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雨天決行  作者: 公星
14/17

1-14『沈家』


 翌朝も早い時間から鍛練に勤しむ鵑に、李峻が声を掛けてくる。昨日よりも神妙な顔で、今日の沈烔堅への紹介の場には行けないと言った。

昨晩見た、親の顔ではない。何か気になることでもできたのだろう。


「……帳簿に不審な点でも?」

「ああ、いや……大した事ではないが……どうにも、帳簿が綺麗に揃い過ぎていてな」


 首を捻る李峻は、思い違いならそれで良いが、少し調べるという。些細な擦れも放置すれば大きく反れるもので、商人にとって――商人に限った話でもないが、その擦れは命取りになる。

陳宜から渡された書簡もあるのだから、鵑であれば問題ないだろう。と李峻は続けた。

それだけ信用を得られたのだと考えれば、李峻の顔に泥を塗らないようにしなければ。そんな気持ちにもなった。


 支度を済ませると、昼前には、昨日李峻の後ろに付いて通った道を、鵑一人で歩いた。

居住区と官庁区を隔てる石橋の先で、槍を立てた門番が往来を絞っている。その横には水鏡でしか見ないーー水門の開閉や、舟での輸送が行われていて、不思議な感覚だ。

官庁に用のある者だけが通される内城壁の門の前で、門兵から声を掛けられる。

向けられた視線に特別な意味は無いのだろうが、鵑の白い髪や菖蒲色の瞳は目立つ。見ない顔ーー噂話でしか聞かない顔だ、と訝しんでいるのが伝わってきた。

これまでにも、何度も向けられた視線だった。今更気後れすることもなく、陳宜からの書簡を差し出し、鵑と名乗る。

門兵は更に眉間に皺を寄せる。武人として招かれたにしては、鵑は貧相な体躯で、今日は棍も李家へ置いてきたせいか、より一層か弱く見える。

とはいえ、主簿の書簡を蔑ろにする訳もなく、門書 へ繋いだ。

確認はすぐに通り、書吏見習いが出迎えた。


 書吏見習いに付いて行くと、鎧姿が減り、代わりに木簡を抱えた書吏が行き交い始める。

ここからが正念場だ。力を認めて貰い、出来ることを全うする。それで未来が明るくなるなら、幾らでも戦おう。

その気持ちに、偽りは無いけれどーー疑問と迷いは、一旦飲み込む。

書吏見習いは、政庁正堂に着くと陳宜が待っているという。

あの全てを見通すような目には、この迷いも見えていただろう。答えも、知っているだろうか。

きっと聞いたところで答えてはくれないだろうし、助言なんて本当は求めてない。


 小さく息を吐いて、言われるまま部屋に入る。

そこには陳宜だけでなく、もう一人、壮年の男が居た。上座に座り、積み上がった書簡に目を通している。

鵑が拱手して頭を下げると、陳宜は積み上げた書簡を持ち上げて横を通り過ぎた。

一瞥もしない態度に少し戸惑う。


「よく来たな」


 陳宜に気を取られたが、残った男が鵑に声を掛け、許しを受けて漸く頭を上げた。

