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三華繚乱  作者: 南優華
第五章
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第五章 白華・興華伝十九 白陵境にて

天脊山脈の北嶺へ向かう道は、暁の一息で牙を剥いた。

白華は肩紐を締め直し、吐く息とともに認識阻害の薄膜をひらいた。淡い霧のような道術が、雪面のきらめきに紛れて二人の輪郭を曖昧にする。興華は掌を打ち合わせるように気を巡らせ、体幹から末梢へと温を押し流した。霊力が薄灯りとなって血の通いを促し、凍てつく風が頬を噛んでも、体温は崩れない。


「……踏み抜き注意。ここから雪庇せっぴが張ってる」

白華は杖先で雪面を探り、僅かな空洞の響きを拾う。

「任せて。重さは僕が“持つ”」

興華は片足を出しつつ、足裏から気を押し広げた。雪は沈まず、板のような感触に変わる。二人は枝の上を渡るリスのように、風を切らず、音も立てず、白い稜線を斜めに駆けた。


峠近く、吹き上げる地吹雪に視界が攫われた。白華は膜の厚みを増し、風の刃を鈍らせる。興華は指先で雪片の軌道を撫でるように霊力を滑らせ、渦の芯を外へずらす。ほんの数寸の偏りが、猛り狂う風の向きを変え、二人の周りだけが水底の如く静まった。


岩陰でひと息つくと、興華は背嚢から乾肉を取り出し、白華の掌に置いた。

「白華姉さん。……曹華姉さんのこと、明日も考えよう」

白華は頷き、淡い笑みを浮かべる。

「“殺さずに救う”——玄翁様の最後の試練を忘れない。白陵国で得るのは剣ではなく、道を通すためのえにし。そのために、まず名も身元も透かさないこと」

「うん。僕は“盾を裂く矢”じゃなくて、“結び目を解く息”になる」


夜。岩棚の窪みに天幕を張り、雪明かりを遮るように毛布を垂らす。薪は湿っている。白華は指で印を結び、乾いた空気の小部屋を作る。興華が掌をかざすと、霊光が火口の代わりにじりじりと赤みを増し、やがて青い炎が、息を潜めるように灯った。

「白陵に入ったら、まずは都ではなく北東の交易宿場——氷河街ひょうががいを目指すわ。商人は情報を運ぶ血管。宰相や大司徒の名前も、彼らは噂の温度で推し量る」

雪嶺せつれい大将の動きも見たい。国境の兵の目つきが、国の体温だって玄翁様が言ってた」


火が小さく爆ぜた。静けさの底で、白華は胸の奥の結び目に手を伸ばす。

(曹華。いまどこで、どんな空を見ているの……)

興華は毛布に身を沈め、天幕の布越しに霞む星々へ、声にならない誓いを送った。

(絶対に、姉さんを連れ戻す。憎しみじゃなくて、手をつなぐために)



同じ夜、北側の大地——白陵国の首都・白陵京はくりょうきょうは、凍金いてがねの楼郭に灯がともり始めていた。

玉霜ぎょくそうで磨かれた宮城の回廊を、氷陵ひょうりょう帝はゆるやかに歩む。白磁のような面立ちに、冬の光を宿した眼。雪の時代に即位し、雪の呼吸で国を束ねてきた男だ。玉座の間に入ると、宰相・清峰せいほうと大司徒・霜岳そうがくが控えた。


