1-11『月瑶』
許安での日々は、玄欒が用意しただけあって、静かで規則正しく、雨昕の望み通り万全であった。
朝、雨昕は鍛練を終えると黎景邸を飛び出していく。文霽の屋敷を訪れ、医官の診察に立ち会い、そのまま一日を共に過ごすのだ。
昼前には歩行の練習。夕刻には疲労を見て切り上げ、夜になる前に帰る。それが、いつの間にか当たり前の一日の流れになっていた。
文霽の脚は、医官の見立て通り、慎重に扱わなければならなかった。
傷付いた彼女の脚は、無理をすればすぐに痛みが出る。回復には時間がかかる。焦りは禁物。
それが、誰の目にも明らかな現実だった。
けれど。
「今日は、ここまでに致しましょう」
文霽は、医官が口を開くよりも先にそう言うことがあった。
歩幅、足の運び、体重の掛け方。どこまでなら耐えられて、どこから先が危ういのかを、まるで自分の身体を地図のように把握している。
「これ以上は……あとで熱が出る気がします」
そう言って微笑む声は穏やかで、無理をしている様子はない。
医官は感心したように頷き、「よく分かっておられる」と言った。
雨昕も、そう思った。文霽は前向きに、ちゃんと、これからを生きようとしているのだ、と。
長らく閉じ込められた環境にて、思い通りにならない脚と向き合うことが、どれほどの苦痛を伴っただろう。雨昕には想像するしか出来ない。
それでも文霽は、痛みを嘆くことも、弱音を吐くこともなく、淡々と、けれど確実に前へ進んでいた。
季節が流れ、庭を足踏みするだけの散歩が、いつしか半周になり、やがて一周になる。
やがて与えられた杖を突く時間が延び、休憩を挟めば屋敷の外まで出られるようになった。
医官は奇跡だと文霽の努力を褒め、雨昕も自分の事のように喜んでいた。
「今日は風が心地よいですね」
そう言って空を仰ぐ文霽の横顔は穏やかで、静かで、どこか達観しているようにも見えた。
雨昕は、その表情に胸を撫で下ろす。自分が側にいることで、文霽は日常を取り戻している。失われた時間も、奪われた日々も、ゆっくりと。
そう、疑いもしなかった。
その日の帰り道、文霽は少しだけ歩き過ぎていた。
夕暮れが近づき、足取りが僅かに重くなるのを、雨昕は見逃さなかった。
「……無理、してる?」
「大丈夫ですよ」
即座に返ってきた否定は、あまりにも早くて、滑らかだった。
それが、かえって雨昕の足を止める。
「文霽」
名前を呼ぶと、文霽は一瞬だけ視線を逸らした。ほんの一瞬。けれど、それで十分だった。
雨昕は、すっかり腫れが引いて、傷跡も残らず癒えた頬を膨らませると、何も言わずに文霽の身体に腕を回した。
あまりにも慣れた動作で抱き上げ、文霽は驚くより先に、申し訳なさそうに眉を下げた。
それに、そろそろ雨昕に抱き上げられるのにも慣れたようだった。
「雨昕、わたくしは……」
「ダメ。私だって、ずっと近くで文霽のこと見てたんだから」
そう言って文霽の言葉を遮ると、雨昕は歩き出す。
雨昕は相変わらず、背丈は低いし貧相な体付きだ。けれど文霽の身体は軽い。骨ばった肩も、細い腰も、雨昕の頼りなく見える腕の中でも軽々と収まった。
文霽は抵抗を諦めたのか、何も言わなかった。ただ、静かに息を吐き、雨昕の肩に額を預ける。
屋敷へ戻る道すがら、文霽がふと空を見上げた。
「……月が」
小さく呟いて、夜空を仰ぐ。つられて、雨昕は足を止めると空を仰いだ。
雲の切れ間から、まだ少し円には満たない月の澄んだ光がこぼれていた。秋の月は高く、輪郭が冴えている。
「もうじき、中秋ですね」
そう言って微笑む文霽の横顔に、雨昕は無意識に息を詰めた。月光に照らされた文霽の肌は白く、影は薄く、まるでこの場に留まってはいけないもののように思えたのだ。
「……少し、見ていきたいです」
そう言ってはにかむ文霽を目の当たりにして、雨昕はその願いを断れなかった。
どうせならば、と雨昕が案内したのは、城下から少し離れた、水殿の跡だった。
かつては離宮として使われていたというが、今は人も寄り付かず、池と崩れかけた回廊だけが残っている。風が吹くたび、波立つ水面が月を揺さぶる。
雨昕はそこで、文霽を下ろした。雨昕に掴まったまま、ゆっくりと立つ文霽。
雨昕は月を見上げる文霽の姿を盗み見る。静かで、あまりにも綺麗で――不意に、胸の奥が冷えるのを感じた。