その人こそ、沈烔堅だ。髪に白いものが混ざってはいるが、勇猛で知られるだけあって衰えを感じさせず、覇気に満ちていた。


「すまんな。あれはあれで、お前を気に入っているんだが、照れ屋なんだ」

「照れ屋……」


 思っていた以上に陳宜から認められてという事らしい。

沈烔堅にそう評された事を陳宜が知ったら、どんな顔をするだろう。想像の中の陳宜は、難しい顔をしていた。


「李峻殿の薦めで参りました。鵑と申します」

「ああ。昨日のうちに会うつもりでいたが、急用でな」


 もう一度頭を下げた鵑に、沈烔堅はそう言い、歓迎すると続けた。

それに、初めから会うつもりでいたという事は、李峻の扱いも低くないのだろう。

同時に、陳宜の問い掛けは、本当に鵑を試す為だけのものだったようだ。


「近頃は都もきな臭くてな。良からぬ噂もある。お前のような者を迎えられるのは、俺も有難い」


 ここまでの間、沈烔堅は一度も鵑の名に触れなかった。

李峻や陳宜の配慮なのだろうが、沈烔堅がそこに触れないのは、沈烔堅自身も豪胆だ。

安堵というほどでもないが、胸の奥にわずかな余白が生まれた、その時だった。

廊下の向こうから、早足の足音が近づいてくる。遠慮も躊躇もない、硬い靴底の音だ。

沈烔堅が何か言いかけて口を閉じるのと、乱暴に戸が開かれるのは、ほとんど同時だった。


「親父殿、今いいか」


 断りというより宣言に近い声だった。

入ってきたのは、背の高い若い男だ。陽に焼けた肌に、均整の取れた体躯。衣の上からでも鍛え上げられた筋肉の張りが分かる。

目は真っ直ぐで、躊躇がない。その視線が、部屋の中を一巡し、最後に鵑の上で止まった。

露骨なまでの値踏みだった。

鵑は自然と背筋を伸ばす。視線を逸らす理由はないが、挑む理由もない。拱手をするでもなく、ただ静かに立っていた。

鵑の様子に、若い男は小さく鼻を鳴らした。視線は鵑から離れない。

頭のてっぺんから足元まで、傷の位置、体重の掛け方、呼吸の速さまで読み取ろうとしているのが分かる。

武人の目だったが、同時に、露骨に疑っている目でもあった。


「……へえ。これが?」


 声音に遠慮はない。むしろ、わざとらしく軽い。鵑の白い髪と童顔を見て、何を思ったのかは想像に難くなかった。

沈烔堅が軽く眉を寄せる。


「司朗」


 名を呼ばれても、沈司朗は肩を竦めるだけだった。


「いや、だってよ。最近はまた水賊共が集まってるって噂もある。だからこそ、余計に気になるだろ」


 見た目じゃ分からんが、と言って、そこで初めて、鵑に向き直った。


「お前、本当に腕が立つのか?」


 問いというより、断定に近い疑いの言葉だった。

鵑は一瞬だけ沈司朗を見返す。

視線の重さは軽くない。後継者という立場がそうさせているのか、それとも元からの気性なのか。いずれにせよ、礼よりも先に疑いを投げつけてくる態度は、鵑の目にも不遜に映った。


