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雨天決行  作者: 公星
12/30

1-12『綺羅星』


 南へ行こうと思った理由は、明確にはない。

ただ、北は――もういい。

胸の奥がひどく乾いた。それだけで、背を向けるには十分だった。


 南の主要都市・水鏡(すいきょう)は、その名の通り水と共に生きる街だ。

血管のような水路を小舟が行き交い、橋を埋め尽くす人の流れが絶え間なく脈打っている。

夜明け前から沸き立つ市には、呼び声や値切り声が濁流となって渦巻き、空気そのものが湿った熱を持って動いていた。

その奔流の中、彼女は流れに抗わず、ただのろのろと漂っている。


 すれ違う人と肩が触れ、肘が当たり、足を踏まれる。

「おい」「前を見ろ」罵声が飛ぶ。

けれど、彼女は振り返らない。謝ることも、睨み返すこともしない。

怒鳴りかけた男は、振り上げた拳を下ろすことさえ忘れ、言葉を失った。

ぶつかったはずの人間が、自分に視線を向けないどころか、何も見ていないのだ。

まるでそこに自分など存在しないかのように、彼女の視線は濁った空だけを映していた。

陽光を跳ね返す、白く乱れた結い髪は、極彩色の喧騒の中でそこだけが色が抜け落ちたように浮いて見えた。

上質な作りの笄や棍を身に帯びていながら、その体つきは、それを操る膂力があるのか疑わしいほどに削げ落ちている。

生気の失せた貌に正論をかざす余地はなく、男は気味悪そうに、吐き捨てるように視線を逸らした。

彼女は、そんな侮蔑さえ、自分に向けられたものだと気づかなかった。


 何を買うでもなく市を訪れたのは、体に染み付いた慣習。

足が前に出るのは、意志ではなくただの惰性。

止まろうと思えば止まれたはずなのに、足を止める理由さえ、今の彼女には他人事のように遠い。

肌にまとわりつく、濃厚な油の匂い。魚の生臭さ、香草の甘み。

許安の、あの冷たくも整然とした賑わいとも違う。

守るための壁を持たず、流れ続けなければ沈む街。

無意識に、背負った棍の重さを確かめた。

こういう場所では、武を売れば価値が生まれ、それは容易く金に変わる。

けれど、今の彼女にとってその重みは、価値など持たぬただの重石でしかなかった。


 この街の河の匂いは、知っていた。

何かを成し遂げ、何かを口にした記憶。

けれど今の彼女には、それが前世の出来事のようにひどく曖昧だった。


 不意に、胃の奥が悲鳴を上げた。

鼻を突く熱気に混じって、どこからか――自分自身から、不快な腐敗臭が漂っていることに気づく。

無一文で許安を飛び出し、どうやってここまで辿り着いたのか。記憶の糸は切れている。

街の活気と、自分から漂う死臭のような汚れが混じり合い、意識がわずかに現実に引き戻された。


 村での暮らし――口減らしで捨てられ、泥水を啜って生きていた。

あの時は、腹が空いていることだけが、生きている唯一の証明だった。

けれど、人として接してくれた者たちが現れ、彼女の生きる理由は書き換えられた。

今は、全てが砂のように指の間から零れ落ちた。

腹が鳴る。それが何だというのか。

生きるための目的なんて、もう。


 そんな思考を断ち切るように、前方から小さな影が飛び込んできた。

前だけを見て、走ることに夢中で、足元を見ていない。

そんな姿に視線が吸い寄せられてしまうのは、きっと自分もそうだったという郷愁かもしれない。

自嘲し、目を逸らそうとした次の瞬間、わずかなくぼみに足を取られ、その幼い体が大きく前に投げ出された。


 あのままでは、石畳に叩きつけられ、下手をすれば水路へ落ちる。


 そう認識するより早く、彼女の肉体は、長年の鍛錬によって刻み込まれた本能に従って動いていた。

