ティオルド
自分の銀色の髪が嫌いだ。母と同じ、温かみのあるハニーブロンドの髪が良かった。自分のアイスブルーの瞳が嫌いだ。母と同じ、優しい若草色の瞳が良かった。視線を向けただけで睨んでいると勘違いされる、切れ長でつり目なのも嫌だ。母のように丸みのある目尻の下がった険のない目が良かった。母に似たところが少しもない自分が一体誰に似ているのか、そんなことは頭の中では解っていた。でも、現実に自分によく似た男を目の当たりにして、それが自分の父親だとは思いたくはなかった。可能性の欠片でさえも考えたくなかった。
だってその男は、母を処刑台に送った男だったのだ。
何の感情も抱いた様子もなく、ただ当たり前の仕事をこなすように、その男は母を処刑台に送ったらしい。知らないうちにテロリストに瘴気結晶を埋め込まれ瘴気爆弾とされてしまった母を、何の罪もない母を、瘴気結晶を取り出すことができないからと、体内に埋め込まれたまま浄化はできないからと、いつ暴発するか解らない瘴気爆弾を放置しておくことはできないという理由で浄化の炎と呼ばれる最上位の浄化魔法を使用した火刑に処されることが決まった母を、その男は一欠片の同情も憐れみも見せることなく刑場に送ったらしい。そのことに心を痛めていた今代の聖女には心配の目を向けて、役割として火刑終了後の祈りと最後の浄化を行うために刑に立ち会わなければいけない聖女には心を砕いて寄り添って。聖女を苦しめるその現状には憤って、母には目をくべることすらなかったらしい。
あそこに至るまでの男の所業は直接見聞きしたわけではないのでどこまでが本当かは解らない。だけど、母の火刑が上手くいかず、母の身体を何かが乗っ取り、死んだと思われていたテロリストと共に姿を消した後のあの男の姿は知っている。落ち込み心を痛めた聖女に寄り添い慰め励ます姿も見たし、一方で、テロリスト達が残した不穏な言葉に憤り、被害者でしかないはずの母のことも元から共謀者だったのではないかと疑い罵る姿も見た。そして、いくら母に似たところのない自分が嫌で少しでも印象を変えようと眼鏡等でごまかしているとはいえ、自分を見ても何の反応を示さず、ぽそりと吐き捨てるように「魔法契約がなされていなければ、反逆者の子供など見せしめにしてやったのに」と酷く冷酷な声で通り過ぎさまに告げて去って行った。あんな男が自分の父親であって欲しくないと思うのは当たり前ではないだろうか。
母は自分を身籠もった状態で辺境の村に捨てられた。それは本当に、文字通り捨てるといった状態だったという。
辺境の村の、村はずれの、瘴気汚染の影響で作物があまり育たなくなり住んでいた家族が出て行って空き家になって久しい、かつては小さな農園だった場所に、ある日、あからさまに訳ありな馬車がやってきて、中から騎士か兵士かという様な風貌の屈強な男が母を引き摺り下ろしながら出てきて、家の前に母と鞄一つを投げ捨てて去って行ったそうだ。
母は綺麗な人だった。所作も美しく、きっと生まれは裕福な家のお嬢様だったのだろうと言われていた。裕福な平民が、娘に礼儀作法や教養を身につけさせて、貴族の家に奉公に出すことはよくあることで、上位の貴族であれば下働きのメイドでさえ身元のしっかりした教養のある者が求められるという。上位の貴族の家で働いていたとなれば、箔がつき、例え平民の下働きであったとしても、下級貴族と縁を結べる可能性もあれば、同じ平民でもより良い縁談を結ぶことができる可能性が上がるため、特に見目が整った娘であるならばなおさら奉公に出す家は多いらしい。きっと、母もその口でどこかの貴族の家に奉公に出され、運が悪いことにその見目の美しさから、旦那様か子息のお手つきにでもあい、都合が悪くなって捨てられたのだろう。それが、村の者達の見立てで、村の者達は皆母に同情的だった。
村に捨てられたときの母は、大きな怪我こそないものの痩せ細ってボロボロで、生気のない目をしていたそうで、それも村の者達の憐憫を誘ったらしい。