理由の分からない不安が、背中を伝って這い上がってくる。
文霽はここにいるのに、確かに触れられる距離にいるのに、ほんの刹那、瞬きの間にも、月の光の中に溶けて消えてしまうように思えた。
文霽と分かたれたあの日を思い出す。手を伸ばした時には、何もかもが遅かった、あの日の事を。
置いていかれる。その恐怖だけ――今も、夢に見る。鮮明に、蘇る。
「……文霽」
声が、少し掠れた。
振り返った文霽は、不思議そうに首を傾げる。
雨昕は言葉を探すように視線を彷徨わせ、それから思い切ったように口を開いた。
「……手、繋いでいい?」
自分でも驚く程、弱い声だった。雨昕はばつが悪そうに俯く。そして、一瞬の沈黙。
けれど文霽は、すぐに柔らかく微笑んで頷き、手を差し出した。
細く、少し冷たい指先を、雨昕は強く握り返さないよう、ただ、離れないように指を絡める。文霽に、何処までもついていけるように。置いていかれないように。
二人並んで、月を見る。水面に映る月と、空に浮かぶ月。
同じ光を見ているはずなのに、どこか遠い。
文霽の手の温もりを確かめながら、雨昕は胸の奥で、理由の分からない焦りを抱え続けていた。
この時間が、これからはいつまでも続くのだと、信じては、いるけれど――。
暫くそうしていたが、夜風が強くなってきた。池の面を渡る風が冷たく、衣の裾を引く。
月は相変わらず冴えていたが、さきほどまでの穏やかさは薄れ、雲がゆっくりと流れ始めている。
「……風、出てきたね」
雨昕がそう言うと、文霽は小さく頷いた。
「はい。……そろそろ、戻りましょう」
そうして、再び文霽を横抱きにした雨昕は、水殿を後にした。
その帰り道、文霽は何度か口を開きかけた事に気付いた。親しくなる前にも、そんな事があったな、なんて思い出す。
文霽の呼吸が少し深くなり、唇が動く。けれど声にはならず、また唇を噛む。
言いたい事があるのだ、と。それは、雨昕にも分かっていた。
分かっていたからこそ、あえて聞かなかった。問いかければ、今ここで何かが壊れてしまう気がしたから。
月見の余韻。繋いだ手の温度。腕の中の軽い感触。
それらを、まだ失いたくなかった。
嫌な予感が、胸の奥でじっと息を潜めている。
けれど雨昕は、それを見ないふりをして、ただ歩き続けた。
やがて、文霽の屋敷が見えてきた。
門前まで来たところで、文霽が口を開いた。
「……ここからは、わたくしだけで大丈夫です」
此処まで来たらもう心配はいらないと、雨昕が持っていた杖を受け取ると、文霽はゆっくりと一人で立つ。
まだ不安定ではあるが、以前のような危うさはない。そのことが、なぜか今更、胸に刺さった。
「無理しなくていいのに」
「少し、歩きたいのです」
その言葉に従って、雨昕は文霽の後ろを歩く。
文霽は一歩、二歩と足を運び、そこで立ち止まる。
そこで深く息を吸い込み、夜気を胸に満たす。
「……雨昕」
――来た。
呼ばれて、根拠のない筈の予感に、雨昕は息を止めていた。
振り返った文霽の瞳を見て、予感は確信に変わる。
それでも雨昕は、できる限り自然な笑顔を作った。
「なに?」
文霽は、真っ直ぐにこちらを見ていた。
優しくて、冷たくて、恋い焦がれた筈の――逃げ場のない、視線だった。
「……わたくしの護衛は」
一瞬、言葉を区切る。
文霽の中で、最後の迷いが断ち切られるのを、見た。
「これで、最後です」
耳に届いた瞬間、頭の中と胸の奥と指先と――雨昕を動かす、全てが冷えた。
けれど雨昕は、凍り付きそうになる首を振った。
「まだ、これからだよ」
そう言って、震える指先で文霽の脚を指す。
「まだ、歩けるようになってきたばっかりだよ。ほら、ちゃんと――」
言い切る前に、今度は文霽が首を振った。
否定は静かで、揺るぎなかった。
「……このままでは、雨昕が埋もれてしまいます」
その言葉に、雨昕は息を詰める。
「……それに」
文霽は視線を落とした。月明かりが、長い睫毛の影を頬に落とす。
そこから先の言葉を、雨昕はまだ知らない。
けれど――ここから、もう後戻りできないことだけは、はっきりと分かっていた。
文霽は目を伏せたまま、すぐには言葉を続けなかった。
夜気を含んだ風が二人の間を抜け、灯りの届かない庭の影に包まれる。
