低かった。だが、どこか奇妙な静けさも滲んでいる。
「沈家の沽券に関わる」
沽券。その言葉が落ちた瞬間、鵑の中で何かが諦めに似た音を立てた。
そこまで言うなら、もう好きにすればいい。
投げやりになって、抗う気力がすっと抜ける。
沈司朗はそのまま鵑の襟首を掴み、半ば引きずるように歩き出した。
足取りは荒く、だがやはり迷いがない。
回廊の角を曲がるたび、沈家の兵たちの視線がちらと刺さる。
擦れる靴底の音だけが、長く続く回廊に乾いて響く。
医官の詰め所へ向かうその道程は、妙に静かで妙に長かった。
ただ引かれるままに進む回廊は、君主の言葉だけが胸の奥に沈み、いつまでも消えない後悔に囚われたようだった。