母は昔を語らなかった。ただそれでも、自分は望まれて生まれてきたわけではないことだけは解っていた。村の者達から聞かされる憶測からそう思ったんじゃない。成長するにつれ、母が自分に向ける目の中に怯えを見てしまうことが増えたから。面と向かって話しているときは良くても、母が何かをしているときに不用意に近づいてしまったときや、母が自分を認識していないときに母の視界に入ってしまったときなど、驚くよりも強く、母は怯える。母は、取り繕ってビックリしたといつも言うが、母が驚愕で固まったのではなく、恐怖で身を固めているのに気がつかないほど、自分は鈍感ではなかった。だから、母はきっと、自分の姿に似た相手に酷いことをされたんだろうなと思った。視界の端に映るだけで身体が反応してしまうほど、恐ろしい目に遭わされたんだなと思った。だから、自分は望まれて生まれてきたわけではないのだと、どれだけ母が愛情を込めて接して育ててくれていても、母にとって自分の存在は悪い者であると、ちゃんと理解していた。
だから、少しでも印象を変えたかった。髪は魔力を宿すから、魔力が強い人間は髪を伸ばすのが常識だと解っていても、髪を短く刈った。きっと自分の父親は魔力が強く、髪を長く伸ばしているのだろうと思ったから。少しでも目元が柔らかく見えるように丸眼鏡をかけ、冷たい色の瞳をごまかすように薄く色のついたガラスを枠の中に嵌めていた。よく笑うように心がけ、楽しい話がたくさんできるように頑張った。自分なんて母の傍にいない方が良いんじゃないかなんて思ったこともあったけれど、七歳の魔力測定の儀の際、膨大な魔力量を認められ、王都に連れて行かれそうになったとき、母は必死に抵抗して自分を役人に渡さなかった。いくら将来性を買って貴族が後ろ盾になるといっても、実際に成果を出せなかったら、平民の子供など簡単に切り捨てられてしまう。その際に、村に戻ってこれるなら良い。でも、使えない者に対してわざわざ旅費を払って故郷に帰してやるなんてことするはずがない。魔力量があるだけで全く扱うことができない今王都へ行っても、平民のくせに高位貴族並の魔力量があるということで反感を買い、差別を受け潰されて終わりだ。辛い思いをするだけだと解っているところに、送り出すことなんてできない。それでも連れて行くというなら、この子の安全を守るための魔法契約書の作成と締結が絶対だ。それがないなら絶対に王都になんて行かせないと譲らず、ある一定以上の魔力持ちが通学を義務づけられている十三歳になったら絶対に王立魔術学園へ送り出すようにとだけ言われるに留めて追い返してしまった。そんな母の姿を見て、自分は母に大切にされているのだと思った。望んで生まれてきた子供でなくても、自分が不幸になることを母は望んでいないのだと思った。だからちゃんと自立したいと思った。義務である王立学園での勉強を頑張って、優秀な成績を修め、安定した職業に就く。そして、母から離れたところで生活し、遠くから母を支えていきたい。そう思っていた。
自分の親は母だけで、親族は母だけで。父親も、祖父母もなにもいない。存在していたとしても、きっと碌な人間ではない。期待してはいけない。これから先、血縁を名乗る人間が現れたとしても、自分は母だけを親と思い生きていく。そう思っていた。父親の存在なんていらないと思っていたし、憎々しくも思っていた。だけど、今まではただ、嫌な感じのする他人という認識でしかなかった、自分と全く関わりのない者、存在しない者。興味も関心も何もなく、ただ母の過去に影を落とす、言うならば壁にこびりついた染みのような存在としか思っていなかった。それが、実際に自分の父親と思われる人物を目の当たりにして、憎悪のような感情に昇格された。あれが父親だとしたら、嫌悪感しかなく、拒否感しかなく、存在を否定したい。
ふと気付くと、寮の自室の机の上に見覚えのない箱が置いてあった。
その箱には魔力の残滓があり、その痕跡から、条件を満たすと認識ができるようになる、ないしは条件を満たした者の近くに出現する系統の魔術が施されていたことがわかった。多分後者だろう。前者だった場合、こんな机のど真ん中に置かれているわけがない。認識できなくても存在がなくなるわけではないので、こんな所にあったら勉強の邪魔でしかなく、邪魔な物があると認識できなくても自室で勉強しなくなっていたはずだが、自分はちゃんと机に向かって毎晩予習復習をしていたからだ。