雨昕は、何かを言わなければと思いながら、その“何か”が見つからずに立ち尽くしていた。胸の奥がざわつき、嫌な予感だけが、形を持たずに広がっていく。
「……わたくしは、宋武筮様を……愛そうと、していたのです」
静かな声だった。
責めるでも、縋るでもなく、ただ事実を告げるだけの声音。
だからこそ、雨昕は詰まりそうになる息を、無理矢理声に変えた。
「それは――」
誰を愛してもいい。
本来なら、そう言えるはずだった。けれど、言葉が喉元で凍りつく。
心の奥底から、別の感情がせり上がってきた。理屈ではなく、本能に近い拒絶。
――宋武筮は、駄目だ。
叫びたい衝動が、勝手に舌を動かそうとして、雨昕は強く唇を噛み締める。口にしてしまえば、取り返しがつかない気がした。
でも、だって、あの人は、駄目に決まっている。
あの人は、宋武筮は、文霽の人生を壊した人だ。
彼女の自由を奪い、逃げ道を塞ぎ、愛という言葉で縛りつけた――雨昕の中では、ずっとそういう存在だった。
そんな雨昕の思いを、文霽は最初から承知していたようだった。伏せていた睫毛の奥で、目をわずかに細める。
「あのお方は……連れ去られ、逃げようとしたわたくしの脚を切った者を……処罰しました」
まるで、そうではない、と言い聞かせるように。
一つ一つ、噛み砕くように言葉が置かれる。
「そして、わたくしの脚を治療し、また動かせるようにと……長らく、共に過ごしてくれました」
雨昕の胸に、冷たいものが落ちる。
けれど、文霽は言った。「ちょうど、今の雨昕のように」と。
その一言に、雨昕は無意識に半歩、後ずさる。地面の感触が、急に遠く感じられた。
否定したい。同じではないと、はっきり言いたい。雨昕は、宋武筮の愛を否定したのに。なのに、それでは、まるで――。
けれど、文霽が語る光景は、あまりにも具体的で、簡単には切り捨てられなかった。
「もちろん、あの方の側で……辛い思いもしました」
文霽の声は、淡々としている。過去を悔いる調子でも、被害を訴える調子でもない。
「それでも」
その短い言葉に、すべてが詰まっている気がした。
冷たい風が吹き抜け、雨昕は思わず声を出す。
「それなら――!」
続けようとして、けれど言葉が音になる前に崩れ落ちる。感情ばかりが先に立ち、形にならない。
文霽は、雨昕の続きの言葉を、少しだけ待った。けれど、続かないと悟ると、静かに続けた。
「それでも、あの方との間に出来た子は……愛しいと、思ってしまったのです」
その言葉が落ちた瞬間、世界の音が遠のいた気がした。
虫の声も、風の音も、すべてが一段、膜の向こうに押しやられる。
雨昕は、呼吸の仕方を忘れる。胸が上下しているはずなのに、空気が肺に入ってくる感覚がない。
――いいや、雨昕は知っていた。知っていて、知らない振りをしたのだ。見ない振りを、聞こえない振りを、気付かない振りを、此処まで通してきたのに。
「身籠ったことを知った時は……絶望さえ、しました」
文霽の声は続く。淡々と、けれど確かに重さを伴って。
雨昕の中で、否定の言葉がいくつも浮かんでは消えた。それは違う。そんなはずがない。それは、優しさじゃない。
どれも形になる前に、崩れていくのは、言葉にすれば、文霽を傷つけると分かってしまったから。
「ですが……生まれた、その子の手に触れた時。確かに……大切なものだと、思ってしまったのです」
雨昕は、拳を握り締める。爪が掌に食い込み、鈍い痛みが走る。それでも、現実感は戻ってこない。
首を振る。小さく、何度も。
違う、と。そうじゃない、と。
誰に向けた否定なのか、もう自分でも分からなかった。
文霽に対してなのか、宋武筮に対してなのか。それとも――ここまで無関心を装った、自分自身に対してなのか。
聞きたくない。
これ以上、踏み込めば、戻れなくなる。
そう思っても、足は逃げ場を探さなかった。
耳を塞ぐこともできず、ただ立ち尽くすしかない。
文霽の言葉は、夜の静けさの中で、逃げ場を失い、まっすぐに雨昕へ届く。
「だから……」
わずかな間。
その沈黙が、やけに長く感じられた。
「宋武筮様を、愛せば。すべてが、うまくいくと……そう、思ったのです」
それは、希望の宣言ではなかった。
何度も繰り返し、文霽が自分に言い聞かせてきた末の結論。
