第五章 白華・興華伝三十三 雪嶺大将の決断
石造りの糾問所を支配していた重苦しい静寂が、雪嶺大将の吐き出す長く重い溜息によって、ようやく震え、霧散した。老将は分厚い胸板の前で腕を組み、煤けた天井を仰ぎ見た。その双眸には、自身の記憶と眼前の現実が激しく火花を散らす葛藤の色が、ありありと浮かんでいた。
「……まさか、真に柏林王族の血筋が、この北方の荒野を渡って来ようとはな……」
その声は、深山の洞穴から響く地鳴りのような重さを帯びていた。戦乱の世を駆け抜け、数多の滅亡と興亡をこの眼に焼き付けてきた雪嶺にとって、二十六年という歳月を隔てて死者が甦るに等しいこの現実は、武人としての常識を根底から覆す衝撃であった。しかし、老将の勘は告げていた。目の前の少女が纏う、氷原の如き静謐さと炎の如き情念の同居は、泥に塗れた流浪の民が演じられる類のものではない。
雪嶺は、射抜くような眼光を再び白華へと戻した。
「白華よ。そなたは先刻、次女の曹華が蒼龍国の天鳳将軍の手に堕ちたと断じたな。……確証はあるのか。数多の国境を越え、峻険なる山脈を隔てた彼の地の動向を、何故そこまで確信を持って語れる」
白華は一分の迷いも見せず、凛とした声音で応えた。
「玄翁老仙の秘術にございます。思念を糸口とし、万里の彼方に漂う縁を辿る方術……。思念の強さが、そのまま術の精度に直結すると伺いました。わたくしの身にその奥義は未だ備わっておりませぬが、玄翁様は、幽界の鏡を覗き込むが如く、拉致された妹の姿を確かに視たのです」
「思念を拠り所に、縁を辿るか……」
雪嶺は低く唸り、雪の如き白髭を無造作に撫でた。仙術。それは白陵国の質実剛健な軍事力とは対極にある、神秘と異能の世界。だが、伝説の隠者・玄翁の名が出るならば、理屈では測れぬ事象もまた、一つの「真実」として重みを増す。
雪嶺の瞳が、さらに鋭利な光を宿した。
「白華よ。そなたが真に伝説の老仙の徒であり、王族の血脈のみが許される『器』の片鱗を持つというのなら――今ここで、その証を示してみせよ。言葉を重ねるよりも、一分の真実は万言に勝る」
室内の空気が、物理的な圧力を伴って凝縮された。彗天は「大将! 斯様な危険な真似を!」と言葉を荒らげかけたが、雪嶺の横顔から放たれる凄絶な気迫に射すくめられ、喉の奥で言葉を呑み込んだ。氷雨は瞬き一つせず、白華の指先、その爪先の一挙手一投足にまで神経を研ぎ澄ませた。
白華はしばし瞑目し、内なる龍脈の拍動を感じ取った。そして、静かに、しかし抗いがたい力強さで立ち上がった。
「承知いたしました。……これよりお目にかけるは、わたくしたちが地獄を生き延び、この地へ至るための『盾』となった技にございます」
彼女は隣で息を呑む興華の冷えた手をそっと握りしめ、肺腑の奥底まで冷気を吸い込んだ。
――その瞬間。
淡く清冽な光が白華の掌から溢れ出し、糾問所の空間そのものが水面を打ったように激しく揺らいだ。石壁の無骨な輪郭が水彩画の如くぼやけ、机の木目が生き物の如くうねり始める。兵士たちの視界において、白華と興華の二人は、実体を伴う人間から、背景に溶け込む半透明の陽炎へと変質していった。存在感そのものが雪に埋もれるように希薄となり、物理的な距離感すらもが狂い始める。
「な、何だ……これは! 姿が、消えゆくというのか……!」
彗天が戦慄の声を上げ、反射的に半歩後ずさった。武人としての五感が「そこに敵はいない」と告げながらも、理性が「目の前にいる」と叫ぶ矛盾。その不気味な均衡に、彼は冷汗を流した。
氷雨もまた、その理知的な眼を見開き、細い吐息を漏らした。
