第五章 白華・興華伝三十 白華の変幻
糾問所を覆う空気は、なおも氷刃のような張り詰めを保っていた。白華が雪嶺大将へ向けて放った、あわや処刑を招きかねないほど峻烈な挑発の言葉は、冷たい石壁に吸い込まれることなく、重苦しい残響として室内に漂い続けている。彗天の殺気、氷雨の当惑、そして雪嶺の圧倒的な威圧。誰もが次の瞬間、抜き放たれた白銀の刃が姉弟の頸を撥ね、石床が鮮血に染まる光景さえも、必然の帰結として覚悟していた。
――だが、その死の静寂を破ったのは、意外にも白華自身であった。
彼女は、ゆっくりと、折れそうなほどに細い腰を椅子から浮かせる。先ほどまで老将を真正面から射抜き、「畏れているのか」と不敵に嘲弄してみせた苛烈な小娘と同一人物とは思えぬほど、その動作は風に揺れる柳のようにしなやかで、静謐であった。
そして、白華は深く、深く頭を垂れた。
床に触れんばかりの低い深謝。それは礼節の極みであり、同時に一切の武装を解いた無防備な姿の誇示でもあった。
「……雪嶺大将。先ほどは身の程も弁えず、分を越えた無礼を働き、誠に申し訳ありませんでした。わたくしの浅はかなる言動、いかなる極刑を賜ろうとも申し開きはございません」
その声の調子は、先刻までの鋼の響きを完全に失っていた。今そこにあったのは、雪解け水のように清冽で、しおらしさと切実な懇願を帯びた、柔らかな和語の響きであった。
「ですが……私たちは決して虚偽を以てこの地を踏んだわけではございません。この命を賭して奏上することに、曇りは一切ございません。どうか、わたくしの独りよがりな不敬のみで、真実を闇に葬らないでいただきたいのです」
顔を上げぬまま、白華は言葉を重ねる。その声は微かに震え、守るべき者を背負う長姉の悲痛な覚悟が滲んでいた。
「いまから、私たち姉弟の忌まわしくも尊き生い立ちを、すべてお話しいたします。柏林の王族の生き残りであると、一分の疑いもなく信じていただけるように……」
一拍、祈るように息を置いて。
「どうか……どうか、武人として名高い大将のお慈悲を以て、我らが言葉に耳を傾けてくださいませ」
室内は、水を打ったような静寂に包まれた。
あまりにも鮮やかな、そして完璧な「変わり身」。先ほどの挑発が、雪嶺の注意を引き、場を「対等な折衝の場」へと強引に引き上げるための冷徹な計算であったとするならば、今の謝罪は、雪嶺の懐へと飛び込み、彼の「将としての度量」を試すための次なる一手であった。
彗天も、氷雨も、そして百戦錬磨の雪嶺さえも、一瞬、呼吸を忘れてその姿に見入っていた。何より驚愕し、心臓を鷲掴みにされていたのは、隣に座る興華自身であった。
「……っ、姉さん……!」
思わず裏返った声が漏れる。白華の真意は、血を分けた弟である彼にさえ、その全容を読み解くことはできなかった。だが、姉がただ怯えて頭を下げたのではないこと、これが命を繋ぐための「戦い」の続きであることだけは、骨の髄から理解できた。興華は突き動かされるように椅子を蹴って立ち上がり、雪嶺へと深く腰を折った。
「雪嶺大将! 僕からも、姉の至らぬ無礼を心よりお詫びします!」
声は幼さを残しながらも、必死に喉の震えを抑え、誠実さを絞り出していた。
「どうか……どうか、姉の話を聞いてください。僕たちの故郷が奪われ、父と母が何を遺したのかを。お願いします!」
それは、誇り高き少年が初めて他者に捧げた、血を吐くような祈りであった。
雪嶺は胡乱げに、しかし獲物を見定むる猛禽の如く目を細め、伏した二人を見下ろした。
(……挑発によって儂の格を揺さぶり、間髪入れずにこの低姿勢。策か? 演じられた二面性か? それとも――)
確かに策略の匂いは濃い。だが、これほど見事に頭を下げられ、懇願されてなお、問答無用で斬り捨てるのは、白陵の守護者としての自らの矜持と器を、自ら卑小なものと認めるに等しい。
「ふざけるなッ! 騙されるな、大将!」
沈黙を切り裂いたのは、憤怒に顔を紅潮させた彗天であった。拳は怒りに震え、腰の鞘がカチカチと音を立てる。
「大将に泥を塗り、あまつさえ畏れているのかと愚弄しておきながら、今さら殊勝な面をして許しを乞うだと……! この小娘、どこまで我らを、白陵の武を舐めているのだ!」
剣の柄に再び指が掛かる。
「もはや言葉など不要! いまここで、その歪んだ舌を引き抜いてくれる!」
殺気が奔流となって吹き荒れる中、氷雨は、その場で氷漬けになったかのように硬直していた。彗天を制止する言葉が、喉の奥で凍りついて出てこない。
(……違う。私が感じているのは、彗天殿のような怒りではない)
氷雨の胸中を支配していたのは、底知れぬ「恐怖」であった。
(この娘……どこまでが本心で、どこからが計算なの? 挑発も、謝罪も、しおらしさも……すべてを盤上の駒として使い分けている。この若さで、白陵の将軍二人の意識を、手のひらで転がしているというの……?)
自らの経験則では到底測り得ぬ異質の存在を前に、氷雨は背筋を伝う冷汗を止めることができなかった。
「――控えよと言ったはずだッ!!」
雪嶺の雷鳴の如き怒号が、再び糾問所の空気を爆散させた。
その神威を帯びた声に、彗天の動きは物理的な衝撃を受けたかのように完全に停止する。抜かれかけた刃は鞘の内で凍りつき、彗天は金縛りに遭ったかのように動けなくなった。
「彗天! これ以上、儂の眼の前で血気に逸る無様を晒すな! 退け!」
「……っ、し、しかし大将! この者らは――」
「退けと言っている! 儂の命が聞けぬか!」
彗天は奥歯が砕けるほどに歯を食いしばり、悔しげに唸りながら一歩、また一歩と後退した。なおも白華の項を呪わんばかりに睨みつけていたが、老将が放つ絶対的な威圧には一分の抗いも許されなかった。
雪嶺は机にどっしりと身を預け、低く唸るような、それでいてどこか愉しげな響きを孕んだ声で言った。
「……よかろう。面を上げよ」
白華と興華が、ゆっくりと顔を上げる。
「小娘と小僧よ。そなたらの『真実』とやら、この雪嶺が直々に、一滴の漏れもなく聞き届けてやろう」
その眼差しには、依然として峻烈な疑念が渦巻いていたが、同時に、目の前の矮小な旅人が隠し持つ巨大な可能性に対する、抑えきれぬ好奇心が宿っていた。
「だが心得よ。一字でも虚妄を交え、儂の時間を無為に費やさせたならば、そのときこそ貴様らの首は、この砦の門に晒されることとなる。……話せ」
白華は静かに頷いた。
再び顔を上げた彼女の瞳には、先ほどのしおらしさは消え、深く透き通った泉のような、一点の迷いもない決意が宿っていた。
(……本当に、この細い肩にすべてを賭けて、荒野を切り拓くつもりなんだな、姉さんは)
興華は姉の横顔を見つめ、震える胸の内でそう独白した。
取り調べ室に、再び濃密な緊張が満ちていく。
しかし、その緊張の糸を操り、場を支配しているのは、もはや軍神・雪嶺大将ですらない。
滅びし国の名を背負い、白銀の牙を隠し持つ、白華という名の少女その人であった。
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