1-13『火は未だ消えず』
遠くで、甲高い幼子の笑い声が弾けた。
言葉の内容までは聞き取れない。
ばたばたと軽い足音が続き、それを制する女の声が重なる。
どちらも柔らかく、温度のある音だった。
やがてそれらは遠ざかり、幸せの断片だけを切り取ったような気配が、ふっと空気から抜け落ちた。
耳鳴りが消えない。
胃の辺りが不快に波打ち、鼻の奥が詰まって息が浅くなる。
ゆっくりと、目を開けてみた。
だが視界は定まらず、天井の梁が緩やかに揺れている。いや、揺れているのは梁ではなく、自分の感覚そのものなのだろう。
身体は寝台の上にあった。
背の下にはきちんと整えられた敷物、上には薄い衾が掛けられている。
丁寧に焚き染められた、微かに温い土と草の匂いが届いた。藿香だろうか。
自分の手や足に、縄はかけられている感触はない。枷の重みもない。
まして、刃物を向けられる気配も感じない。
鈍い感覚だけでは身の安全を判断するには心もとなく、身を起こそうとしたが、指先ひとつにさえ力が入らない。
無理に首を動かした途端、眩暈が走り、思わず瞼を閉じた。何も出来ず、ただ世界から揺らぎが引くのを待った。
暫くして、再び瞼を持ち上げ、今度は目だけを巡らせる。
裕福な家なのだろう。
物は多いが、すべてが整然と収められており、無駄も綻びも見当たらない。
寝台の脇には机があり、その上に畳まれたぼろぼろの衣と笄がひとまとめに置かれていた。
その傍ら、手を伸ばせば届く位置に棍がある。
それがあるのなら、捕らわれの身ではないらしい。
そう判断した直後、帷の向こうに人の気配が走った。
顔を覗かせた若い侍女がこちらと目を合わせ、短く息を呑む。
次の瞬間、彼女は踵を返して駆け去っていった。
ほどなくして、地を鳴らすような重い足取りが近づいてきた。
背の高い男が先に現れ、その後ろに白髪交じりの医者が続く。
無意識に、喉の奥から掠れた声が零れる。
男はそれを聞いて目を細め、制するように片手を軽く上げた。
医者の動きは手慣れていた。
脈を取り、瞳を確かめ、額に手を当てる。
彼女に、吐き気や痛みの有無、簡単な受け答えを求めながら診察は淡々と進み、やがて飢えと過労によるものだからと判断し、「しばらくは静養を」そう告げられる。
医者が手荷物を纏めて部屋を去ると、大男と侍女も一度、外へと出た。
医者を見送ったのだろう。
再び現れた男は、ずれた衾を掛け直しながら、「驚いた」と言って、少しだけ笑った。
彼は水運を生業とする豪商、李家の当主・李峻(り しゅん)。
彼女が以前、この地を訪れたのは彼の依頼によるものだ。
当時、水鏡では水賊が横行し、内政の混乱もあって、許安にまで支援が求められていた。
「李峻殿。……ご迷惑を、お掛けしました」
「ああ、いい。それ以上はいいから、今は休みなさい」
大柄な体躯と隙のない身なりに反して、その口調は驚くほど柔らかく、穏やかだ。
大商家の主として相当な遣り手であることは聞き及んでいたが、今の彼からは商売人特有の計算高さも、不快な威圧感も微塵も感じられなかった。
「しばらくは、ここでゆっくりしていくといい。貴女は働きすぎだ」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
なぜ許安を離れ、このような姿で彷徨っていたのか。
事情を詮索しないのは、単なる慈悲だけではないのだろう。
李峻は湯冷ましを用意させると言い残し、音を立てずに部屋を後にした。
再び、静寂が戻る。
重い瞼を閉じても、思考だけは濁流のように止まらない。
身体を動かすことはできても、心の向かうべき先が、まだ定まらない。
ならばまずは、この家に受けた恩を返すことから始めよう。
そう考えた矢先、廊下の向こうから賑やかな足音が近づいてきた。
「おねーちゃん! 起きた!?」
「汀、待って! まだ駄目って言われてるでしょ!」
忙しない足音と、弾けるような拙い声。
