第五章 白華・興華伝三十 しおらしい白華
取り調べ室を覆う空気は、まだ氷刃のような張り詰めを保っていた。
だが、その緊張を破ったのは、意外にも白華自身だった。
先ほどまで雪嶺大将に向かって正面から挑発していた小娘が、今度は椅子から静かに立ち上がり、深く頭を垂れた。
「……雪嶺大将。先ほどは無礼を働き、申し訳ありませんでした」
声の調子まで変わっていた。毅然とした鋼の響きから、今はしおらしく、懇願の色を帯びた柔らかさに。
「ですが、私たちは決して虚偽の申告をしてはいないのです。ここで命を賭けて申すことに嘘はありません。いまから私たち姉弟の生い立ちを、柏林国の王族の生き残りであると信じていただけるよう、お話しします。どうか……どうか耳を傾けてください」
その変わり身に、室内は水を打ったような静寂に包まれた。
彗天も氷雨も、雪嶺さえも驚きに息を止めた。そして何より、興華自身が姉の変貌に目を見張っていた。
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「……っ、姉さん……!」
興華は思わず声を漏らした。
白華の意図は分からなかった。だが姉の覚悟を知っているからこそ、興華は反射的に雪嶺に向かって頭を下げた。
「雪嶺大将! 僕からも姉の無礼をお詫びします。ただ……どうか話を聞いてください。お願いします」
その言葉は、まだ幼さを残した声音にしては重かった。必死の祈りのように響いた。
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雪嶺は胡乱げな目を細め、二人をじっと観察した。
(……挑発しておきながら、このしおらしさ。策か、それとも二面性か……)
策略の匂いは確かにする。だが、ここまで頭を下げられ、それを無碍に切り捨てるのは、年長者としての威厳を損なう。
(それに……儂自身、ここで首を刎ねるだけでは済まぬ気配を感じる。こやつらの背後に何がある……?)
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「ふざけるなッ!」
沈黙を破ったのは彗天だった。
顔は紅潮し、拳は震えている。
「大将に無礼を働き、挑発までしておきながら、今さら殊勝ぶって許しを乞うとは……! この小娘、我らを愚弄しているのか!」
剣の柄に再び手が伸びた。殺気が今度こそ堰を切って溢れ出す。
「いまここで――!」
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氷雨は彗天を止められなかった。
なぜなら彼女自身、白華に対して言い知れぬ恐怖を抱いていたからだ。
(……何なのだ、この娘は。あれほどの挑発の後、平然と頭を下げて見せる……。その胆力、駆け引き、どこまで計算している?)
氷雨は、白華の姿にただ慄然と立ち尽くしていた。
己の経験では計り知れない存在を目の前にしている感覚に、言葉を失っていたのだ。
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「――やめぬかッ!」
再び雪嶺の雷鳴のような叱責が轟いた。
その声に、彗天の手は止まり、刃は抜かれぬまま固まった。
「彗天! これ以上、儂の目の前で無様を晒すな!」
「……っ、し、しかし大将!」
「黙れ!」
豪快な声に圧倒され、彗天は歯を食いしばりながら一歩退いた。その目はなおも白華を射殺さんばかりだったが、雪嶺の威に抗えなかった。
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雪嶺は再び机に身を預け、低く唸るように言った。
「……よかろう。小娘と小僧よ。そなたらの話、儂が直々に聞いてやる」
その眼差しは豪快さを帯びつつも、深い疑念と好奇心に満ちていた。
「だが心得よ。儂を欺こうものなら、そのときこそ容赦はせん」
白華は顔を上げ、静かに頷いた。その瞳には恐れも迷いもなかった。
(……姉さん……本当に賭けるつもりなんだな)
興華は姉の横顔を見つめ、胸の内でそう呟いた。
取り調べ室に、再び緊張が満ちていった。だが今度は、それを主導しているのは白華自身だった。




