第五章 白華・興華伝三十二 明かされる父の名。そして。
石造りの糾問所を支配するのは、もはや単なる静寂ではなかった。それは、歴史の地層に深く埋もれていた禁忌の真実が、二十六年の歳月を経て地上へと這い出してきたことへの、本能的な畏怖がもたらす「凍結」であった。白華の独白が終わってなお、雪嶺大将も、彗天中将も、そして氷雨中将も、凍りついた彫像のように動くことができずにいた。
語られた内容があまりに壮絶であり、かつ細部に至るまで整合性が取れているという事実が、歴戦の武人たちの理性を激しく揺さぶっていた。虚偽と断ずるのは容易い。目の前の幼き二人を「妄想に憑かれた狂人」か「周到に訓練された間諜」として処理し、一振りの刃でその首を撥ねてしまえば、白陵国の平穏は、少なくとも表面上は保たれるはずであった。
しかし、白華と興華の身に纏う「気配」が、それを許さなかった。それは単なる流浪の民のそれではなく、峻烈なる鍛錬の果てに獲得された静謐な武気と、大陸を二分する巨大な悪意に追われ続けてきた者だけが宿す、逃げ場のない宿命の重みであった。軍歴三十余年、数多の英雄や裏切り者を見定めてきた雪嶺の眼には、彼女たちが放つその「格」こそが、何よりも雄弁な身分証明書として映っていたのである。
雪嶺は、節くれだった巨大な掌を重々しく机に預け、肺腑の奥底に溜まった澱を吐き出すように深く息を吐いた。
「……白華、興華」
その声は、深山の岩石が擦れ合うような重低音を帯びていた。
「そなたらの説話、信じるに値するだけの理と筋道は通っておる。……あるが、されど、それだけでは足りぬ」
雪嶺の眼差しが、峻烈な殺気をも孕んで鋭くなる。老将としての義務が、最後の一線を引くことを求めていた。
「もし、そなたらの父が真に柏林国の正統なる王子であったならば――その名を、今ここで白日の下に晒してみせよ。王族の血脈のみが知る、秘匿された忌み名を。その名を告げることが叶うならば、儂はこの命に代えても、主君に対し、お主らの存在を言上しよう」
それは、文字通りの最終勧告であった。その名を口にすることは、隠れ里での安寧を永遠に捨て去り、黒龍宗の執念深い呪詛と、国家間の権力闘争という地獄の渦中に身を投じることを意味する。
白華は、一瞬の遅滞も、迷いも見せなかった。
彼女は、かつて師・玄翁からその名を授けられた夜の、凍てつく星空を思い出していた。父が命を懸けて守り抜き、娘へと託した「誇り」という名の十字架。白華は真っ直ぐに雪嶺を射抜き、深く、静かに頷いた。
「畏まりました、雪嶺大将。……わが魂に刻まれた、父の名を奏上いたします」
彗天と氷雨の瞳が、同時に針のように細められた。
彗天は奥歯を噛み締め、内心で激しい呻きを漏らす。
(……正気か。この小娘、退路を断つどころか、自ら火薬庫に火を投じるつもりか……!)
