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87.令奈さんと下校

こんばんわ。今日も読んでくれてありがとうございます。

 その声に、心臓が飛び出しそうなほどおどろいた。

 そして、冷や汗が出てきて、激しい後悔の念にさいなまれた。


 教室で女装するなんて、それも好きな令奈れいなさんの制服をつかって女装するなんて、だいそれたことしなければよかった。


 いつもみたいに、部屋でこっそり、楽しんでいればよかった。

 

 これで、女装していることを先生に言いつけられて、両親にも知られて、さらにはクラスメートに知られたらと思うと、想像するだけでもおぞましくて、胸が苦しくなった。

 もう学校へ行くことはできない。かといって、家にいても、両親の冷たい目線を浴びて生活することになる。

 とても、耐えられるものではない。

 

 どうしよう…。


 今すぐ窓から飛び降りて、なにもなかったことにしたい。


「ねえ、聞こえてるの? み、や、ま、君」


 問い詰めるような声に、私は振り返るべきかどうか、まよっていた。

 日没後の薄明だけが照らす薄暗い教室だ。

 全力で逃げれば、うやむやで済ませられるかもしれない。

 変質者が教室に侵入して、女子中学生の制服を着て逃げていった、と。


「な、なにを勘違いしているのかしら? 私は、深山くんじゃないわよ…」


 無理してソプラノボイスを出してみるけれど、うまくいかなくて、かすれてしまう。


「ほんとかな~、顔を見せてよ」


 私は振り返ることができず、固まっていた。

 令奈さんは、窓際に立って外を見つめていた私に近づいてきて、顔を覗き込んできた。


「ほら、やっぱり深山君だ」


 令奈さんの笑顔が目に飛び込んできて、私は気恥ずかしさと、女装を見られたうしろめたさで顔をそらす。


「だいじょうぶだよ、誰にも言わないから。早く脱ぎなよ。今なら私だけにしかみられてないからね」


 私は、動揺のあまり心ここにあらずの状態だったので、令奈の言う通りに、無言で従った。


「ありがと」


 令奈は制服を受け取ると、私に向かって、手の平を、あっち向いてというように振る。


「見ちゃだめだよ」


 私は自分の制服を手にとって、慌ててズボンをはく。


「もういいよ」


 しばらくして令奈の許可が出たので振り返ると、そこにはいつもの、ぼさぼさ頭で、どことなく冷たい瞳をした令奈がいた。

 

 つい、うっとりと見とれてしまう。クラスの男子や女子がこぞって、ばい菌扱いをするけれど、私はそんなことはまったく思わなかった。


 そして、むしろそのおしゃれに無頓着なところが、私の情欲を一層湧き上がらせた。

 夏空にむくむくと湧き上がる入道雲のように。


「深山君は、私のことが好きなんだね」


「えっ…」


令奈は、私の黒いズボンの、膨らんでいる部分を指さして笑っていた。


「あっ…、これは…」


 隠しようもない気持ちに、また恥ずかしくなってしまう。でも、収めようとしても、すぐには収まらないのがつらい。

 こんなもの、いらないって、こうなるたびに、幾度となく思った。


「さっきのこと、黙ってあげるからさ、ちょっと今から付き合ってくれる?」


 令奈はお願いしてくれるけれど、実質的に断ることができないのだった。だって、秘密を握られてしまったのだから。


 でも、たとえ私がその申し出を拒絶したとしても、令奈はきっと、だれにもそのことを言わないだろうと、不思議だけど、そう思えた。


 だって、このことは、私と令奈だけの、秘密なんだから。


 学校にあった公衆電話から、両親に、友達の家によるから少し遅くなることを伝える。

 幸い、あまり遅くならないようにという条件付きの下で、了承をしてもらえた。

 