箱に残された魔力の痕跡から、多分、これは母からの物だろうと思った。人の持つ魔力は、一人一人違う特徴を持っており、魔術を使用した際に残る痕跡を調べれば誰の魔力でその魔術が使用されたか特定することができる。それを調べるための機器も存在するが、そんな者を使わなくても、魔力を感知できる者であれば身近な人間の魔力というものを自然と覚えてしまうもので、身近な人間が使った魔術であればその痕跡から術者か誰か解ってしまうものなのだ。ただ、魔力を魔石に溜めておいて、それを使用して魔術を発動させるという方法もあるため、魔力痕から特定された人物が必ずしも魔術を使用した人物とは限らず、機器を使えば溜めた魔力を使ったのか直接魔術が使われたのかの判定はできても、人の感覚でその差を認識することはできないに等しいので、多分としか言えない。しかし、わざわざ母の魔力を使用し、このような高度な魔術を使って自分に何かを残す人物など心当たりはないので、母からのもので間違いないだろう。
そう。母は高度な魔術を使用することができる希少な魔術師だった。王都に来て、学園にくるまでは母が気軽に使っていた魔術がどのようなものか解っていなかったが、勉強してみて初めて、それが恐ろしく高度な魔術だったということを理解した。そもそも、入学前に母に基礎だと教わった内容が、学園卒業レベルだと誰が思うだろうか。実際に通学義務期間の勉強は基礎学習だそうなので、母が嘘を吐いたとは言わないが、入学前に覚えておいた方が良い程度の基礎知識だと思っていた自分には驚愕の事実だった。正直、学園の教師陣より母の方が凄いと思う。だから、仕官していたら絶対に母は上位の王宮魔術師になれるだけの実力があったと思う。それなのに、母は自分を孕んで辺境に捨てられた。自分が七歳の時にあれだけ必死になって王都へ行かせないと言ったのは、きっと、母自身の経験からくるものだったのだろうと今なら解る。母が難易度の高い高度な魔術を使用できることを理解したとき、きっと母も義務としてこの学園に通っていたのだろうと、学園の中に母の痕跡を探してみたことがあった。でも、母の年代の卒業者名簿には母の名はなく、母と思われる人物が学園に存在していた形跡は確認できなかった。きっと、母はその優秀さから貴族の反感を買い、差別から正当な評価を受けることかできず潰されてしまい、卒業資格を得ることができないまま学園を去ることとなり、仕官の道も閉ざされてしまったのだろう。母の実力でこの学園を卒業していれば、確実に王宮勤めになっていたはずなのに、そうなっていないとうのはそういうことなのだ。そして、仕官の道が閉ざされてしまった結果、どこかの貴族の家に奉公に入り、そこで酷い目に遭わされて、辺境に捨てられた。そして最後は罪も犯していないのに捕らえられ、処刑されることとなり、テロリストの仲間に身体を乗っ取られたことで、死後も一部の者達から反逆者の烙印を押され、名誉を傷つけられ続けている。母がどんな人生を歩んできたかは知らないが、想像するとなんとも過酷で、どうして母がそんな目に遭わなくてはいけなかったのか、死後も貶められなければいけないのか、悲しみと怒りと無力感が自分を支配して、なんとも虚しい気持ちになった。
母がこの国の王と貴族院、軍、教会という国の決定権を持つ権力者と交わしていた魔法契約書の内容を、処刑場での混乱が落ち着いた後に呼び出しを受けて説明された。契約では、母が火刑を受け入れ命を差し出す代わりに、息子の安全と自由を約束されていた。自分は、平民でありながら、王侯貴族の命令を断る権利を持ち、希望する職業に就くに値する能力が認められればどのような職業でも希望するままに就くことができる。そして、契約を交わした権力者達およびその他の王侯貴族は自分の生命や生活を守る義務を負い、自分に不正を働くことも、人を通じてでも命を脅かすような行動をとることもできなくなったし、その者達以外から自分が害された場合でも契約書に名を連ねる者達及び、その席を継いだものが契約違反の罰則を受けることとなっていた。しかもその罰則は過激で、自分が受けた被害がそのまま罰則を受ける対象者に降りかかるというもの。自分が殺害されれば対象者も死ぬし、運良く生き延びても後遺症が残れば同じような状態になった挙げ句自分の生活を守る義務も継続し、国が自分の生活の世話をしなければならなくなる。