病み上がりの耳の奥には少しばかり鋭く響いて驚きはしたが、不思議と不快ではなかった。その声を諌める方も、まだ十分に幼い。あの市場で出会った姉妹だとすぐに分かった。
遅れて響いた重厚な足音が、扉の前で小さな影をひょいと抱き上げて、敷居を跨ぐ。
その後ろには、盆を持った侍女が控えていた。そこにあるのは湯冷ましと、真っ白な薄粥だ。
「空の腹には、これくらいがいい」
李峻の言葉に、彼女はゆっくりと頷いた。
長い飢えに慣れた胃の腑は、まだ重い食を受け入れる準備ができていない。
李峻に手伝われながら、震える手でようやく上体を起こすと、力の入りにくい指で匙を握る。
期待に満ちた姉妹の眩い視線に晒されながら、彼女は味の分からないほど薄い、けれど温かな粥をひと口、口に運んだ。
嚥下したものが、身体のどこを通っているのか、その道筋がはっきりと分かった。
粥の熱が胃の奥へ落ちると、腹の底からじわりと温もりが広がっていく。
――生きている。
その実感が、ようやく確かな手応えとして湧き上がってきた。
「……本当に、ありがとうございます」
「構わんよ。この子らも、すっかり貴女に懐いている」
幼い姉妹を見つめる李峻の目は、どこまでも穏やかだった。
その慈愛の色が、不意に――文邕の姿を呼び起こす。
守るべきものを前にしたときだけ浮かぶ、深く静かな感情。
以前この場所を訪れた際にこの姉妹を見かけなかったのは、きっとそれだけ大切に、奥の方で慈しまれて育てられていたからだろう。
姉の澄はともかく、妹の汀などは、当時はまだ立つことすら覚束ない赤子だったはずなのだから。
どれほど善政を敷こうと、巨大な都市には澱みが溜まるものだ。
現君侯・沈烔堅が一代で豪族をまとめ、治水に尽力した英傑であっても、水鏡の暗部を完全には消し去れない。
そうした街の危うさを前にすれば、幼い娘たちを屋敷の奥に隠すのも親として当然の選択なのだろう。
翌朝には、わずかな違和感を残すのみで身体は動いた。
彼女にできることがあるとすれば、それは武力による悪漢の排除くらいだ。
だからこそ、静養を言い渡されていた身でありながら、早朝から中庭に出て棍を握った。
拳を動かし、骨の髄まで染み付いた型を、一つひとつ丁寧になぞっていく。
「それだけの武勇が我流とは……いやはや、大したものだ」
「李峻様。お騒がせしてしまいましたか」
「ああ、いや。静かなものだ」
李峻は体調を気遣いながらも、彼女の回復を素直に喜び、あえて静養の約束を破ったことには触れなかった。
その寛容さに、かえって身が引き締まる。
「……貴女を、沈烔堅様に紹介したい」
思わぬ言葉に、彼女は思わず目を丸くした。
驚きで口を開くより早く、李峻は静かに言葉を重ねる。
「貴女がどこにも属さないことは知っている。だから許安の玄欒様に従っていたのと同じく、水鏡の沈烔堅様の一時的な客将として身を置かないか、という話なのだが」
「……客将?」
「ここは人も物も動く。それに付け込む悪事も、な」
李峻もまた、この都市の尽きぬ悩みに頭を抱える一人なのだろう。そこに武力が必要ならば、自分の出番だ。
そう答えようとして――かつて、自分が数多の誘いを断り続けてきた理由が何であったかを思い出し、視線を地面に落とした。
すべては、焦がれるほどに求めたあの人のため、だったのに。
李峻は、彼女の心の奥にある亀裂までは知らない。
ただ、あまり無理を言って黎景から睨まれるのは避けたい、と冗談めかして苦笑するが、主君を引き合いに出すのだからなかなかの胆力だ。
「貴女の力を借りたい。勝手を承知でお願いしているが――」
「いいですよ」
重ねて請おうとする李峻を遮るように、彼女は頷いた。
かつての自分なら、決して首を縦には振らなかっただろう。
けれど今は、あの幼い姉妹の未来のために、できることがあるのなら。そのための痛みなら、喜んで引き受けたかった。
そうでもしなければ、過去の自分への示しがつかない気がしたのだ。
今は、苦しみを上書きするほどの役割を――何でもいいから欲していた。
逃れられる道があるなら、どこへでも踏み出すつもりだった。