 沈家の後継者・沈司朗(しん しろう)。名は聞いたことがある。武芸に優れ、血気盛んだと。今目の前にいる男は、その噂に違わない。

鵑自身も武人として彼に興味はあった。だがーー面倒くさい。

胸の奥で、そんな感想が浮かぶ。怒りでも侮辱でもない。ただ、余計な波風を立てる人物だという印象だった。


「司朗、客人だぞ」

「分かってるさ、親父殿」


 口ではそう言いながらも、沈司朗の視線は緩まない。むしろ一歩、鵑へ近づいた。

間合いを測るように、足の運びが静かに変わる。無意識なのか、癖なのか。武人の動きだった。


「李峻の薦めだってのは聞いた。けど、俺は実際に見たものしか信用しない」


 沈司朗は腕を組み、わずかに顎を上げた。


「親父殿、この人……いや、この子か? とにかく、本当に使えるかどうか、俺が確かめたい」


 空気がわずかに張り詰める。

沈烔堅はすぐには答えなかった。

机の上の書簡を一つ揃え、静かに置く。その仕草は落ち着いているが、沈司朗の性急さに呆れているのが分かる。


「確かめたい、とは?」

「簡単だ。表に出てもらう。少し手合わせすれば分かる」


 沈司朗の言葉は、遠回しな提案ではなかった。ほとんど決定事項のような口ぶりだ。

沈烔堅の視線が、ゆっくりと鵑へ向く。

試される。拒むことも出来るだろう。

だが、ここで退けば、疑いはそのまま残る。客将として迎えられる前から、腫れ物扱いされるのは目に見えていた。

それに。

沈司朗の目は、ただの無礼ではない。都市を背負う者の目だ。疑う責任を負っている目でもある。

鵑は静かに息を整えた。胸の奥は、相変わらず空洞のままだ。怒りも高揚もない。ただ、状況だけを受け止める。


「……お望みなら」


 短く答えると、沈司朗の口元が僅かに歪んだ。期待とも挑発ともつかない笑みだった。


「そうこなくちゃ」


 沈烔堅が露骨に息を吐いた。そこには呆れの色が混じっていた。

沈司朗は肩を竦める。


「分かってるって。ただの確認だ。客将候補なんだろ?なら、腕を見ておくのは当然だ」


 そして再び、鵑を見る。


「演武場が空いてる。ついて来い」


 命令口調だった。

心のどこかで面倒に思いながらも、その目の奥にある真剣さには、理解できた。

沈家の後継者。都市を守る立場にある者として、軽々しく人を信じないのは当然なのだろう。

沈烔堅が椅子から立ち上がる。


「……全く。血気盛んな息子でな」


 息子の不出来を嘆くように言いながらも、その視線は鵑に向けられていた。

拒むなら今だと言わんばかりの、静かな確認。

鵑は軽く頭を下げる。


「構いません」


 そう答える間にも、沈司朗はすでに踵を返していた。戸を開け、振り返りもせずに廊下へ出ていく。足音は来た時と同じく遠慮がない。

部屋に残った空気が、わずかに揺れる。

沈烔堅は再び短く息を吐き、苦笑した。


「悪いな。あれでも、この都市を背負うつもりでいるんだ。……それに」

「?」

「俺も、お前の実力には興味がある」


 沈烔堅ほどの武人にそう言われるのは、僅かに胸が弾む。ただ棒切れを振り回して、降りかかる厄介をやり過ごしただけの幼い頃を思えば、それだけ強くなったと、認められたのだから。

鵑は何も言わず、ただ頷いた。

未だ空虚に囚われた胸の奥で、ほんのわずかだけ、何かが動いた気がした。

廊下の先から、沈司朗の声が飛んでくる。


「置いてくぞ!」


 急かす声に、鵑は一歩を踏み出した。

演武場へ向かうために。




 廊下を抜け、幾つかの中庭を横切る。

足音は沈司朗が先、鵑が後ろ、そして少し距離を置いて沈烔堅が続いた。

途中ですれ違う兵や役人たちが足を止め、何事かと視線を寄越す。沈司朗が振り返りもせずに歩くものだから、行き先はすぐに知れ渡ったらしい。人の流れが、自然と同じ方向へ集まり始めていた。

