1-10『褒美』
翌朝、まだ春の名残りを感じる朔原を発った。
北の大地を渡る風は冷たさを残しているが、凍てつくほどではない。白朔嶺の稜線にかかる靄も薄く、季節が確かに前へ進んでいることを告げていた。
夜のうちに整えられた陣は、静かに動き出す。
甲冑の擦れる音、馬の鼻息、荷を締め直す低い掛け声――そのどれもが抑えられている。戦の気配はもうない。ただ、白朔嶺を越え、塞北を抜け、許安へ至る長い帰路に備えるための規律だけが、兵の動きに残っていた。
出立の直前、雨昕は黎景に呼び止められた。
師の元へ小走りで駆け寄ると、黎景は有無を言わせず雨昕の頬に布を押し当てた。
痛みと共に、薬草を煮詰めた刺激臭が、途端に鼻を突く。
「うわ!くさっ!」
「そうだね。だけど貴女なら、それくらい耐えられるだろう?」
笑顔を浮かべた黎景は、けれどいつもより僅かに声が低い。目の下には青黒い隈が落ちている。ほとんど眠っていないのだろう。
その所為か、黎景の視線は雨昕の顔――正確には、左右の頬を丹念に確かめるように動いた。
布を当てた頬と反対側の切り傷は、すでに瘡蓋が出来ている。下手に触らなければ、痕にはならなさそうだ。
腫れた頬を覆う布は、暫くすれば痣を引かせてくれるだろう。
雨昕は顔をしかめ嫌がりながらも、それを取り払おうとも視線から逃げようともせず、ただ文句を垂れた。
「思遠様、これ、わざと臭い薬使いましたね?」
「おや。よく効く薬しか使ってないのに、酷い言い草だ」
そのやり取りを、文霽は少し離れたところから見ていた。
雨昕の口調は荒い。けれど距離は近く、言葉の端々にほんの僅かながら甘えが混じっている。多分、その甘えに気付いたのは文霽と――当の黎景くらいだろう。恐らくは雨昕本人すら、気付いてはいまい。
ただの会話でも、二人は生き生きとして見えた。互いの存在を前提として、遠慮なく振る舞っているのが分かる。
――雨昕の世界には、文霽しか居なかったはずなのに。
玄欒や黎景と面識がある事は知っている。それでも、ここまで親しかったとは聞いていなかった。
昨夜の玄欒もそうだ。礼を欠いた態度を見せても、咎める事はなかった。
離れていた時間を思えば、それは仕方のない事なのだろう。そう理解しようとする程、文霽の胸の奥が、ちくりと小さく痛んだ。
やがて雨昕は、その場から逃げるように踵を返し、真っ直ぐに文霽のもとへと駆け寄ってきた。
彼女が選ぶのは、いつだって文霽だ。それが当たり前なのだと言わんばかりの、迷いのない笑顔を浮かべている。
雨昕は文霽の身体に手を回し、その細腕で軽々と抱き上げた。その動作に、躊躇いは一切ない。
文霽が何か言うよりも早く、雨昕は輿へと向かって歩き出していた。そして、ゆっくりと文霽を座らせる。
そこへ再び黎景が現れ、今度は雨昕の肩を掴んだ。
「貴女もだ」
「……私は歩けますよ?」
「殿の命令でね。よく休むように、との事だ」
言い返す隙もなく、文霽の隣に輿へ押し込まれる雨昕。玄欒の命が下っている以上、逆らう事は出来ない。
雨昕は、肩が触れ合う事で文霽に窮屈な思いをさせていないか気にしたが、文霽は首を振った。むしろ窮屈なのは雨昕だろうと、文霽は腕を伸ばし、その頭をそっと抱き寄せる。
思いがけない行動に、雨昕の身体が一瞬強張る。
硬直した雨昕を文霽に任せ、黎景は簾を降ろした。
「塞北に続けて、白朔嶺踏破の先駆けも、貴女の功だからね。今回は誰がどう見ても、働きすぎだ」
その言葉を残して、黎景は持ち場へ戻っていったようだ。残された言葉に、文霽は雨昕を抱く腕に、思わず力を込めた。
雨昕は、たった一人で宋武筮に立ち向かった。
けれど、そこに至るまでに――一体、どれほどの無茶を重ねてきたのだろう。
文霽の腕の中で、雨昕は落ち着かない様子で身を縮め、頬を覆う布を指先で掻く。
「思遠様も、玄欒様も……子供扱いしないって言ってたくせに……」
「……」
「やっぱりこの薬、くさすぎ……」
ぶつくさと文句を並べ、腫れた頬をさらに膨らませる。
文霽は何も言わず、それを聞いていた。止める必要も、咎める必要もない。
――あの頃と同じだ。二人きりでいる時は、お互いに立場は関係ない。それが二人の日常なのだから。
やがて、雨昕の声が途切れる。
顔を覗き込むと、既に眠りに落ちていた。
安心しきった寝顔は、普段よりもさらに幼い。呼吸は深く、輿の揺れに合わせて睫毛がわずかに揺れるが、瞼が開く気配はない。文霽はそっと、乱れた白い前髪を直した。