氷雨は微動だにせず、白華の瞳の深淵を覗き込んでいた。その双眸に揺らぎはない。あたかも、その名を呼ぶ行為そのものが、自らの血を王族として再定義するための、血塗られた儀式であるかのように。
興華は隣で、唇から血が滲むほどに強く噛み締めていた。姉が今から解き放つ「名」の言霊が、どれほどの破滅と、あるいは救いをもたらすのか。少年の指先は微かに戦慄いていたが、その脚は決して逃げるために動くことはなかった。
白華の声が、糾問所の石壁を震わせて響き渡った。
「――父の名は、柏林王族・景曜」
一拍の静寂。それは、数百年にも感じられる空白。
「柏林国が滅びし日の後、歴史の帳尻に消え去った末王子にして……わたくしたち三姉弟を慈しみ、導いてくださった父の名にございます」
糾問所の空気が、絶対零度の氷原へと一転した。
雪嶺は白き眉を深く顰めたまま、白華を凝視し続ける。その脳裏には、数十年前に目を通した「王室系図」の記憶が、鮮明な光となって蘇っていた。
「……景曜」
低く、慈しむように、あるいは呪うように名を繰り返す。
「確かに……その名は白陵の禁書庫に眠る記録にも記されておる。二十六年前、蒼龍国の猛火の中で行方不明となり、全軍を挙げての捜索虚しく、死体すらも見つからなかったという悲劇の王子……その名が、景曜であった」
彗天の顔色から血気が引き、蒼白へと変わる。
「馬鹿な! あり得ぬ! 二十六年前といえば、わが白陵でさえ柏林滅亡の動乱の極致にあった時代。そんな極限の混乱の中で、王族が生きて逃げ延び、これまで息を潜めていたなど……常軌を逸脱しておる!」
氷雨は取り乱さなかった。ただ、幽鬼のような静けさで呟く。
「……ですが、もし。もしそれが真実であるとするならば、断片はすべて繋がります」
彼女の視線は、もはや白華から離れることができなかった。
「黒龍宗がなぜ、あれほどまでに執拗に各国の辺境を荒らし回り、今なお、柏林の残党狩りを国境を越えてまで継続しているのか。その理由が、『景曜王子の遺児』であるならば、すべてに辻褄が合うのです」
雪嶺は分厚い拳を組み、それを額に押し当てたまま、沈思黙考の淵に沈んだ。
脳裏に浮かぶのは、わが主・氷陵帝の苦悩に満ちた面貌。国の安寧を誰よりも希求しながらも、近年、黒龍宗の浸食と周囲の猜疑心に苛まれ、決断のたびに重荷を背負うようになった君主。
この姉弟が真実、景曜の遺児であるならば、それは白陵にとっての逆転の一手(吉兆)となるのか、あるいは、国を根底から焼き尽くす新たな災厄の種火となるのか。
「……ふむ」
雪嶺は大きく肺を膨らませて息を吐き、毅然と顔を上げた。
「白華、興華。儂は、そなたらの言の葉を即座に虚偽と切り捨てることは、最早できぬ」
その声には、初対面の際にあった嘲りや試すような色は、微塵も含まれていなかった。
「だが、この件は一軍の大将たる儂一人の裁量で決するには、余りにも国家の根幹に関わりすぎる」
彗天がなおも、断末魔の如き勢いで噛みつく。
「大将! 惑わされてはなりませぬ! これは黒龍宗がわが国の深奥へ刺客を送り込むための、周到に練られた甘美な罠やもしれぬのですぞ!」
「黙れ、彗天! 儂の眼が、斯様な剥き出しの覚悟を罠と見誤るとでも申すか!」
雪嶺の一喝が、要塞を震わせる落雷の如く響いた。
「虚実を見極めるのが白陵武人の務め。疑わしきは、なおさらこの眼で、あるいは剣で確かめるまでよ!」
彗天は屈辱と当惑に震えながら、言葉を飲み込んで後退した。
氷雨は静かに頷き、白華の瞳をじっと見つめた。そこには、嵐に耐える大樹のような静かな不屈があった。
白華は、凛とした背筋を保ったまま、最後通告の如く告げた。
「どうぞ、雪嶺将軍。わたくしたちの背負う真実を、いかようにもお確かめください」
一切の退路を自ら断つ、透明な決意。
「その検分の果てに虚偽を見出されたならば――その場で、わたくしたちの首を刎ね、白陵の雪を赤く染めていただければ結構。それに一分の不服もございません」
その毅然たる態度、そして王族特有の「無意識の威圧」に、雪嶺の胸中には得体の知れぬ熱き灯火が点った。
(……まさか。本当に……景曜の子らが、数多の地獄を潜り抜け、今この時、北方の地へと舞い戻ってきたというのか。歴史の歯車が、音を立てて逆回転を始めたかのような予感がするわい)
糾問所に、重く、そして抗いがたい「運命」の潮流が、目に見えるほどの密度で漂い始めていた。白陵国、ひいては帝峰大陸全土を揺るがす巨大な変革の種が、いま、この凍てつく石壁の間で発芽しようとしていた。
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