開けた空間に出る。土を踏み固めた鍛練場だ。武具棚が並び、槍や剣、木製の訓練用武器が整然と掛けられている。

既に何人かの兵がいて、沈司朗の姿を見るなり姿勢を正したが、すぐに空気が変わった。

客人らしき白髪の少女。しかも手ぶら。ざわめきが小さく広がる。

沈司朗は足を止め、振り返った。


「そういや……お前、武器持ってないのか」


 鵑は小さく頷く。


「沈烔堅様にお会いしに来ただけなので。李峻殿の屋敷に置いてきました」

「……そうか」


 沈司朗は顎で武具棚を示した。


「好きなのを選べ。素手でもいいが、それじゃあ流石に不公平だろ」


 言い方は軽いが、試す目は変わらないようだ。

鵑は棚の前に立つ。槍、剣、長刀。手に取って重さを確かめ、すぐに戻す。

視線は自然と長物の並びへ向いた。

木製の棍。玄欒から貰ったものよりも遥かに軽いが、重心は悪くない。

手に取り、軽く振ると、空気を切る音が静かに鳴った。違和感はあるが、扱えないほどではない。


「それか」


 沈司朗は短く言い、今度は自分が武具棚へ歩く。迷いなく一本の剣を抜いた。

鞘から刃が滑り出る音が、乾いた空気に響く。刃文は素直で、実戦用の重みがある。


 気付けば、周囲には兵や将が集まっていた。

鍛練の手を止め、輪を作る。誰も声を掛けてこないが、視線の向きは明白だった。沈司朗の側に立つ者たちの空気。応援と期待が、無言のまま場を満たしている。

敵地だ、と鵑は思う。だが胸は静かなままだ。浮かぶ感情は、ただ状況の認識だけだった。

沈烔堅が輪の外側に立つ。腕を組み、静かに二人を見た。


「ほどほどにな」

「分かってる」


 沈司朗は軽く答え、数歩下がる。

間合いを測る足運び。砂を踏む音が乾く。剣先が鵑へ向けられた。


「遠慮も手加減もいらん。客将ってんなら、実力を見せろ」


 鵑は棍を両手で構える。呼吸を整え、視線を沈司朗の肩口に置いた。目を合わせすぎない。動きの起点を見るためだ。


「……あなたも」


 短く返す。

沈司朗の口元がわずかに上がった。


「当然だ」


 沈烔堅が小さく手を挙げる。


「始め」


 次の瞬間、沈司朗が踏み込んだ。

躊躇のない直線。剣が空気を裂く。上段から振り下ろされる刃は荒々しいが、軌道は正確だ。力任せではない。鍛え抜かれた型の中に、本人の癖が混ざっている。


 強い。

最初の一太刀で、鵑はそう判断した。

棍を斜めに差し込み、刃を受けるのではなく滑らせる。衝撃を逃がし、横へ流す。

剣筋が逸れた瞬間、踏み込み返して棍を突き出す。

沈司朗はすぐに身を引き、剣の腹で弾いた。

距離が開く。

再び踏み込み。今度は横薙ぎ。低い位置からの切り上げ。続けざまの連撃。

荒々しいのに隙が少ない。鵑は足を運びながら、棍で刃を受け流し続ける。

真っ向から受ければ力で押し切られる。角度を変え、滑らせ、反らせる。

間が生まれた瞬間、棍を振り上げる。沈司朗の肩口を狙った一撃。沈司朗は剣を立てて防ぎ、衝撃に鵑が一歩退いた。

そのまま反撃が飛んできた。足を払うような低い斬撃。鵑は跳ねるように避け、着地と同時に棍を横薙ぎに振る。


 刃と棍が打ち合う音が続き、周囲の兵たちの空気が変わり始めた。

最初はざわめきだけだったのが、次第に歓声へと変わる。沈司朗の名を呼ぶ声。予想外の応酬に興奮する声。土煙が上がり、陽光の中で粒子が舞う。

何度目かの切り結び。

沈司朗の剣が棍を弾き、容赦なくその刃が向けられる。

鵑は手首の角度を変え、反動を利用して手刀で突きを返した。沈司朗が身を捻って避ける。互いの呼吸が荒くなり、足跡が地面に刻まれていく。

歓声はさらに大きくなった。周囲はすでに熱狂に近い。予想以上の好勝負だと、誰もが分かっていた。


 だが。

その熱とは裏腹に、沈司朗の表情が徐々に硬くなっていくのを、鵑は見逃さなかった。

太刀筋は鋭いままだが、どこか苛立ちが混じり始めている。踏み込みがわずかに強くなり、呼吸が荒れる。剣先が僅かに揺れる。

鵑は棍を取り戻して構え直すと、その変化を静かに観察した。

周囲は歓声に包まれている。だが、沈司朗の目だけが、別物の熱を帯びている。


 剣と棍が打ち合う乾いた音の向こうで、未だ兵達の興奮は高まるばかりだ。誰かが名を叫び、誰かが足を踏み鳴らす。敵地に立つ身であることを、耳に入る応援の偏りが嫌でも知らしめるようだ。