雨昕の中で、何かが静かに崩れ落ちる。音もなく、抵抗もなく。
ああ――そうか、と。
この人は、誰かを選んだのではない。生き延びるために、そう信じるしかなかったのだ。
そして、その場所に、もう自分はいない。
その事実を理解してしまった瞬間、雨昕の脳裏に、かつて投げつけられた言葉が鮮明に蘇る。
『俺は月瑶を愛してる。お前のそれは、なんだ?』
答える必要はないと切り捨てた、あの問い。
大切な友人だと、胸を張って言えば良かった。なのに、あの時、そうはしなかった。
今なら、答えられる。文霽は、雨昕の世界。雨昕の“すべて”だ、と。
それが誇れる答えではないと、知っていた。むしろ、愚かで、危うくて、取り返しのつかない、宋武筮の語る愛よりも歪な執着だ。
足元が、音もなく崩れていく錯覚に、雨昕はただ立ち尽くす。
一歩も動けず、明滅する視界に吐き気さえ覚えた。
ほとんど思考が停止している雨昕に向かって、けれど文霽は小さく首を振ると、まっすぐに見据えた。
「ごめんなさい、雨昕……わたくしは……どうしてこうも、醜いのでしょう」
その言葉は、責めるためのものではなかった。裁きを乞う声でもない。ただ、自分自身を断罪する響きだった。
文霽は小さく息を吐き、続ける。
「言い訳ばかり並べて……貴女を憎んでいたことを、誤魔化していたの」
「……ぇ?」
思わず、目を見開く。
視線の先の文霽は、憎しみを語っているはずなのに、いつもと変わらない、穏やかで優しい眼差しを向けていた。
その齟齬が、雨昕の心をひどく疲弊させる。もう、何も考えたくない。理解したくない。
「わたくしは……幼い頃、黎景様に憧れていたの」
よく知る名が出たことで、思考が微かに動く。
否定したい衝動と、できないという理解が同時に湧き上がる。あんな人、と思うのに、厳しくて優しい兄のように慕う師との思い出は、語り尽くせない。
雨昕がその狭間で立ち尽くしている間にも、文霽は静かに言葉を重ねる。
「こちらに戻って来てから、驚きました。雨昕と黎景様が親しくて、羨ましいとも、微笑ましいとも思いました……でも」
一度、目を閉じる。それは躊躇ではなく、覚悟の仕草だった。
再び開いた瞳は、逸らされることなく、雨昕を捉える。
「黎景様を見ていて、気付いてしまったの。……だから」
何に気付いたのかは、語られなかった。
だが、その続きを想像する余地は、残されていない。羨望は、妬みに変わった。それは、ごく自然で、そしてどうしようもなく醜い感情だった。
「わたくしが辛い思いをしている間、雨昕は黎景様や玄欒様から、こんなにも愛されていた、と」
その言葉は、刃のように静かだった。
声を荒げることもなく、ただ事実として語られる。
「そんな風に、考えてしまったの」
知りもしないで。
雨昕がどれほどの地獄を越えてきたかを。
「……そんな風に、わたくしは雨昕を憎んでしまったの」
ついに、堪え切れなくなった涙が、文霽の頬を伝う。風に揺られ、震えながら落ちていく。
「ごめんなさい。雨昕」
言葉は、そこで一度途切れた。
喉が詰まり、呼吸が乱れる。そして、震える声で。
「わたくしには、貴女の側に居る資格がないの」
涙腺は完全に決壊し、しゃくりあげながら、文霽は続ける。
「もう、わたくしを解放して」
「わたくしの身勝手を、許して」
と。それは、懇願だった。
救いを求める声であり、同時に、自ら切り離す宣告でもあった。
雨昕は、しばらくその場に立ち尽くしていた。何も考えられず、何も感じられず、ただ音だけが遠くで鳴っている。
やがて、文霽の横を通り過ぎた。
触れる事も、振り返る事もせずに。屋敷に入り、侍女を連れて戻ってくる。
侍女が慌てて文霽を支えるその姿を、雨昕は最後まで見届けた。
それから、一歩を踏み出す。そしてすれ違いざまに、文霽にだけ聞こえるよう、言葉を落とした。
「許すよ。……さよなら」
それは赦しであり、別れであり、
何より――自分自身を切り離す言葉だった。
雨が、降り始める。
冷たく、静かに。
雨昕は、傘も差さずに歩き出す。
振り返らない。立ち止まらない。
そして――
その日、羅雨昕は許安から姿を消した。
梅酒が好き。ワインも好き。日本酒も好き。ビールは最初の一口だけ美味しい。