これでは誰もこの国では自分に手を出すことはできないだろう。契約内容を見るに、よほど母はこの国の権力者というものを信用していなかったのだろうと思う。母はきっと、母が死んだ後の自分のことを心配して、七歳の時に自分を王都に行かせなかったときのように、国の重鎮達相手に必死にごねたのだろう。そして、国ははなから守るるつもりはなかったから、あんなに自分に都合がよく、国にとっては脅威となりかねないような内容で魔法契約書を交わしたのだろう。母の火刑が行われたあの日、関係者以外立ち入り禁止のあの処刑場に自分が迷い込んでしまったのは、きっと、侵入者排除のための名目で殺害するために誘導されたのだろうから、母の懸念は考えすぎではなかったはずだ。母が死んでしまえば契約が成立してしまい手が出せなくなるから、その前に表向き正当な理由を用意して始末しようとしたのだろう。そして、あの男が最後に呟いたのは、多分、上手くいかなかった腹いせに自分を殺そうとしたが、魔法契約書の効力が発揮され自分を害することができず、苛ついて口に出してしまったのだろう。つまり、母は契約の通りに死亡していると証明されているのだ。だから、母の身体を動かしている者は、正真正銘母ではない何かなのだ。もう、母が戻ってくることはない。
そんな母からの、きっと最後の贈り物。箱の中に何が入っているのか、開けるのが怖い気もする。だけど、これが今ここに在るのは、この箱を手にする条件を自分が満たしていると言うこと。きっと、自分はこの箱の中を見なくてはいけない。そう思う。
心を決して、箱を開ける。
そこには手紙が入っていた。
親愛なる息子 ティオルドへ と始まる手紙。手紙の最初には、普段の手紙のやりとりのように、元気にしているかだとかなんだとか書いてあって。ただいつ手元に届くかは解らなかったからだろう、季節を感じさせることや年を感じさせる内容がぽっかり抜けただけの、いつも通りの出だしの手紙だった。あまりにもいつも通り過ぎで、これが母からの最後の手紙だと思うと何かこみ上げてくるものがあって、本題に入る前に、泣いてしまいそうになった。
これを読んでいるということは、わたしに何かがあって貴方に直接伝えることができなくなってしまっているか、貴方が自分の父親について知りたいと願ったか、貴方の出自に気がついた何者かの接触を受けたかのどれかなのでしょう。本当は、貴方が王都に向かう前に伝えておくべきだとは思いましたが、わたしに勇気が足りないばかりに、話さないまま見送ることとなってしまいごめんなさい。貴方は父親似なので、王都に行けば貴方の出自に気付く人がいるだろうと思います。気付いた誰かが話を大きくすれば、きっと貴方の周りは騒がしくなることでしょう。それに対処するためにも、貴方は貴方に出自を正確に知っておく必要があります。ここにはそれを記してあります。必要がないと感じたならば、必要となったときに確かめてください。
続きを読んでいるということは、貴方は自分の出自を知る心づもりができているということですね。
まずはじめに、わたしの出生から説明しましょう。
わたしの生まれは、近年功績が認められ男爵位を賜った元商家のノーウッド家で、わたしは出生時に男爵令嬢としてこの国に届けが出されました。しかし、わたしには男爵家の血は流れていません。というのも、母に横恋慕していた母の従兄であるファーラント伯爵家の子息が母に暴行を働き、その結果生まれたのがわたしなのです。そのため、名目上は男爵令嬢となっていましたが、ノーウッド男爵家にいた頃は、わたしは両親に娘とは認められておらず、かといって血筋的に放逐することもできず、離れで隔離され生活をしていました。