だが鵑の意識は、次第に周囲から離れつつあった。

沈司朗の熱を帯びた剣は、始めよりも荒々しい。

無駄があるようでいて、決して隙にはならない。力任せに振り下ろしているようで、刃筋は正確に急所を狙う。踏み込みは深く、間合いを奪うことに躊躇がない。


 その武に、胸の奥がざらりと逆立った。

似ているのだ。思考の底から、嫌でも浮かび上がる影。

寒戎王、宋武筮。

血の匂いをまとい、同族を武で従え、愛していると宣う文霽を、腕の中に抱いたまま戦った男。

あの時投げ付けられた問いが、今でも耳の奥に残っている。


――俺は月瑶を愛してる。お前のそれは、なんだ?


 あの時、答えなかった。答えられなかった。

答えを持たないまま、力の限りを尽くし、血を浴び、ただ奪い返すことだけを考えていた。

その答えを、本当は今も、まだ見付けられてはいない気がした。


 刃が閃く。

鵑は棍で受け流し、間合いを外す。足裏が土を削り、呼吸が浅くなる。

不意に、文霽の顔が、脳裏に過った。

怯えた瞳。細い足。最後に見た、涙。

雨昕が側に居る事が、辛いのだと――あんなにも美しいのに、自分は醜いと泣いていた。

あんな顔、させたくなかった。させるつもりさえ無かった。全部、守ると誓ったのに。

なんで、こうなってしまったのだろう。

そう考える度に、宋武筮を恨めしく思う。あの男さえ居なければ。あの男が居たから、文霽は――。


 文霽は今頃、何をしているのだろう。足は動かしているだろうか。

笑えて、いるだろうか。


 思考が一瞬だけ戦場から外れた、そのわずかな空白。

それを、沈司朗は見逃さなかった。重い拳が、風を裂いた。

頬骨に直撃する衝撃。視界が白く弾け、足元が崩れる。

鵑の身体は大きく吹き飛び、背中から土に叩き付けられた。息が詰まり、肺が空気を拒む。

周囲の歓声が、途切れた。

霞む視界の中で、影が覆い被さる。

胸倉を掴まれ、乱暴に引き起こされた。指が衣を食い込み、呼吸が浅くなる。


「……それが、本気か」


 低く、押し殺した声。

沈司朗の顔には露骨な失望が浮かんでいた。眉間に深い皺を刻み、噛み締めた歯の奥で怒りが軋んでいる。


 勝手に期待して、勝手に失望している。

その態度に、胸の奥がざらりと逆撫でられた。

――何を知っている。

苛立ちが、じわりと広がる。

沈司朗の視線の奥に、宋武筮の影が重なる。問い詰めるような目。勝手に測り、勝手に決め付ける顔。


 どいつも、こいつも。

胸の奥で、何かが音を立てて切れた。

胸倉を掴まれたまま、無理矢理立たされる。

足が地を踏み直し、視線が真正面からぶつかった。


「もう一度聞く。それが本気か。……答えろ」


 唸るようなその言葉が、最後の引き金になった。

鵑の腕が動く。

言葉はなく――ただ、殺気だけが拳に宿る。

次の瞬間、真正面から、沈司朗の顔面を殴り抜いた。

鈍く、乾いた音が響く。

細い腕から繰り出されたとは思えない衝撃に、沈司朗の上体が大きく仰け反った。足が半歩退き、砂が跳ねる。

沈司朗の手が緩む。

その隙を逃さず、鵑は胸倉を掴み返し、無言で踏み込んだ。重心を低く落とし、間合いを詰める。追撃の拳を振り抜こうとした、その刹那。

横から来た肘が、脇腹を抉った。再び肺の空気が押し出され、息が漏れる。

死角からの反撃。沈司朗の動きは止まらない。苛立ちを孕みながらも、研ぎ澄まされた反応だった。

再び、拳と拳の距離が詰まる。武器を捨てた者同士の、逃げ場のない間合いで。

場外の音は聞こえない。思考も視界も明滅して、ただ倒れないように、ただ目の前の男を殴る事だけ――。


