第五章参 黒龍宗の会談
黒龍宗の本拠、天脊山の麓に築かれた冥府殿。
厚い雲に覆われた空からは一条の光も差さず、外界の風景すら閉ざされている。殿を囲う黒曜の柱は天を貫かんばかりに高くそびえ、壁も天井もなく、ただ龍脈から噴き出す濃密な「気」の渦が天蓋のごとく広がっていた。
音は一切なく、静寂が息苦しいほどに張り詰めている。
その中央に、巨大な石座に腰を下ろす一人の老人がいた。
黒龍宗の最高指導者にして教主――玄冥導師。
数百年を生きるとされるその容貌は、時の流れから切り離されたかのように皺一つなく、ただ深淵のような瞳が全てを射抜く。
彼の左右には、副教主と四冥将が居並んでいた。
副教主・黒蓮冥妃。氷の彫像のように整った美貌を持ち、冷気を纏うかのごとき気配を放つ女武人。
その視線は、忠誠を示すでもなく、また反逆を窺うでもなく、ただ冷ややかに静止している。
四冥将。
焔冥将・朱烈は赤銅の髪を乱し、燃え盛る業火のような眼をぎらつかせ、座してなお炎を吐くかのよう。
獄冥将・玄鉄は巨岩のごとき体躯を沈黙で支え、その重圧だけで周囲の空気を揺らしていた。
幻冥将・紫霞は薄紫の衣を纏い、儚げな表情の奥に、なにか脆く揺れる光を隠す。
瘴冥将・宵霞は妹の肩を掴むような冷たい気配をまとい、唇には歪んだ笑みを浮かべていた。
冥府殿の奥底、龍脈の気が渦巻く空間で、彼らは一堂に会していた。
---
玄冥導師が口を開いた。
その声は低く、山脈そのものが唸るような響きを持っていた。
「……二度。我らは柏林の器を取り逃がした。二十六年の空白は、もはや許されぬ」
場に微かなざわめきが走った。
朱烈が炎のように声を荒げる。
「翠林での子らは、激流に呑まれたはず! 生きているならば奇跡よ!」
紫霞は一歩進み、俯きながら囁いた。
「ですが……近年、各地で“異能の子”の噂が散見されます。生きている可能性は……」
宵霞がすぐさま遮る。
「くだらぬ風説を並べるな。証拠もなく教主を煩わせるなど、愚かの極み」
彼の冷笑が紫霞を射抜き、妹はわずかに肩を竦める。
玄鉄は何も言わない。ただ両の腕を組み、沈黙そのものを圧として場に沈めていた。
黒蓮冥妃は冷ややかに目を伏せ、ただ彼らの応酬を見守っている。その姿は氷壁のごとく揺るぎなく、誰も彼女を軽んじることはできなかった。
---
玄冥導師は全員の声を聞き終えると、瞳を閉じた。
次の瞬間、殿全体を覆うような威圧が放たれ、龍脈の気がざわめき、石柱にひびが走る。
「……貴様らの眼は節穴か」
その一言で、焔も瘴も沈黙した。
玄冥導師の声は静かでありながら、雷鳴より重く、魂を圧する。
「もし柏林の血が絶えたのならば、龍脈はとっくに我が掌に落ちていよう。だが未だ揺らぐ。
――これは、誰かが“器”を匿っているという証左に他ならぬ」
黒蓮冥妃の瞳がわずかに揺れる。
「……教主、それは……まさか」
玄冥導師はゆるやかに瞼を開き、深淵の瞳で虚空を睨んだ。
「玄翁兄者……」
その名が響いた瞬間、殿内に凍り付くような沈黙が走った。
紫霞は震える声で呟いた。
「……玄翁……伝説に名を残す仙道の賢者……」
朱烈は嗤い、炎を散らす。
「ならば討つまでよ! 教主の御前に立ちはだかる者など、兄とて許されぬ!」
宵霞は歪んだ口元を緩めた。
「もしそれが真ならば、皮肉なことだ……血筋を守るのは血筋。面白い」
黒蓮冥妃だけが沈黙を崩さず、ただ教主を見据えていた。その冷たい瞳の奥に、誰にも読めぬ色を潜ませたまま。
---
玄冥導師は最後に告げた。
「王族の血は必ず生きている。兄者が守っていようとな。次の外征の陰に乗じ、必ずその影を暴き出せ」
四冥将は一斉に頭を垂れ、黒蓮冥妃もまた静かに頷く。
龍脈の気が唸りを上げ、冥府殿は再び静寂に包まれた。
ただ一つ確かなのは――黒龍宗の牙は、すでに玄翁、そして白華・興華の運命へと向けられた、ということだった。
---
冥府殿を辞した後、四冥将は外庭の石回廊を歩んでいた。龍脈の霧が漂い、灯火すら揺れることのない空間である。
朱烈が舌打ちした。
「玄翁だと? 名ばかりの老いぼれではないか。教主は過大に見ておられる」
玄鉄は低く唸る。
「……侮るな。玄翁は、ただの仙ではない。戦えば我らの何人かは屠られる」
宵霞は冷笑した。
「ならば屠られてみるか? 我らは教主の影。兄者だろうが誰であろうが、敵にすぎん」
紫霞は俯きながら歩いていたが、ふと立ち止まり、小さく声を洩らした。
「……兄上、口を慎んでください。血を守ろうとする者を……私は、愚かだとは思えない」
その言葉に宵霞の目が細まり、氷の刃のような視線が妹を射抜く。
「紫霞。貴様、情などというものに縋る気か。情は弱さだ。黒龍宗にいる以上、そのような考えは許されぬ」
紫霞は唇を噛み、答えなかった。
玄鉄の巨体が彼らの間に割って入ると、重々しい声が響いた。
「……口論は不要だ。我らに課せられたのは使命のみ。教主の命に従え」
朱烈が炎の気を散らし、宵霞は鼻で笑い、紫霞は黙って歩を進める。
彼らの足音が回廊に消え、再び黒龍宗の本拠には不気味な静寂が満ちた。
だが、この静寂の底に、紫霞の小さな決意の芽が潜んでいたことを、その場にいた誰一人として気付いてはいなかった。