担いでいた棗の棍を、迷いなく差し出して――油を吸い込み、黒光りするほどに重厚なその柄は、しなりこそないが、驚くほど滑らかに幼い体の重みを受け止めた。

そのまま、重心を絶妙にずらしながら棍を回転させ、衝撃を空中に逃がすと、小さな影はふわりと木の葉のように舞い上がる。


 そして、滑り落ちてきたその影を腕の中に抱き留めた。

差し込み、いなし、抱き留める。その全てが一続きの、音もない刹那の早業。


 珍しいものを見たと、奇異の視線が四方から突き刺さるが、何も思わない。

ただ腕の中に温かな重みを感じてから、気づいた。


 ――この身体はまだ、勝手に人を守るらしい。


「……大丈夫?」


 掠れた声で問いかける。

腕の中で、幼女がしきりに瞬きを繰り返していた。

しまった、と思った。

驚かせてしまった。次の瞬間に火がついたように泣き出しても可笑しくはない。


 けれど、次の瞬間。幼女の丸い目がぱっと輝いた。


「くるん、てなった!すごい、なに、今の!」


 恐怖よりも先に、初めて味わう浮遊感への驚きと興奮が勝ったらしい。

彼女は思わず安堵の息を吐き、強張っていた肩の力を抜いた。

舌足らずな言葉には何も返さず、幼い体を地面に下ろす。

だが幼女は満足せず、「もう一回!」とやつれた衣の裾にしがみついてきた。


 衣を掴む小さな掌を引き剥がし、笑みを作って距離を取ろうとするが、向けられる視線が痛いほど眩しい。自分は今、正しく笑えているのかさえ判然としなかった。

無機質な困惑に囚われていると、少し離れた場所から、凛とした声がした。


「こら、汀(てい)。知らない人を困らせないの!」


 振り向けば、足元の幼女とよく似た顔立ちの少女が立っていた。

少女は、足下に貼り付いた幼女よりわずかに年上に見え――この幼女の姉なのだろう。

真っ直ぐに伸びた背筋と、幼いながらに妹を制する声音には、この街の喧騒に負けない落ち着きがあった。


「でもお姉ちゃん! すごかったの!」

「だめ。知らない人でしょう」


 そのやり取りを横目に、胸の奥をちくりと小さな棘が走る。

幼い姉妹の、柔らかそうな頬と真っ直ぐな瞳。片方は背伸びをして大人ぶった仕草を、もう片方は見るもの全てに楽しみを見出して瞳を輝かせている。

それは、懐かしさにも似た疼きだった。あんな、眩しいだけの過去が自分にも――いや。

思考の芽を、無意識に踏みつぶす。

今の自分には、感傷に浸る体温さえ残っていない。


 姉は妹の手を引いて、拒絶ではないが確かな一線を引くように彼女から離れた。

二人は、たどたどしくも丁寧な仕草で頭を下げて見せる。

これほど幼いのに、よほど教育が良いのだろう。

その理知的な所作に、妙な感心さえ覚えた。


「澄(ちょう)お嬢様、汀お嬢様、お待ちください!」


 程なくして、乳母だろうか。

年配の女性が慌てた様子で駆け寄り、幼い姉妹は手を引かれて連れられていく。


 去り際、妹の方が何度も振り返って自分を探すのを、雨昕は石像のように黙って見送った。


 水面に映る建物はゆらゆらと揺れ、現実と虚像の境が曖昧に溶けていく。

長居する理由など無い。

けれど、彼女はただぼんやりと、濁った水面を眺め続けた。


 気づけば、街は茜色の夕暮れに染まり、波が揺れるたびに建物の輪郭が崩れていく。

月は、東の空にうっすらと浮かんでいる。

目の前の景色はどれも、瞬き一つで虚ろに溶け、霧散してしまいそうだった。


 ――もう、ここでいい。

飢えも渇きも、雨風を凌ぐ術を求める必要も、もう。

思考が底なしの暗がりへ沈み込んでいく。


「あーっ! 白いおねーちゃん!」


 鼓膜を震わせる聞き覚えのある声に、弾かれたように顔を向けた。