「そこまでだ!」


 雷鳴のような一声が、鍛練場に落ちる。余熱を帯びていた空気が、一瞬で凍った。

声の主、沈烔堅が歩み出る。

その顔は険しい。先程までの豪胆な笑みは影もなく、二人を射抜く視線は刃のように冷たい。

二人は素早く互いを解放し、君主に頭を垂れる。


「それ以上は武人の試合とは呼べない。稚拙な私闘だ」


 低く、しかし容赦のない声音だった。叱責は二人を等しく射抜き、沈司朗が何か言い返そうと唇を開く。


「ですが、俺は──」

「だがも何もない」


 言葉は鋭く遮られた。沈烔堅の視線は沈司朗に据えられ、次いで鵑へと移る。

感情を削ぎ落とした眼差しが、二人の立ち姿を測るように往復した。


「武人であるならば、怒りに己を明け渡すな。司朗、お前は俺の後継者として、自覚が足りない」


 沈司朗の肩がわずかに強張る。

そして沈烔堅は、今度は鵑へと言葉を向けた。


「実力は理解した。しかし、このままでは将としての器量に不安が残る」


 胸の奥で、何かが鈍く軋んだ。反論は浮かばない。否定する材料を、鵑自身が持っていなかった。

ただ黙って、拱手を崩さず、頭を下げ続けた。


「……二人とも、医官に診て貰うように」


 それだけを残し、沈烔堅は踵を返す。背は振り返らない。衣擦れの音が遠ざかり、やがて廊の奥へと消えていった。

張り詰めたままの静寂が落ちる。

残されたのは、散った呼気と、まだ解けきらぬ熱だけ。

沈司朗がその場にどかりと座るや、地面に拳を叩き付けた。

その横で鵑は小さく息を吐いた。己の拳を見下ろす。

客将として迎えられる前の身で、あの有様だ。いい格好しようとしてた訳ではないが、これはあまりにも――やらかした。

主要都市君主の後継者の、それも顔面を殴るなど、場合に寄っては処刑ものだ。今、捕らえられていないということは、沈烔堅にそうするつもりが無いようだが、沈司朗がその気になれば、或いは。

胸の内では自身を諌める言葉が幾つも転がる。反省は遅く、しかもどうしようもなく現実的だった。


 将達に急かされるように、兵達も持ち場に戻って行く。

もう、ここに居座る理由はない。李峻や陳宜には悪いが、このまま去ってしまおうか。

そう思った瞬間、ぐいと首根を引かれた。


「……そっちじゃない」


 沈司朗だった。先ほどまでの殺気立った気配が嘘のように薄れている。

だが完全に消えたわけではない。指先の力に、まだ燻る苛立ちが混じっているのが分かる。


「治療は、いりません」


 鵑は短く言う。折れてる感覚はない。血も流れていないのだから、少しすれば直るだろう。


「要る要らないの問題じゃない」


 沈司朗の声は低かった。だが、どこか奇妙な静けさも滲んでいる。


「沈家の沽券に関わる」


 沽券。その言葉が落ちた瞬間、鵑の中で何かが諦めに似た音を立てた。

そこまで言うなら、もう好きにすればいい。投げやりになって、抗う気力がすっと抜ける。

沈司朗はそのまま鵑の襟首を掴み、半ば引きずるように歩き出した。

足取りは荒く、だが迷いがない。廊の角を曲がるたび、沈家の兵たちの視線がちらと刺さる。

鵑は抵抗しなかった。

擦れる靴底の音だけが、長く続く回廊に乾いて響く。

医官の詰め所へ向かうその道程は、妙に静かで、妙に長かった。

先ほどまでの怒気が、遠雷のように背後へ退いていく。

ただ、引かれるままに進みながら、鵑はぼんやりと思う。

将として不安が残る。

その言葉だけが、胸の奥に沈み、鈍い重さを保ったままだった。


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