「……その代わり」
地面から視線を戻すと、李峻が不思議そうに首を傾げた。
背の高い壮年の男にしては、どこか人懐こい仕草だ。己が師がそんな仕草をしようものなら、胡散臭くて何を考えてるのか恐ろしくなる。
彼女が一人前であることを祝ったその口で、きっと今も誰かを裁くなり煽るなり褒めるなりしているだろう。
「私のことは、鵑とお呼びください」
「……ふむ」
名前を変えたところで、過去が消えるわけではない。
それでも今は、その名を聞きたくなくて。
一つあれば、羅も雨昕も、すべて、要らない。
彼女――鵑の菖蒲色の瞳は、未だ燻ったように暗い。
けれど、その奥底に灯った僅かな光を見て、李峻は満足げに目を細めた。
「……いや、本当に良かった」
もし断られていたら、その力を持て余して賊になる前に、憲兵に突き出すところだった。
李峻は声を上げて笑ったが、それは決して冗談ではないだろう。
商人の打算が覗く冷徹な視線を、鵑は不敵な笑みで受け流した。上手くできた自信はなかったが、相手の疑念を吹き飛ばすしかなかった。
その後の李峻の手回しは早かった。
役所との折衝に慣れた彼が通達を出すと、昼前には沈烔堅の家臣である主簿からの面会要請が届く。
かつて間近に見た黎景や玄欒に通ずる仕事の速さを感じて、鵑は無意識に背筋を伸ばした。
「まずは、拝謁賜りましたこと、感謝申し上げます」
李峻が隣で拱手し頭を下げるのに倣い、鵑も深く頭を下げる。
目の前にいたのは、いかにも文官といった風情の、吹けば飛びそうなほどひょろりとした壮年の男だった。
どこか嘘くさい笑顔と、目の下に染み付いた深い隈が、その凄まじい労働量を物語っている。
戦場では見たことのない顔だ。
数年前の訪問時に、出会った記憶もない。
「ああ……なるほど、なるほど。うんうん」
面を上げるよう言われ、顔を上げると。
男は顎を撫でながら、鵑の頭から爪先までを、値踏みするように、あるいは解剖するように視線でなぞった。
そこに嫌らしさを感じないのは、貼り付けたように感情の読めない笑顔と、爬虫類のように冷たく鋭い眼光のせいだろう。
「であれば……いや……しかし……面倒か……」
ぶつぶつと独り言を呟き続ける男――陳宜を前に、鵑は困惑して首を傾げた。
会えばどんな人物か分かると李峻は言っていたが、なるほど、その冷徹な視線は、どこか師を想起させるものがある。
こちらの思考を先読みし、意見も反論も許さぬ空気を纏った時の、あの逃げ場のない居心地の悪さ。
いや、師の方が胡散臭いか。そんな失礼な感想と共に、鵑はちらりと隣の李峻を盗み見た。
師を想起させるのなら、先に教えてくれても良かったのに。
じっとりとした非難の視線を投げつけてみたが、李峻にはあえなく無視された。
――そういえば、この男は黎景と懇意だったではないか。扇で隠しながらも、隠しきれないにやけを口許に浮かべた師の顔が見えるようだ。
陳宜がまだ独り言を続ける中、李峻は静かに口を開いた。
「流石は陳主簿。話が早くていらっしゃる」
「ああ、まあ……いや。鵑だったな。一つ、良いか」
「はい」
陳宜の声に呼び戻され、李峻から陳宜へと視線を向ける。
再び、射抜くようなじっとりとした視線が、鵑の顔に縫い止められていた。
「この水鏡で死体が上がったとする。お前に出来る事は何だ?」
試されている、と直感した。
鵑は陳宜の視線を真っ向から受けながら、一度だけ瞼を閉じた。
恐らく、この問いに対してあれこれと質問を重ねて答えを探すことに、意味はない。
そのくせ、答えを間違えれば、厄介なことになる。それは李峻にも泥を塗ることに繋がりかねない。
この質問に鵑は、本人も気づかないほど少しだけ、口角が上がった。
もしこれが師であれば、余計な確認をした時点で見限られ、「お前はその程度か」と鼻で笑われるだろう。
では、そんな彼ならどう答えるか――。
「水を止めるよう、進言します。それから……死体を、引き取ります」
「……ふぅん」
師と鵑では立場が違う。