綺羅星のような輝きを瞳に宿した、あの幼い影――汀といったか。

全力でこちらを目指して駆けてくる。

今度は躓くことなく、勢いのまま短い腕を伸ばして飛び込んできた。

抱き付いてきた軽いばかりの温もりを、彼女は――かつて自身の師がそうしたように、淀みない動作で受け止めていた。


「あのくるん! もう一回、やって!」


 朝から少しも衰えぬ熱量。

その真っ直ぐな瞳に射抜かれ、無意識のうちに、凍りついていた頬から自嘲めいた苦笑が漏れた。

周囲を一瞥し、人通りを確かめる。

彼女は諦めたように、背中の棗の棍をゆっくりと構えた。


 今度は、先ほどよりずっと慎重に。

幼いもみじのような手に棍を掴ませ、その上から、自分の手をそっと重ねる。

油の馴染んだ重厚な木肌の感触を共有しながら、軽く、天へ向かって力を込めた。


 ――ふわり。


 抗いようのない浮遊感と共に、幼い影が宙に舞った。


「きゃーっ!」


 弾けるような黄色い歓声。

すぐそこまで夜の闇が迫っているというのに、雨昕の目には、その笑顔だけがひどく眩しく、焼き付くように映った。

汀は地面に足がつくと、興奮冷めやらぬまま、再び雨昕の腰に力いっぱい抱きついた。

その拍子に――


 ぐう。


 静寂を裂くように、小さく、けれど誤魔化しようのない音が鳴った。

至近距離でそれを聞いた汀は、ぱちくりと丸い目をしばたたかせて彼女を見上げる。


「お腹、すいてるの?」


 否定する気力さえ湧かず、彼女はただ、力なく肩をすくめた。

すると幼女は、世紀の大発見でもしたかのように、満面の笑みを浮かべた。


「じゃあ、汀のおうちに、おいでよ! おいしいのあるよ!」


 あまりにも無垢で、あまりにも無防備な誘い。

雨昕は言葉を失い、暮れなずむ水鏡の光景の中で立ち尽くした。

水路を流れる水の音だけが、やけに鮮明に耳の奥に響く。


 彼女は、錆びついた関節を動かすようにゆっくりとその場に屈み、幼い瞳と視線を合わせた。


「……駄目だよ。世の中にはね、悪い人と、怖い人が、いっぱい居るんだから」

「あ……父様も、お姉ちゃんも、言ってた」


 ぽつりと思い出した家族の言葉に、はっとした様子で汀は、小さな両手で口許を隠した。

そんな仕草を見つめながら、彼女は答えのない問いを反芻する。


 正しいから、善人なのではない。悪いから、優しくないわけでもない。

そんなことは、彼女自身が一番よく知っていた。

ずっと、守るべきもののために足掻き、救い出そうと必死に腕を伸ばしてきた。

けれど、差し出した手は空を切り、尽くした誠実さは、彼女の心をただ疲弊させる刃でしかなかった。


 だから、自分は選ばれなかったのだろう。

――こんな話を、この光の中にいる子供にしたところで、どうにもならない。

喉の奥にせり上がった苦い言葉を、そのまま飲み込んで口を噤んだ。


「でも、おねーちゃん格好いいもん! 悪い人じゃないよ!」


 残酷なまでに純粋な、屈託のない笑顔。

子供の理屈はいつだって無茶苦茶で、そして時として、研ぎ澄まされた刃よりも鋭く胸を突く。

彼女の凍りついていた口許が、わずかに震えて緩んだ。


 幼い頭を、そっと撫でる。

掌に伝わる柔らかな髪の温もり。

けれど、その熱は一瞬で指先を通り過ぎ、するりと抜けていった。


 彼女はそれ以上は深追いせず、名残惜しさを断ち切るように辺りを見回す。

案の定、向こうの通りから、同じ面差しをした姉の少女が駆けてくるのが見えた。

さらにその後ろでは、乳母が息を切らし、必死に声を張り上げている。

薄汚れた白い髪、生気のない表情。そして、重々しく存在を示す黒い棗の棍。

乳母の目は、警戒に鋭く細められていた。