「令奈は、家に連絡しなくてもいいの?」


 受話器を置きながら、私は令奈を振りかえる。

 あきらめたように、こくりと頷く令奈の横顔が、窓から差し込む夕日に照らされていた。


「家族は心配しないの?」


「お父さんも、お母さんも、いないから…」


 消え入りそうな令奈の声に、私はなんだか申し訳ない気持ちになる。

 お父さんも、お母さんもいないのなら、令奈はどうやって暮らしているんだろう。


 クラスメートで毎日一緒にいたのに、私は令奈のことをなにも知らないのだった。


 それ以上聞くことはやめて、私は令奈のあとを黙ってついていく。

 クラスメートに恋人同士だと冷やかされないように、すこし離れて歩いていた。




「あ、令奈菌がうつる~」


 令奈の前に現れたクラスメートの男子が、そう叫んで飛びのく。

 でも、令奈のぼさぼさ頭は微動だにせず、なんの反応もしないで、うつむき加減で、歩き続けていた。

 

 いつもの日常だった。


「くっさ~、近寄ってくんな」


「おえ~、気持ち悪い~」


 男子たちは、寄ってたかって令奈をばい菌扱いにしていた。

 見た目こそ、おしゃれに無頓着で、髪はぼさぼさ、服はしわくちゃだけれど、令奈は不潔ということはない。


 それにしても、社会人には許されないことが、どうして学校という閉鎖的な空間では、平然と行われるのだろうか。


 電車の中で、見知らぬ人を指さして「あなたは、ばい菌ですね」なんて言ったら、とんでもないトラブルになるだろうに。


 でも、学校という空間では、なぜか、精神未発達な子供のいたずら、で済まされてしまうのだ。

 

 精神未発達はわからなくもないけれど、それなら、いじめられた方も痛みにも、目を向けてほしいと思う。


 でも、この学校の先生たちには、それは難しいだろうと思った。


 今の私、37歳のひきこもりの私からでさえ、先生たちも、子供に見えたから。


 学校で暮らしていると、自然にそうなってしまうのかもしれない。


 37歳まで生きてみると、この学校という空間が、とても非常識なものに思えていた。

 

 当時は、なんの疑問も抱かなかったのに。




 校門を出て、令奈に案内されるように、いつも帰るのとは別の道を進んでいく。

 ここまで来ると、人気もまばらになる。


 私はそっと足を早めて、令奈の隣に立つ。


「あれ、いいの? 誰かに見られたら、深山くんも、ばい菌あつかいだよ」


 令奈は振り返ると、私をみて、いたずらっぽく笑う。

 夕日に照らされた髪は茶色く輝いて、女の子らしく、ぷくりと膨らんだ頬は愛らしかった。

 その笑顔を見ているだけで、思わず、胸がキュンとなる。


 私には、天使にしか見えなかった。


 クラスメートも、先生も知らない、私だけが知っている、令奈の本当の姿がそこにあった。


「いいんだ。令奈さんのばい菌なら、むしろ欲しい」


 私が真顔で言うと、令奈は噴き出した。


「なにそれ、マジきもいんだけど!」


 さいわい令奈は口を押えて笑ってくれたけれど、今の発言はまずかったと思った。


 37歳のおっさんの変態性欲が丸出しだ。

 

 中学生の私の口から、「ばい菌をむしろ欲しい」などという言葉は、きっと出てこないだろう。


 これは、私が中学校の頃の、深山真理だったころの、淡い記憶が見せている夢なのだから。


 この光景は、アンドロイドのマリの体で、私が見ている夢だ。


 だけど、普通に見る夢とは違って、その光景は細部まで鮮やかで、まるで時間をさかのぼって、あの時の戻ってきたような感覚だった。

 

 そう、例えるなら、流される映画を見ているのではなく、今まさに、自分がその世界で生きていて、考えながら行動している、そんな感覚だった。


(つづく)

次回、第87話「令奈さんの秘密基地」は、7月10日(金)午後6時更新予定です。

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ありがとうございます。

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