第一章七 束の間の
父と母を失った悲しみと恐怖に追われ、私たちは森の中を、ただひたすらに走った。
白華は興華の手を握り、私は姉の背中を追いかけた。
木々が視界を塞ぎ、倒れた木の根が足元を絡め取る。
それでも、私たちは止まらなかった。
背後からは、村の男たちの叫び声と、剣戟の音が絶え間なく響いていた。
それが次第に遠ざかるにつれ、代わりに私たちの息遣いだけが森にこだました。
恐怖と疲労に支配されながらも、誰も言葉を発さなかった。言葉を発した瞬間、心が壊れてしまいそうだったからだ。
どれほど走っただろうか。
日が完全に落ち、森の中は深い闇に包まれていた。
満月が木々の隙間から光を落とし、朧げな白い道を描き出す。
私たちがたどり着いたのは、深い谷を流れる川のほとりだった。
川面は月光を受け、銀のようにきらめいていた。
その光を見た瞬間、私たちはついに足を止め、へたり込んだ。
胸の奥から安堵の吐息が漏れる。しかし、それはほんの一瞬だった。
全身の力が抜け、肩で息をしながら、私たちは土の上に座り込んだ。
鼓動は荒く、耳の奥で自分の心臓の音が響く。
冷たい汗が背中を伝い、手足は小刻みに震えている。
誰もが、どうにかしてパニックを押し殺そうとしていた。
白華は興華を強く抱きしめていた。
興華の小さな体は姉の腕の中で震え、涙で頬を濡らしていた。
私は、そんな二人の姿をただ見つめていた。
父と母を失った悲しみ。護ると誓った家族を守れなかった自分への悔しさ。
それらが渦を巻き、胸の奥で息が詰まる。
私はただ、この場所が安全であることを、祈るしかなかった。
どれほどの時間が過ぎたのだろう。
呼吸と鼓動がようやく落ち着いたころ、私は姉の白華に問いかけた。
「白華姉さん。昨日の夜、父と母と何を話していたの?
まさか父上は……こんなことになるって、分かっていたの?」
白華は、私と同じように息を整えながら、しばらく黙っていた。
そして、月光を見上げるようにして、静かに口を開いた。
「……父は、何かが起こると感じていたみたい。
母と私と話した後、ひとりで呟いていたのを聞いたの。
“盗賊に偽装した軍勢……?蒼龍国……?いや……まさか、昔の柏林国の……”。」
白華の声は、木々の間を抜けて、静かに夜気に溶けていった。
「……柏林国?」
私はその名に聞き覚えがあったが、具体的なことは思い出せなかった。
そんな私を見て、興華が小さな声で言った。
「……曹華姉さん。柏林国は、二十年ほど前に蒼龍国に攻め込まれて滅んだ国だよ。
父上が書物で教えてくれたじゃないか。」
弟の言葉に、私は顔が熱くなるのを感じた。
「……え?そうだったっけ?」
私の間の抜けた声に、白華がクスッと笑った。
それは、あの逃走の夜に初めて生まれた、小さな笑いだった。
「曹華は剣と槍ばかり振ってたものね。柏林国のことは、興華の言う通りよ。」
その言葉に、興華も少しだけ微笑んだ。
ほんのわずかの笑い声が、冷たい夜の森に、淡く溶けていく。
それは、血と煙に覆われた現実の中で、
確かに存在した、**束の間の“家族の時間”**だった。