水鏡のような街で、正体の知れない武を帯びた者は、それだけで毒に近いのだろう。


 やがて、こちらに駆けてきた姉と妹は合流し、彼女の下で自然と手を取り合った。

その、互いの体温を確かめ合うような当たり前の仕草が、あまりにも眩しくて――。

雨昕は一瞬だけ、強く目を細めた。


 自分はもう、その場所には戻れない。

温かな食卓も、手を取り合う安らぎも、すべては遠い岸辺の出来事だ。

けれど。

せめて、この幼い姉妹が、自分と同じ暗い泥濘に辿り着かないようにしたい。

今の自分に手を伸ばす資格など、もう一欠片も残されていないとしても。

それでも、手が届くものから、目を背けていい理由にはなり得ない。


 だから。もう少しだけ――。


 生きることを思い出させてくれた小さな綺羅星に、何かを返せるだろうか。

そんな想いを乗せて、彼女は手の中の棍を確かめるように回した。

棗の古木が空気を切り裂き、柔らかな風を巻き起こす。


 幼い姉妹の視線が、吸い寄せられるように彼女へと向けられた。

もはや、誰に見せるための武でもなかった。

ただ、肉体に刻まれた型をなぞることでしか、自分がここに在ることを確かめられない。

それは、悲痛なまでの自問自答であり、生を刻みつけるための儀式だ。


 片手で回す棍は、流れるように背を辿り、肩を越えて再び掌へと戻る。

視線も身体も、微動だにしない。

棍は彼女の延長であり、決して己を傷つけないと信じているから。


 手元に戻った棍の石突きが、滑らかな軌道を描いて石畳を叩いた。

重く、芯に響く音が、騒がしい市の視線を集める。

弾かれたように向けられる有象無象の視線さえ、今は彼女の儀式を形作る一部に過ぎない。


 叩きつけた反動をそのままに、彼女の身体が宙へと舞い上がる。

身体を捻れば、白く乱れた髪が夜空に三日月を描いて――。

棍の先よりも高く、重力から解き放たれた彼女は、夕闇の空を滑るように舞い落ち、河がうねりを作るように、再び棍が唸りを上げた。


 身体が、意志が、再び流れに乗り。

最後には棍を脇に深く挟み込み、幼い姉妹の前へ、捧げ物をする献身者のように、跪いて着地した。


 時間にして、ほんの瞬きの間の舞踏。

少女たちは、瞬きすら忘れてその光景に見入っていた。

彼女の白い髪が静かに肩へと落ちきると、汀は満開の笑顔を弾けさせた。大人びていたはずの澄も、その瞳を純粋な感嘆に染め上げている。


「す、ごい……」


 先に声を漏らしたのは、意外にも澄だった。

汀はそんな姉に向かって、まるで自分の手柄のように得意げに頷いて見せる。

そして彼女に視線を戻すと、小さな体に抑えきれない興奮を、その場で何度も飛び跳ね、「すごい、すごい」と言葉を連ねて爆発させていた。


 彼女は、笑っていた。

やつれた頬がわずかに震え、凍りついていた感情が、ほんの少しだけ融け出す。

薄く呼吸を整え、心の奥底から、今の自分にはあまりにも不釣り合いな言葉を、ひとつずつ選んで紡ぎ出した。


 世路(せろ)は長河(ちょうが)の如し

 抗えど、これを回(めぐ)らすべからず

 至親(ししん)も終(つい)に別れあり

 同舟(どうしゅう)もまた分(わか)れ帰(き)す


 願わくは、汝(なんじ)常に安健(あんけん)たれ

 この悲しき時に逢(あ)うことなかれ

 胸中に明月(めいげつ)あらば

 長(なが)く未来の枝を照らさん


 祈るように贈るこの言葉は、今はまだ、幼い二人に届かない。

けれど、せめて幼い光の歩む道の先に、自分のような悲劇が降りかからないように。


 彼女が歩まされてきた道は、皮肉にもまだ目の前に広がっている。

この小さな輝きが汚れず、悲しまずに済むのなら、代わりになることなんて彼女には容易いはずだ。