簾の隙間から、遠ざかっていく朔原をぼんやりと見つめる。
胸の奥に浮かび上がる感情を、今はただ、真正面から見ないように。腕の中で眠る白い少女を、静かに抱き締める。
数日の行軍を経て許安に着くや否や、雨昕は玄欒から呼び出された。
今になって思えば、寒戎に雨昕単身で乗り込んだ事を咎められる可能性が高い。少なくとも黎景からは、帰宅後に散々詰められた。これ以上はあまり言われたくないのが雨昕の本音だった。
とはいえ、信賞必罰の玄欒の事だ、功績も考慮して小言で帳消しにしてくれるかもしれない。あまり気乗りはしないが、太守の呼び出しに応じない訳にもいかず、雨昕は太守府を訪れた。
通されたのは、飾り気のない――玄欒の執務室だった。
卓の上には書簡が整然と積まれており、戦後処理の最中であることが一目で分かる。
玄欒はその向こうに腰を下ろし、雨昕を一瞥すると、前置きもなく言った。
「此度の戦、並びに白朔嶺踏破は、お前なしには成し得なかったであろう。褒美は何を望む」
「……褒美」
小言を覚悟していた雨昕は思わず聞き返す。けれど玄欒はいつもより淡々とした口調と眉一つ動かさず、雨昕を見据えた。
玄欒には悠長に話す時間はないだろう。早く答えねば、と思いながら雨昕は口を開く。
「文霽が、安全に過ごせる住まいを。あと、信頼できる侍女を付けてください」
「それは、初めから用意している」
雨昕の願いに、玄欒も即答だった。
雨昕の願いを最初から分かっていたのだろう。その上で、今回の褒美を取らせるということだった。
玄欒はじっと雨昕を見つめ、少し剣呑とした空気を含んだ口調で問う。
「今後も、文霽の面倒を見るつもりか」
「はい」
迷いはなかった。
彼女の父・文邕は、懇意であった玄欒の口添えもあって投獄される理由となった罪を取り下げる事は出来た。
けれど、遅かったのだ。文邕は謂れのない罪で酷い拷問を受けていた。折角解放されたというのに、その頃にはもう、あと幾ばくかの命という程の惨状であったという。
文邕が息を引き取った際、玄欒が彼の墓を設けた。暫くしてから、雨昕は玄欒に連れられ墓参りに訪れ、漸く文邕の死を知った。
玄欒や黎景に、もっと早く知らせてくれなかった理由を聞こうとして、口を噤んだ。恩人である文邕の前ですべき事ではない――知ったとて何も出来なかっただろうと、言葉を呑み込んだのだ。
当時の雨昕では、こんな立派な墓を建てる事は出来なかった。そもそも墓を建てるという考えすら出なかっただろう。雨昕が知っている弔いなど、野晒しか木札を突き刺すだけの簡素な物だけだったのだから。
その立派な墓を前に、雨昕は必ず文霽を助けると、その後も側で彼女を守り続けようと心に決めた。
だからこそ、文霽の隣が雨昕の居場所だと疑わない。
「官位があった方が良いとは、思わないのか」
「……それは、そうかもしれませんけど」
玄欒に限らず、何度も受けた話だった。
けれど雨昕は、首を振った。
「……文霽はいずれまた、お嫁に行きます」
「ほう」
「その時に、私も護衛として付いていければ、それでいいです。官位があると、かえって邪魔になります」
あまりにもあっさりした答えだった。
玄欒は、昔から変わらない雨昕の返答に頷いた。
これ以上言葉を重ねても、正攻法では返答は覆らない。かといって邪道ではいずれ出ていってしまう。それでは意味がないと玄欒は考えるからこそ、雨昕は自由を許されていた。
官位云々は、ただの覚悟の確認に過ぎなかった。彼女に少しでも揺らぎがあれば、玄欒でなくてもその隙をつこうとする者は出てくるのだ。
玄欒は卓の脇に置いてあった長い包みを取り、雨昕に向けてそれを差し出した。それは、今回の褒美として予め玄欒が用意した物だ。
雨昕はそれを受け取り、包みを解く。
そこには新しい棍が収められていた。白蝋棍だ。石突きに青銅製の装具が施されている。重さが明らかに増し、武器としての威力は目に見えて上がった代物だった。
「お前なら、扱えるだろう」
その棍は思いの外手に馴染み、思わず手の内で回転させると思い通りの軌道を描く。感心しながら顔を明るくした雨昕を見て、玄欒はそれ以上何も言わなかった。
雨昕も玄欒が仕事を再開したのを見て、部屋を後にする事にした。
太守府を出る手前、衡寂恒と衡迅燿が連れ立って歩いているのを見付けた。二人とも戦装束を解き、ようやく一息ついた様子だった。
雨昕は慌てて足を止め、深く頭を下げる。
「宋武筮殿の件、ご助力いただき、ありがとうございました」