「南境、兵糧庫の火災。意図は?」

氷陵帝の声は淡いが、刃が入る。霜岳が頭を垂れた。

「偶発と見せかけた“手”。倉の錠は壊されず、火の回りは異様に早かったとの報。……女官長・麗翠れいすいの私邸に出入りする行商に、南の薬材筋が付いております」

清峰が冷ややかに続ける。

「雪嶺大将の三名の中将のうち、凍昊とうこうが兵站管理を一部掌握。彼の印の押された書付が、火災の前日に差し替えられていた形跡。証はまだ“薄氷”ですが」


氷陵帝は一拍の沈黙を置き、目を細める。

「雪は音を吸う。だが、足跡は残る。踏み固める前に拾え」

清峰が浅く頷いた。霜岳は筆を取り、諸役所への指示を綴る。政の中枢に張り巡らされた糸が、音もなく震えた。


同刻、北苑の鍛錬場。

太子・華稜かりょうは、素手で氷柱を割っていた。年は興華と同じ十六。屈強ではないが、芯の通った眼差しを持つ。打突の間合いがわずかに狂い、氷片が頬を掠めた。

「焦りは呼吸を短くする」

澄んだ声が、雪を渡る。現れたのは長姉・天華てんか。剣帯の留め金にも無駄はない。

「父上のお側で文を読めと?」と華稜。

「剣を握る者が文を読まぬのは、鞘を持たぬ刀と同じ」

天華の声音は冷たいが、それは守りの硬度だった。

「……姉上は、雪嶺大将を疑っているのか」

「人を疑うのではない。足跡を見るの。凍昊中将の歩幅、女官長の扇の開き。どちらも、春風には広がりすぎ」


そこへ、白いの裾を揺らして雪蓮せつれんが現れた。次姉は、氷の国に咲く灯のように柔らかく笑む。

「華稜。手に霜焼け。“薬香やっこう”を塗ってから続けなさい」

掌に香油を薄くのばし、そっと包む。

「ありがとう、姉上」

天華が横目で妹を見やり、わずかに目許を和らげる。

「雪蓮、声が広場まで届いていた。女官長の庭でまた“舞の稽古”を?」

「ううん。女官長の庭に来ていた商人の言葉が、南訛りだっただけ。……大司徒の霜岳様に伝えておいたわ」

雪蓮は無垢ではない。柔らかさで人を油断させ、静かに芯を観る。三姉弟は、それぞれの色で冬を支えていた。



「足跡は、いつか一つに収束する」

清峰は独りごちるように書を閉じ、夜の回廊へ出た。

遠く、雪嶺大将の営から狼煙が上がる。副将・彗天すいてんは厳しく部隊を締め、氷雨ひさめは欠けた物資を穴無く埋めていく。凍昊は笑みを薄く張り、文机の影で小さな印を押し替えた。何もかもが音を立てず、しかし確実に進む。


その境へ——二つの影が近づいていた。


白華と興華は、峠を越え、白陵側の雪原へ踏み出す。空は深い鈍色、遠い平野に薄青い煙が幾つも立つ。屋根は低く、塀は厚い。

「氷河街まであと半刻」

白華が視線だけで地形をなぞる。興華は耳を澄ませ、雪の下を流れる水音と、風切りの層を判別した。

——そのとき。

短く鋭い笛の音。白陵の哨兵が雪松の影から現れ、弓を半ば引く。

白華は裾を払うように一歩出、掌を胸前に。認識阻害の膜を薄く剥ぎ、敵意ではなく“ただの旅人”の像を作る。興華は霊力を深呼吸に溶かし、動物の気配に似せて周囲へ放った。雪うさぎが跳ねるような、柔らかな“虚”の足取り。


哨兵の二人は目配せを交わし、先頭の若者が一歩近づく。

「止まれ。名を——」

言い終える前に、背後の影が気配を遮った。狼毛の外套、剃り上げた項。白陵軍・彗天中将である。

「ここは軍道だ。身分不詳の流れ者は引き返せ」

声音は厳しいが、瞳は氷のように澄んで状況を読む。白華は視線の高さを半寸落とし、わずかに肩を竦めた。

「南の村から来ました。吹雪で道を失い、せめて街道へ出たく……」

彗天は眉をひそめる。言葉の端に、書生の抑揚が混じる。作り物ではない教養の匂い。

「……氷雨!」

背後から女の声。白袖の鎧を纏った女将が馬を引いて現れた。氷雨中将。目は優しく、計算が速い。

「中将、凍傷の兆し。ここで追い返せば道端の石になるわ。詰所で一夜、ただの“人情”ですむこともある」

彗天は小さく息を吐き、頷いた。

「詰所までだ。質問には簡潔に答えろ。もし——」

彼は言葉を切り、雪面に残る二人の足跡を見た。沈みが浅い。重心の移りが妙に軽い。

(……兵ではない。だが、ただ者でもない)


白華は目を伏せ、心中で呟く。

(まずは入る。ここは門前。扉の蝶番に触れずに、蝶番の軋みだけを止める)

興華は拳を握り、霊力の息を細く長く保つ。

(姉さんの隙を作らない。僕は“息”になる)


詰所の灯が、雪面に橙を落とした。

同じ頃、白陵京の北楼では、天華が夜警の帳面に記す。雪蓮は女官たちの囁きを集め、霜岳の机に密書を送る。清峰は黒い硯で白い紙に、目に見えない線を何本も引く。氷陵帝は玉座で目を閉じ、指先で玉璽の角を一度だけ叩いた。

「——冬は、静かに凍る」

誰にともなく零れた声は、窓外の星を薄く震わせた。


雪は音を吸う。

だが、足跡は残る。

白華と興華が刻んだ最初の二歩は、やがて白陵京の中庭へ、そして黒龍宗の影の縁へと、静かに繋がっていくのだった。

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