第四章 白華・興華伝十八 北への旅立ち
思念体の曹華との過酷な試練を乗り越えた白華と興華は、ついに玄翁のもとでの六年にわたる修行を完了した。
二人が選んだ道は、蒼龍国への無謀な突入ではなく、北の大国・白陵国への潜入――そこから曹華の消息と、黒龍宗の暗躍の真実を探ることだった。
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旅立ちを告げられてからの日々、二人は寸暇を惜しんで準備に追われた。
天脊山脈を越えた北は厳寒の地。白華は母から受け継いだ知識を頼りに、防寒着、保存食、乾燥肉や干魚、凍結を防ぐ薬草茶、そして非常時に使う天幕を整えた。足元を守る堅牢な防寒靴は、彼女が特に吟味した品である。
興華は武具の調整に余念がなかった。仙杖の芯に霊力を注ぎ込み、道中で折れることがないよう補強を施す。さらに、狩猟や護身に使える短剣や、携帯しやすい弓具を点検した。弟のその姿を見て、白華は頼もしさと同時に、まだ少年らしい無邪気さを隠しきれない表情を感じ取り、密かに微笑んだ。
準備に明け暮れる二人を、玄翁は静かに見守っていた。
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ある日、玄翁は小さな巾着袋を差し出した。
「持って行け。旅路で役立つ」
中には、見慣れぬ刻印の入った銀貨や銅貨が収められていた。
「……これは、白陵国の通貨? なぜ、玄翁様がこれを……」
白華が目を見開く。山奥に隠棲する仙人が、北の大国の貨幣を持つ理由。それは彼の正体の一端に触れる謎だった。
だが玄翁は深い皺を刻んだ笑みで答えるのみ。
「ほほ、昔は遠い土地まで薬草を取りに行ったものよ。無駄にはならん」
それ以上の追及はできなかった。白華は直感で悟っていた――玄翁は、はるか以前から自分たちの歩む道を見通していたのだ、と。
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旅立ち前日の夜、玄翁はささやかな宴を設けた。
山で摘んだ茸と薬草を使った煮込み、湖で釣った魚の塩焼き、そして特製の薬草茶。素朴ながら心のこもった料理が並ぶ。
白華と興華は、感謝と別れがたい思いを胸に、師と共に食卓を囲んだ。
「玄翁様、この六年間……本当にありがとうございました」
白華は深く頭を下げた。
「僕、強くなります。曹華姉さんを救って、この大陸を必ず護ります!」
興華の声は、まだ若さを含んでいたが、確かな力強さに満ちていた。
玄翁は二人を静かに見つめ、やがて短く頷く。
「よい。そなたらは、情を憎悪に変えず、情を力へと昇華させた。その道を歩めば、必ずや闇を越えられる。――行け。決して情を捨てるな。それこそが、そなたらの仙道の器を護る最後の砦じゃ」
その声は、別れの言葉であり、未来への祝福だった。
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翌朝。
山間にかかる霧が少しずつ晴れ、湖面に朝日が差し込む。白華と興華は背に荷を負い、玄翁の庵の前に立った。
白華は振り返り、幼き日から見守り続けてくれた師の庵を最後に見つめた。
「……行きましょう、興華」
「うん」
二人は並んで歩き出す。背後からは玄翁の姿がいつまでも見送っていたが、やがて霧に包まれ、その影は見えなくなった。
冷たい北風が、二人の頬を打った。しかし、その風は恐怖ではなく、新たな旅路への清冽な合図のように感じられた。
こうして白華と興華は、六年の修行を終え、北の大国・白陵国へ向けて第一歩を踏み出した。
その足取りは決して軽くはなかったが、揺るがぬ覚悟と情の灯火が、彼らの背を強く押していた。