「認識阻害……。単なる幻惑ではない。観測者の意識に直接作用し、存在の定義を書き換える上位の方術……。まさか、斯様な異能を、この若さで自在に操るというの……」
雪嶺大将の眼光が、ぎらりと野獣の如く光った。数多の戦場で死線を潜り抜け、あらゆる武技や奇策を見てきた老将の経験をもってしても、この「掴みどころのない絶対的な虚無」は初見であった。
「……確かに、視覚が二人を見失う。いや、それだけではない。肺に届く呼吸の音、皮膚に伝わる熱気、剣を向けるべき敵としての気配そのものが……霧消した」
白華が印を解くと、空気の歪みは静かに収束し、再び二人の輪郭が明瞭に浮かび上がった。
「これが、玄翁老仙の下で血を吐く想いで修得した術の一部にございます。……雪嶺大将、これが、ただの騙りや流浪の者が一夜にして成せる芸に見えるでしょうか?」
雪嶺はしばらく無言のまま白華を凝視し、やがて腹の底から響くような声で、愉悦を隠さず笑った。
「……ほう。なるほどな。理を越えた術、そして何より、その術を放つ瞬間の迷いなき眼。これは虚言や、付け焼き刃の修練では到底成し得ぬ『覚悟』の産物よ」
彗天はなおも屈辱を噛み締め、不満げに唸る。
「しかし大将! 術の巧拙と、出自の真偽は別問題にございます! 斯様な幻惑を操る者こそ、間諜として最も危うき――」
「黙れ、彗天!」
雪嶺の一喝が、要塞の石組みを震わせた。
「儂の眼が、今ここに、白陵を救い得る『可能性』を見たと言っておるのだ。小娘と侮ったが……その器、あるいは背負いし宿命の深さは、我らの想像を遥かに絶しておる」
氷雨は動揺を理性の殻で包み込みながらも、白華という特異な存在を改めて定義し直していた。
(この娘……ただの被害者ではない。玄翁の遺産を継ぎ、黒龍宗の毒に抗うための『劇薬』……。もし彼女たちが真実、柏林の血を継ぐ者ならば、この出会いは偶然ではなく、大陸の龍脈が引き寄せた必然なのかもしれぬ……)
雪嶺は大きく腕を組み直し、糾問所の主として重々しく宣言した。
「よかろう。白華、興華。儂は今、即座にそなたらの身分を完全に認めるほど甘い男ではない。だが、そなたらの魂に刻まれた『火』が、真実のものであることは確かに見届けた。この件、必ずや陛下に奏上し、白陵国の総意として応えねばならん」
その声には、部下を導く将としての厳格さと共に、未だ見ぬ時代の波頭を見据える先見者の輝きが滲んでいた。
「……だが、陛下への謁見が叶うその日まで、儂が直々にそなたらを預かる。国境の兵舎ではなく、より厳重な、しかし不当な扱いは受けぬ場所へ移送する。そこで、そなたらの本質をさらに徹底的に見極めさせてやろう。……不服はあるまいな?」
白華は静かに、しかし誇り高く頭を垂れた。興華もまた、姉の影に隠れるのではなく、一人の武人として背筋を伸ばし、拳を固めた。
雪嶺の眼差しには、厳しい試練を課す親心のような光と、あるいは白陵を救う奇跡への期待が、複雑に混ざり合いながら宿り始めていた。
(もし真に、景曜の血脈がこの氷雪の地に根を張ったのならば。黒龍宗に蝕まれつつあるこの大陸において、この姉弟こそが、夜明けを告げる銀の鷹となるのかもしれん……)
要塞の窓外、北風は激しさを増し、新たな吹雪を予感させていた。
糾問所の空気は、重厚な停滞を脱し、未来へと向かう巨大な車輪が軋みを上げながら回転し始める、その歴史的な瞬間へと変貌を遂げていた。
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