わたしの母の出身は子爵家ですが、わたしの祖母は建国の時より名を連ねる歴史ある伯爵家の出で、祖母の母、つまり私の曾祖母は王家から降嫁された当時の王女殿下というたいそうな血筋であり、生まれた子爵家自体、祖母の生家の分家であり伯爵家の正当な血筋を継いでいる家のため、母は低位貴族でありながら何の軋轢もなく高位貴族にも、本家と養子縁組すれば王家にも嫁げるような身分の人でした。そして母と同じく王族の祖母を持ち、建国時から続く由緒ある伯爵家の直系子息が実の父であるわたしは、血筋だけ見れば高位貴族に分類され、それにふさわしいだけの魔力量を保持していました。七歳の、魔力測定の儀で、王族に負けず劣らずの魔力量を測定されたわたしは、生家に居場所もなかったこともあり、その年で王立魔術学園の幼年部に入学し寮住まいを始めました。それ以降、生家であるノーウッド男爵家とは没交渉となっており、公爵家からの縁談が持ち上がった際に、実の父がいるファーラント伯爵家へ籍が移され、ノーウッド男爵家とは縁が切れております。また、貴方が生まれたときに確認したところ、ファーラント伯爵家からも籍が抜かれておりましたので、現在はそちらとも縁が切れております。なので、母方の実家はないものと思ってもらってかまいません。たぶん、わたし方面の血族は貴方の存在に気がついても知らんぷりを決め込むと思いますので、特に気にしなくても大丈夫でしょう。
次に、貴方の父親についてです。貴方の父親は、この国の筆頭公爵家であるサンジェスト公爵家の方で、わたしの婚約者だった、ファリアス様です。婚約当時、ファリアス様は筆頭公爵家の三男という立場でありながら、素行が悪く色々問題を起こしており、王族にも喧嘩を売るような態度を続ける問題児で、様々な理由からお目付役としてわたしが婚約者としてあてがわれました。そして、公爵家の意向に従い、わたしはファリス様の傍にずっと侍っていました。ファリアス様は、女性関係でも色々問題を起こしており、それを起こさせないためという名目で公爵家からの命を受け、貴族令嬢としては致命的な醜聞となる婚前交渉を重ねておりました。サンジェスト公爵家から強い避妊薬を渡され、きつく避妊を命じられ服薬していたのですが、一度だけ服薬を忘れてしまい、その結果、貴方を身籠もることになりました。貴方を身籠もってすぐ、わたしも妊娠を知る前に、婚約は破棄され今の家に連れて行かれ、それ以降公爵家から誰か様子を見に来たというようなこともありませんので、貴方の存在は公爵家に知られていないと思います。平民の出生は届けを出した教会で管理されるもので、王宮にはその年に生まれた人数が報告されるだけで個人の情報は伝わらないので、わたしが妊娠していたことすら知らないあの方達は貴方の存在に気付く事はなかったはずです。きっと、わたしのこともとっくに死んでいるのだと思われて忘れられていることでしょう。わたしとの婚約が破棄された後、ファリアス様は神託の聖女様と婚約されたと伺っています。サンジェスト公爵家にとってわたしのことも貴方のことも存在しない者としたいはずだと思います。
なので、ファリアス様もサンジェスト公爵家も貴方の出自は否定するでしょうが、彼の家は貴方に価値があると判断すれば取り込もうとしてくるかもしれません。ですが、彼の家に目を付けられたら、奴隷のように扱われる事が目に見えています。どんなに人の良いような顔をして近づいてきても、魅力的な提案をされたとしても、サンジェスト公爵家の手だけは取ってはいけません。もし、サンジェスト公爵家から接触があった場合は、王家に交渉を持ちかけなさい。貴方は、曾祖母に王族を持ち血筋だけは恐ろしく良い母と、王位継承権を持っている準王族である父を持つ身です。貴族法上、両親共に血統が貴族でも、父親が認知していない、未婚の母親から生まれた貴方は平民という扱いになりますが、貴方が王家の血統であることを証明することはできます。というのも、王家にはその血統を護るために王家の血が流れていることを証明するための魔法具が存在しているのです。貴方は十分王位継承権を得ることができる基準を満たした血を持っているため、それを証明できれば、王家は貴方を保護するでしょう。そして貴方が王位継承権を放棄する事を明言し、制約を交わせば、悪いようには扱わないはずです。平民という立場ではどうにもならないことが起きた場合は、王城へ向かいなさい。この手紙を読み終えた後、この手紙が入っていた箱を確認すると、書状が入っています。城門でその書状を提示すれば、血の証明を受けられるはずです。
