第五章 白華・興華伝三十一 追憶の独白
糾問所に張り詰めていた、窒息せんばかりの緊張を、白華の清冽な声が静かに切り裂いた。その響きは、ただ一人の少女の身の上話を超え、歴史の深層に眠っていた禁忌の封印を解くための呪文のように響いた。
「……わたくしたちは、翠林国の辺境、地図にも記されぬような名もなき小さな村で育ちました」
誰かに許しを乞うでもなく、徒に情に訴えるでもない。それは、ただ峻烈なる事実を一つずつ石板に刻み込むための声であった。白華は背筋を正し、その身に纏う薄汚れた旅装さえも、高貴な礼服であるかのように錯覚させる威厳を漂わせていた。
「父は、二十六年前の滅びの余燼から逃れた、柏林国の正統なる血脈に連なる者でした。名を偽り、栄華を捨て、ただの一介の武官として、静かに牙を隠して生きておりました。母は土地の商家の娘で……厳しくも、慈愛に満ちた人でした」
白華は一拍の溜めを置き、さらに言葉を重ねる。その視線は、遠く過ぎ去った「光」の季節を見つめているようであった。
「わたくしたちは三姉弟にございます。長女のわたくし、次女の曹華、そして末弟の興華。……生活は決して豊かではありませんでしたが、雪解け水のような温かな日々が、確かにそこには流れておりました。父は庭で剣を振るい、母は竈で火を熾し、わたくしたちは木々の間を駆け回っておりました。その平穏こそが、わたくしたちの知る唯一の世界だったのです」
その声音は、どこまでも淡々と、乾いていた。だが、言葉の端々には、失われた日々の輪郭が、消し去れぬ刻印のように鮮明に刻み込まれている。
「けれど、その平穏という名の薄氷は、あまりにも容易く、残酷に砕け散りました。六年前のことです」
白華の瞳が、わずかに伏せられる。その瞼の裏には、今なお紅蓮の炎が焼き付いている。
「蒼龍国の軍勢が、夜陰に乗じて村を蹂躙したのです。それは通常の軍ではありませんでした。黒龍宗の邪悪な呪詛に操られ、人の心を失った亡霊の軍団にございます。炎が家々を貪り、愛すべき人々は次々と物言わぬ屍へと変えられた。父は王族の血脈ゆえに——龍脈を統べる『鍵』として狙われ、母は……わたくしたちを庇い、盾となって、冷たい刃の下で命を落としました」
興華は深く俯き、膝の上で拳を血が滲むほどに握り締めていた。爪が掌に食い込もうとも、身体の奥底から込み上げる戦慄は止まらない。白華は短く呼吸を整え、最も語り難き「地獄」の場面を口にする。
「その修羅の巷で、わたくしたちは――牙們という名の男に、退路を断たれました」
その忌まわしき名が放たれた瞬間、室内の空気の温度がさらに一段階、引き下げられた。雪嶺大将の眼光に、一瞬だけ鋭い火花が散る。
「…父を執念深く恨み、その顔に刻まれた古傷とともに復讐の業火に身を焦がす男です。妹の曹華は……わたくしと興華を逃がすため、幼き身を投げ出し、その男の前に立ちはだかりました。あの子が、自らの命を『囮』としたのです」
白華の声は、なおも揺るがぬ。その強固な自制こそが、かえって彼女の負った傷の深さを物語っていた。
「幼い身で、ただ必死に。わたくしたちは、一か八か、死地を求めて激流の川へと身を投じました。……妹一人を、地獄に置き去りにして。わたくしが、あの子の手を離したのです。あの子の未来を犠牲にして、わたくしたちは生き残る道を選んでしまった」
老将・雪嶺の白き眉が、僅かにぴくりと動いた。彗天は知らず知らずのうちに息を詰め、氷雨は白華の横顔から、一分たりとも目を離すことができずにいた。
「曹華は……そのまま蒼龍国へと拉致されました。そして――あの、蒼龍の軍神・天鳳将軍の許へと送られたのです」
彗天が喉の奥で小さく呻きを漏らした。氷雨の瞳に、雷光のごとき鋭い光が走る。白陵の将にとって、天鳳の名は、無視できぬ巨大な脅威であり、畏怖すべき対極の存在に他ならない。
「わたくしは、激流に呑まれ、意識が遠のく中で……引き剥がされる妹の背中を、ただ見ることしかできなかった。あの子の叫び声は……濁流の轟音に掻き消されながらも、今なお耳の奥にこびりつき、片時も離れません。あの子を救い出すこと。それが、生かされたわたくしたちの唯一の、そして絶対の天命となりました」
白華の眼差しには、言葉に尽くせぬ痛みが刻まれていた。興華の目には堪えきれぬ涙が滲み、唇を噛み切りそうなほどに力を込め、嗚咽を必死に嚥下する。
白華は続けた。その旋律は、より深く、神秘的な響きを帯びていく。
「わたくしたちは奇跡的に生き延び、山深き隠れ里で、一人の仙人に拾われました。玄翁――伝説に名高い、あの老仙にございます」
その名を、白華は静かに、しかし重厚な石を置くように告げた。室内の空気が震えた。雪嶺の眼が驚愕に細まる。
「玄翁様は、わたくしたちに六年の歳月をかけ、修練を授けてくださいました。黒龍宗の邪道に抗い、奪われた妹を取り戻すための、力と知恵を。この銀貨も、この術も、すべてはあの方から授かった、再興のための遺産にございます」
糾問所は、再び水を打ったような沈黙に支配された。
雪嶺は分厚い腕を組み、重厚な眼差しで白華の魂の奥底を覗き込もうとしている。彗天の面貌にはなおも峻烈な疑念と警戒が張り付いているが、もはや無分別に剣へ手を伸ばすような真似はしなかった。氷雨は、語られた言葉の一つ一つを、自らの持つ情報という名の糸で必死に繋ぎ合わせ、その真偽を、そしてその「重み」を検分していた。
「信じるか否かは、閣方次第にございます」
白華は、逃げ場のない視線で、真っ直ぐに言い切った。
「……ですが、これがわたくしたちの血で綴られた、唯一無二の真実。わたくしたちが、この命に代えても守り抜くべき矜持にございます」
その声は冷たく、しかし清澄で、凍てつく冬の星空のように揺るぎがなかった。雪嶺は、腹の底から響くような声で、独り言のように低く呟いた。
「……まさか。玄翁か。あの偏屈な老いぼれが、柏林の王気を……斯様な形で、未だこの地に息づかせておったというのか」
氷雪の国の静寂の中で、その言葉だけが、大陸の命運を変える重しとなって、いつまでも消えずに残っていた。
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