「その礼は不要だ」
衡寂恒はそう言うが、あの時、衡寂恒が来なければ、雨昕は無事では済まなかった。大き過ぎる借りで、本来何か贈るべきなのだけれど。
「そもそも、お前が塞北を抜き、白朔嶺を踏破しなければ、今回の勝利は無い」
「でも……」
「それに」
そういった諸々を封じるように、衡寂恒は声をわずかに厳しくする。
「本来、あの場では俺を待つべきだった」
「うっ」
玄欒から言われなかった指摘をここでされ、思わず肩が跳ねた。完全に油断していた。
雨昕は肩を落とし、素直に謝罪を述べ頭を下げるが、まだ何か言いた気な衡寂恒の気配に身構える。
そんな雨昕に助け船を出したのは、衡迅燿だった。
「まあまあ。結果的に戦には勝って、羅雨昕も反省してることだし、そのくらいで」
「しかしだな……」
「ほら、羅雨昕!お前も腹減っただろ!俺の分まで働いてるんだ、奢ってやろう!」
衡迅燿はからからと笑い、雨昕の腕を引いて歩き出す。しかめっ面の衡寂恒と違い、よく笑い穏やかな性格の男で、雨昕にとっても話しやすい相手だった。
しかし、白朔嶺麓の森林の伏兵を一掃したのは、この人だと聞いた。この二人も、大概とんでもない傑物だ。
飯店に着いて卓を囲み、料理が並ぶ頃には、場の空気もすっかり和らいでいた。
雨昕の抱える棍が新しい物になっている事や、雨昕の傷についてと、殆どは雨昕の話だった。
小難しい話をしないのは衡迅燿の配慮だ。雨昕が政治に関わるつもりが無いのを知っているという事もある。けれど何より、衡家は玄家と遠縁筋で、些細な事でも玄欒の弱味になりかねない。ましてこんな大衆の集う場で、気軽に話せないのだ。
それにしたって、よく話題が尽きないと感心する。衡寂恒に至っては、ほぼ無言だ。たまに頷いてるだけで殆どは置物だった。
そんな中で、玄欒が雨昕に寄越した薬は衡家の秘蔵のものだったと知った。そんな貴重なものだったのかと驚いたが、衡迅燿曰く薬は使う為にあるのだから遠慮しなくて良いのだそうだ。そういう問題だろうかと雨昕は首を傾げた。
「怪我といえば、文令嬢はどうだ?」
「文霽、は……」
許安に着いて、雨昕が最初にしたのは、医官に文霽を診せる手配だった。
街に入るなり、埃も落とさぬまま玄欒の元へ向かい、回りくどい前置きもなく頼み込んだ。その必死さに、けれど見越していた玄欒はすぐに承諾した。
評判の医官は慎重だった。文霽の足を診て、歩き方を確かめ、過去の経緯を聞き取ったうえで、結論を告げる。
一人で歩けるようにはなるだろう。――だが、それには長い時間が必要だ。焦ってはいけない、と。
その言葉を、雨昕は一言も遮らずに聞いていた。
「そうかぁ……。それなら、あれだな」
衡迅燿が杯を傾けながら、それ以上は触れなかった。
そして何気ない調子で続ける。
「お前さんにも、山ほど縁談が来るだろう。どうするんだ?」
雨昕は箸を止め、きょとんとした顔で首を傾げた。
「ええ……?無いですよ。私なんて、こんな傷だらけですし、器量も良くないし」
そう言って、指先で自分の鼻を擦る雨昕。その仕草に、照れも気後れもなかった。
本気で、そうだと思っているだけだ。
「文霽とは違いますし」
言葉は淡々としていた。卑屈さはなく、羨みもない。ただ事実を述べているだけだという顔をしている。
その様子に、衡寂恒は思わず眉を寄せる。衡迅燿も、噛みしめるように「黎景殿が気を揉む訳だ」と呟くが、雨昕はその言葉の意味を深く考えず、笑った。
「まあ、お前には愛嬌があるからな、心配するな」
衡迅燿はそう言って胸を張る。
「変な奴だったら、俺らが追い払ってやるからな」
豪快な笑顔に、雨昕もつられて笑った。
戦の後だというのに、このひとときは重さを忘れるような時間だった。
やがて雨昕は席を立ち、二人に改めて礼を言って頭を下げる。背筋を伸ばし、足取りも軽く、そのまま帰路についた。
彼女の背が見えなくなってから、振っていた手を下ろして衡迅燿はやれやれと大きく息を吐き、隣の衡寂恒を見る。その視線に、衡寂恒はなんだと問う。
「いやぁ……あれ、どうすんのかねぇ」
「……黎景殿が決めることだ」
衡迅燿は曖昧に笑うと、衡寂恒はそう言って切り捨てた。
「まあ、そりゃあ、そうだけどよ」
言い淀む衡迅燿は、玄欒に近しい立場だからこそ、考えてしまう。
羅雨昕という、苛烈で、無自覚で、誰かのために迷いなく身を投げ出す少女の――
その先に待つものを。
春菊をナムルにした。底の方しょっぱかった。