ここまでこの手紙を読んでいるということは、貴方の傍にわたしはいないのでしょう。傍にいて、助けになってあげられなくてごめんなさい。貴方自身にはどうすることもできない出自のことで苦労をかけさせてしまってごめんなさい。それでも母は、貴方の幸せを願っています。どうか、貴方の身に降りかかる厄災から貴方が護られますように。切に、切に願います。もし、逃げることができるのなら、貴方が幸せになれる場所に、どこまででも逃げて欲しいと願います。本当なら、貴方を連れてこの国を出られていたら良かったのでしょうね。ですが、王家の血の証明を受け、王家の血を濃く継いでいることが証明されてしまうと、王の許可なく国境を越えることができなくなるのです。わたしは、婚約を結ぶ前に血の証明をしています。わたしはこの国を離れることができないのです。だから、もし国を捨てる選択ができるのであれば、王家の保護は求めず、ただひたすらに違う国へと逃げて欲しいとも思います。きっと、それはそれでこの国で暮らすのとは違う苦労をすることでしょう。身元がはっきりしない移民を快く受け入れてくれる国はほぼありません。身一つで逃げろというのは、死ねと言っているのと同じ事なのかもしれません。それでも、国の外の方が希望があるのではないかと、母は思ってしまうのです。どうするかは貴方の判断に任せます。ただ、どうか、健やかに。貴方の未来が明るいことを願います。
母からの手紙を読んで、なんとも表現できない感情がぐるぐると腹の底に渦巻いて、言葉にならない何かが、明確な名前を付けられない澱んで濁った何かが、腹の底から湧き上がってくるような感じがして、気がつけばポタポタと涙がこぼれていた。
母が過去を口にしなかったのは、きっと母の中で過去が過ぎ去った遠いものにできていなかったからだろう。できるだけ感情を抑えて書こうとしたと解るこの手紙でさえも、母の痛みがにじんで伝わってくるくらいなのだから。きっと母の中で、王都で暮らしていた頃のことは、ぐじぐじと痛んで、腐って、ドロドロに溶けてこびりついて、口に出してしまえばそういう汚れた醜いものが全て、口をつたって出てきてしまいそうなほど、吐き出してしまいそうなほど母の中に溢れかえっていて。きっと母は、それを外に出さないように抑えておくことでいっぱいいっぱいだったんだと思う。
吐き出してしまえば良かったのに。吐き出してくれれば良かったのに。そうしたら、一緒に怒って、一緒に泣いて、そして・・・。
自分の顔を見るのは辛いんじゃないか、離れていた方が良いんじゃないかなんて思って、長期休み期間にも家に帰らなかった。過去に触れられたくないんだと思って、父のことも母自身のことも聞かなかった。なんで自分に怯えるのか問うことすらなかった。地方から来ている学生向けに、希望者を纏めて送迎する馬車が用意されているのだから、金銭の負担なく帰省することはできたのだから、帰省すればよかった。もっと話をすれば良かった。母がため込んでいるものを吐き出させてあげられたらよかった。話を聞いて、自分は母の味方だって、何かあったら絶対に護るからって、言えれば良かった・・・。どれだけ後悔してももう、母は戻らない。母は死んで、そしてその身体はもう、得体の知れない何かのものになった。母の身体に入った何かは母の身体を使い捨てると言っていた。母はまた、死んだ後もまだ、物のように軽く扱われるのか?そんなことは許されるのか?あぁ、母の身体を取り戻さないと。取り戻して、そして、ちゃんと・・・。
母の身体を捜すことにした。
母が王家の血の証明をしたことでこの国を出られないというのなら、母の身体を使っている何かもこの国から出られないのだろう。それならば、探せないことはないはずだ。母の残した契約で、この国は俺が就きたい職業に就けるための勉学の機会与える義務を負っている。つまり、普通の平民なら知ることができない情報を得ることもできれば、学者になる勉強がしたいとでも言って、実地研究の名目で捜索に必要な物資を提供させることも可能というわけだ。利用できる物はとことん利用してやる。そして、母の身体を取り戻したら、その後は。この国から出よう。母には悪いけど、母の血に国境の結界が反応するのなら、骨にして持ち出せば国境を越えることができるだろう。国境を越えて、この国の人間が誰も来ないような遠く離れた場所の眺めが良い綺麗な場所に、母の墓を建てる。それを目標に、動くことを決意した。




