第五章 白華・興華伝十九 白陵境にて
白華と興華が越えた峠の向こう側、そこは静寂が牙を剥く「沈黙の国」であった。天脊山脈の北嶺、峻烈な下降気流が雪面を削り、氷の礫が二人の外套を叩く。白華は認識阻害の術を、単なる「隠蔽」から「同化」へと変調させた。周囲の吹雪の屈折率を読み取り、光の粒子を自らの周囲でわざと散乱させる。これにより、二人の姿は実体を持った人間ではなく、風に舞う一塊の雪煙として風景に溶け込んだ。
「……興華、霊力の循環を『細』にして。熱を外に逃がせば、熱源を追う魔獣や術士に捕捉されるわ」
「わかってる。肺の中だけで気を回す……『内燃』の呼吸だね」
興華は頷き、自身の霊力を体内の経絡に閉じ込めた。体表の温度を周囲の冷気に限りなく近づけながら、その核となる心臓と丹田だけを灼熱に保つ。これは肉体を極限まで痛めつける過酷な技法だが、六年の修行を経て、彼はそれを平然と、無意識の拍動の一部として遂行していた。二人が稜線を駆け抜けるたび、雪面に残るのは鳥の羽が触れた程度の微かな窪みだけだった。
峠を下りきった先に広がるのは、氷河の末端に張り付くように築かれた宿場町「氷河街」である。ここは白陵国の血管の末端。南方の薬草、北方の毛皮、そして各地の「毒」を含んだ噂が沈殿する場所だ。
白華は街の入り口で、玄翁から授かった銀貨の一枚を指先で弄んだ。その刻印は、現在の白陵国で流通しているものよりも数代前の古い形式であったが、貴金属としての純度は極めて高い。
「興華、ここでは『没落した書生の一族』を演じるわよ。私は病弱な兄を支える妹。あなたは、口のきけない従者……いえ、寡黙な護衛。武器は隠して」
「わかった。……でも、僕の方が年上に見えないかな?」
「知略で埋めるのよ。あなたのその、少し不器用な誠実さが、白陵の民には信頼の証に見えるわ」
街に入ると、土と獣脂の匂いが冷気に混じり、生存の熱気が肌を刺した。白華は意図的に足取りを重くし、咳き込む振りをしながら、酒場の隅にある情報屋の門を叩いた。
「……天脊の南から。父の遺した書を売りに来ました」
白華の声は、認識阻害を声帯に施すことで、実年齢よりも数歳年上の、苦労を重ねた女性の掠れ声を演出していた。差し出された古い銀貨を見た主人の眼の色が変わる。
「……この刻印、先々代の『銀鷲』か。あんた、ただの流民じゃねえな」
「ただの、行き場を失った亡霊です。……それより、最近の都(京)の噂を。雪嶺大将の軍が動いていると聞きましたが」
主人は銀貨を噛み、声を潜めた。
「大将だけじゃねえ。中将の凍昊が、兵站の鍵を握ってから空気がおかしい。南境の兵糧庫が焼けたのも、内部の引き込みだって囁かれてる。……あんたら、南から来たんなら知ってるはずだ。蒼龍の『外征』の噂を」
白華の背筋に、氷よりも冷たい戦慄が走った。天鳳将軍、そして曹華がいるはずの蒼龍国が、ついに動き出した。その矛先がどこへ向くのか。この白陵国が戦火に包まれるのも、もはや時間の問題であることを、彼女の鋭い知性は瞬時に弾き出した。
同じ頃、白陵国の首都、白陵京の奥深く。
白亜の宮殿では、皇太子・華稜が天華と雪蓮の二人の姉に囲まれ、戦術地図を見つめていた。
「南境の火災は、単なる失火ではないわ」
長姉・天華が、細い指で地図の一点を指す。
「凍昊中将の私邸から、黒龍宗の末端が使う暗号文の残滓が見つかった。……父上(氷陵帝)は既にご存知よ。知った上で、雪嶺大将を泳がせている」
「父上は、大将を信じていないのですか?」
華稜の問いに、次姉・雪蓮が悲しげに首を振った。
「信じていないのではないわ、華稜。……信じることの代償が、国の崩壊であることを恐れていらっしゃるの。雪は美しく積もるけれど、その重みが家を潰すこともある。雪嶺大将の威光は、今の白陵にとって、重すぎる積雪なのよ」
雪蓮は、自らの袖に隠した小さな小瓶を弄んだ。それは女官長・麗翠の部屋から密かに持ち出した、蒼龍国特有の香料。
「麗翠は、後宮の影で黒龍宗の種を蒔いている。……天華姉様、私に任せて。毒には毒を。私は、白陵を汚す『黒』を、この雪で覆い隠してみせるわ」
三姉弟の決意は、氷陵帝の冷徹な意志と共鳴し、巨大な迎撃体制を形作りつつあった。しかし、彼らはまだ知らない。その盤面に、死んだはずの「柏林王族」の生き残りが、未知の変数として飛び込もうとしていることを。
氷河街を後にし、白陵京へと向かう街道。
白華と興華は、哨兵の追及を「旅の薬師」という偽りの身分で躱し続けていた。しかし、その歩みを止めたのは、街道を封鎖していた彗天中将の精鋭部隊であった。
「……そこの二人。その身なりで、これほどの距離を最短経路で踏破できたのはなぜだ。雪の上の足跡が、迷いを知らぬ武人のそれだぞ」
彗天の鋭い指摘。白華は内心で舌打ちした。興華が気を消しすぎていた。あまりにも無駄のない歩行は、逆に「熟練の隠密」であることを証明してしまっていたのだ。
「……お目が高い。私たちは、命を狙われておりますゆえ」
白華はあえて「真実の一部」を混ぜることで、彗天の疑念を逸らそうとした。
「南の政変に巻き込まれた、名もなき一族です。白陵の『正義』に縋るために参りました」
彗天は目を細め、腰の刀の柄に手をかけた。その瞳は、嘘を許さぬ氷の硬度を持っていた。
「正義か。白陵にあるのは『生存』と『秩序』だけだ。……氷雨中将、この二人を連れて行け。凍昊の動きを探るための『餌』に使えるかもしれん」
背後に控えていた氷雨が、柔らかな、しかし逃げ場のない微笑みを浮かべて歩み寄る。
「……ようこそ、白銀の国へ。その瞳の奥に宿る『火』を、大切になさることね」
白華は興華と目配せを交わした。まずは入る。白陵の心臓部へ。そこには、自分たちの正体を暴こうとする冷徹な皇族たちと、国を内側から腐らせる黒龍宗の影、そして、南から迫り来る曹華という名の嵐が待っている。
「……参りましょう。道が、そこにあるのなら」
白華の言葉は、北風に混じって消えた。
雪はすべてを吸い込む。悲鳴も、祈りも、そしてこれから流されるであろう鮮血の熱ささえも。
三姉弟の再会への道程は、白陵国の凍てつく大地の上で、静かに、しかし確実に刻まれ始めた。
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