“鵑”が出来ることを問われるなら、越権にならず、そして誰とも知れない死を無かったことにしないために出来るのは、それくらいだと。思うままを答えた。
陳宜は顎を擦りながら何度か頷くと、鵑から李峻へ視線を流し、そのまま無造作に背を向けた。
「明日、同じ時刻に、もう一度来るように」
鵑の回答に何を見出したのか、その反応からは全く窺い知れなかった。
けれど、陳宜はおもむろに書簡にさらさらと何かを書き記すと、それを鵑に差し出し持たせた。
それを“承諾”と受け取ったのは、李峻。彼はもう一度深く頭を下げ、鵑に合図を送る。
そうして李峻に促されるまま、二人は陳宜の職務を邪魔する前に、その部屋を後にした。
「あの質問一つから、どこまで分かるんですかね」
「ん? ああ、陳主簿か」
城門を抜け、ようやく肩の荷が下りた気分で鵑が李峻に話し掛けた。
李峻は少し上を仰いで、「そうだな」と呟く。
「一を聞いて十を知る……まあ、有り体な言い方かもしれんが、そんなお人だよ。そんなことができてしまう人が居るって事は、貴女もよく知っているだろう?」
「……」
李峻の示す人物とは、まさに先ほどの問い掛けの最中に思い出した、あの男のことだろう。
できる限り羅雨昕に関わるものを遠ざけたいのに、縁というものはどこまでも付き纏うものだと、鵑は小さく溜息を吐いた。
李峻による陳宜の評は続く。
沈烔堅も絶対の信頼を寄せる人物であり、「真面目が服を着て歩いている」ような男なのだそうだ。
実際に対峙してみて、確かにそんな印象を抱かせる人物だったと、鵑は静かに頷いた。
「黎景殿みたいな面白味は無いが、この水鏡には必要なお方だよ」
そんな話をしているうちに、李家へと着く。
門を潜るなり、幼い姉妹が李峻の帰りを歓迎して駆け寄ってきた。
李峻もまた、先ほどまでの商人の顔を完全に捨て去り、一人の父親の顔になって娘たちを受け入れようと膝を折った。
「おねーちゃん、どこ行ってたの!」
けれど姉の澄は李峻に、妹の汀は鵑に向けて真っ直ぐに飛びついてきた。
不意の衝撃を受け止め、困惑した鵑が助けを求めるように李峻へと視線を送る。
だが、返ってきたのはそこはかとなく嫉妬を含んだ複雑な眼差しだった。いくらなんでも早すぎるし、相手が自分というのはあまりに的外れだ。
そもそも、そんな目で見られても、懐く汀の意志を鵑にどうこう出来るわけもない。
理不尽な視線に苦笑を返すと、鈴を転がすような優しい声が李峻を嗜めた。
「汀、鵑様が困っているでしょう。……旦那様。そんな目で鵑様を見ないの」
李峻の奥方だった。澄と汀が彼女の美貌を受け継げば、将来は国を揺るがす傾国の姉妹になりそうだ。
大男の李峻も彼女には形無しなようで、「でも」とか何とか、もっともらしい反論を口の中でごにょごにょと呟きながらも、その大きな体を縮こまらせて大人しく従った。
その後、皆で賑やかに食卓を囲み、澄と汀を寝かしつける。李峻はすっかり豪商の主人としての顔を失くしていた。
そんな睦まじい家族の輪の中に居続けるのは、今の鵑には少しばかり眩しすぎた。
邪魔をするのも悪いと言い訳して、彼女はひっそりと部屋を抜け出し、水鏡の夜風を浴びるために外へと出る。
夜に出歩くには、まだこの街の地理に明るくない。
鵑は跳ねるような動作で、音もなく軽々と屋根へと上がった。
水の都市だけあって、夜の空気はどこまでも湿って重い。
けれど、近くからも遠くからも絶えず聞こえてくるせせらぎや水の音は、今の彼女には不思議と心地よく感じられた。
城壁に守られた許安と違って、やけに近く見える朧月の薄明かりの中、ふと下の通りに人影が動くのが見えた。
鵑は身を低くして屋根の影に潜み、人影が通り過ぎるのを、そして新しい一日が明けるのを静かに待った。
明日から待ち受けるものが、自分をどこへ運ぶのかは分からない。
けれど、ただ出来ることを十全に。
それだけを、御守りのように心の中で自分に言い聞かせて。
生姜焼きに胡椒をゴリゴリにかけると美味しい




