第六章 曹華伝二十 金城国への出立前
蒼龍国の軍都は、夏の陽光の下にざわめいていた。
泰延帝の宣言を受け、金城国への外征準備が本格的に始まったのだ。兵站、装備、兵士の移動――城下には荷馬車が列をなし、鍛冶場には火が絶えず灯り、親衛隊の詰め所でも慌ただしさが日増しに強まっていた。
親衛隊隊長の趙将と副隊長である私は、昼夜を問わず準備に追われていた。
金城国侵攻の随行隊員の選抜、留守を守る兵の配置換え、兵站線の確認。さらに私は天鳳将軍の付き人役として、作戦経路の調査や国境砦の現状報告、補給部隊の統括まで担うことになっていた。
そんな折、もう一人の副隊長――雷毅の存在が、大きく浮かび上がっていた。
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雷毅が正式に副隊長へ任じられたのは、春の恒例行事の直後のことだった。
前任の副隊長が老齢で引退を願い出、天鳳将軍が自ら労いの言葉をかけたと聞く。その後任に抜擢されたのが雷毅であった。推挙したのは趙将隊長であり、天鳳将軍もその才覚を買ってのことだった。
雷毅にとって、私――曹華は因縁深い存在である。
思えば、私が初めて模擬戦に臨んだ日、相手は雷毅だった。彼は「女だから」と私を侮り、油断し、そして完敗を喫した。
そのときの彼の悔しさは、今でも私の記憶に残っている。
歯を食いしばり、地面に叩きつけられた剣を睨みつける彼の顔。屈辱に震えながらも、すぐに立ち上がろうとする意志の強さ。あの日の敗北が、雷毅を変えたのだろう。
以後、彼は驚くほど真摯に稽古に励み、戦場でも冷静さと胆力を磨いていった。そして今や、私と肩を並べるほどの実力者となっていた。
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雷毅は、表面上は「良き戦友」として接してくる。
だが、ときおり視線が違う。
鋭さを帯びつつも、どこか温かい。私の一挙手一投足を観察するように、そして守るように。
最近になって、私はその視線に気づかぬふりをすることが難しくなってきた。
雷毅の眼差しが、単なる好敵手のそれではないことは明らかだった。
だが、どう受け止めればよいのか。私は未だに答えを見いだせないでいる。
戦友として、好敵手として、信頼する仲間として――その距離感のままでいたい気持ちと。
彼の真剣さを無視してしまうことへの、微かな罪悪感と。
外征前夜の慌ただしさの中で、雷毅の存在はふとした瞬間に胸をよぎり、私を戸惑わせた。
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親衛隊の中では、外征に随行する者と留守を任される者とで空気が分かれていた。
雷毅は留守居役を任じられた。趙将隊長の補佐として城を守る役目である。
「曹華。お前が出立する以上、ここは俺が守る」
雷毅の言葉は力強かった。その目はまっすぐで、嘘偽りのない決意が込められていた。
私は一瞬言葉に詰まり、すぐに笑みを作って返した。
「頼りにしているわ、雷毅」
その笑みが彼を喜ばせたのか、あるいは苦しませたのか――判断するのは難しかった。
だが、確かなことは一つ。
彼にとって私は、ただの副隊長でも、戦友でもないのだろう。
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日々の準備に追われながらも、私は天鳳将軍の存在を常に意識していた。
将軍は外征の指揮を執るため、麗月将軍と共に最前線に立つ。
私に課された役割は、その背中を守ること。
雷毅の視線に心を乱す自分を叱咤した。
今は迷う時ではない。
父の仇を討つために、妹を救うために、そして黒龍宗を討ち滅ぼすために――私の歩むべき道は一つなのだから。