それこそが、今の自分に許された唯一の役割なのかもしれない。


 顔を上げた彼女に、「白いおねーちゃん」と舌足らずな声が掛かった。


「汀も、たくさんお勉強したら、おねーちゃんみたいになれる?」


 子供の純粋な“夢”の対象に、彼女はこれ以上なく相応しくない。

けれど自分を見つめる眩しい瞳に、嘘をつく痛みを喉の奥で呑み込み、彼女は深く、優しく頷いて見せた。


 破顔した汀と、何かを感じ取ったのか、少しだけ俯いた澄。

二人の頭を、慈しむように、もう一度だけ撫でる。


 そして。役目を終え、立ち上がろうとした刹那。


「おねーちゃん……?」


 一瞬、視界の端が白く滲んだ。

遠くで鳴っていた賑わいも、風の音も、ひどく遠ざかっていく。


 限界を越えたのだと、他人事のように察した。

張り詰めていた糸がふつりと切れ、彼女の身体は糸の切れた人形のように、そのまま石畳へと倒れ込んだ。

いきなり倒れ伏した彼女の姿を見て、汀が悲鳴のような泣き声を上げる。

乳母も狼狽え、腰を抜かす中――。

澄の幼い声だけが、「お父様を呼んで!」と、驚くほど鋭く夜の空気へ響き渡った。


「大丈夫、大丈夫よ、汀……お姉さんは、生きてる」

「うぅっ……ほん、ほんと……っ?」

「っ大丈夫!」


 遠くで、震える声と舌足らずな会話が聞こえる。

さぞ、驚かせてしまったことだろう。

幼い子供にとって、目の前で人が倒れる光景は恐怖でしかないはずだ。

早く起き上がらなくては――。


 そう焦り、腕や足に力を込めようとするが、指先ひとつ思うように動かない。

全身が泥のように重く、痺れた手は開くことさえ叶わない。まるで、冷たい石に変わってしまったかのようだ。

誰かのために走っているつもりで、自分はいつも守られている。――いつも、そうだ。

そんな苦い感傷が、澱(よど)みのように頭を過る。


 不意に、澄と視線がぶつかった。

彼女がゆっくりと瞬きを返すと、澄は今にも泣き出しそうなほど顔を歪めながらも、気丈に唇を噛み締めた。

そして、近くを通る大人たちに向けて、勇ましく声を張り上げたのだ。


 水はないか、医者はいないか、この人を助けてくれないか、と。

なんて、勇敢なのだろう。

自分だって震えているはずなのに、妹を宥め、見ず知らずの他人のために必死に叫んで。

放っておけば良いものを。


 その幼い叫びに触発されるように、人だかりが彼女の周りにでき始めた。

やがて、誰かの手によって細い身体が抱き起こされる。

何かを問われているようだが、耳鳴りが酷くて判別できない。

ただ、促されるままに瞬きをすると、乾ききった口内へゆっくりと水が流し込まれた。

そういえば、最後に水を飲んだのはいつだったか。


 人影が、急に増えたように感じた。

もはや気配を読むことさえできず、そこに何人が集まっているのかも判然としない。


 ただ一つ、ひときわ大きな影が、彼女を覆い隠すように差した。

すべてが水底で反響するように聞こえる中で、再び、幼い泣き声が届く。

それは恐怖によるものではない。安堵して、甘えているような――。


 いよいよ身体がふわりと浮き上がる感覚に、それが現実なのか、あるいは死の間際に見る夢なのかも分からない。

けれど、もう抗う理由など、どこにも見当たらなかった。


「澄、汀。大丈夫だ、帰ろう。……貴女もな、羅雨昕(ら うきん)」


 大男の低い声が、幼い姉妹を優しく宥める。

 その温かな響きの中で、彼女の意識は、今度こそ完全に途絶えた。


なんでもない日だけどプリンタルトを食べた。

昔作ったプリンケーキが食べたくなった。また作ろうかな。

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