第四章 白華・興華伝十八・五 北へ向かう道
天脊山脈を下りきった先で、空気の質は劇的に変貌した。
仙境の澄み渡る冷気ではない。土と腐植土、そして生き物の汗と獣脂が混じり合った、剥き出しの「生の匂い」。白華はその一歩で、自分たちがもはや神域にはいないことを悟った。
「……ここからは、聖域の外ね」
興華も重く頷く。道は不格好に踏み固められ、轍が深く刻まれ、随所に焚き火の灰が打ち捨てられている。人が通る道――すなわち、欲望と争いが絶え間なく往来する道だ。
半日ほど進んだ先で、二人はひとつの集落に行き当たった。いや、「集落の残骸」と呼ぶべきか。
倒壊した柵、煤けた家屋、泥に塗れた井戸。子供たちは気配を殺してこちらを窺い、女たちは外套の内に短刀を隠し持っている。男たちの眼差しには、旅人への情けなど微塵もなく、武器を持つ者への剥き出しの警戒だけが刺さっていた。
白華は静かに一歩前に出る。
「……通りすがりの旅人です。水と、少しばかりの情報を分けていただければ」
声は鈴を鳴らすように柔らかく、けれど大地の底に届くような重みを持たせて。
認識阻害は使わない。――ここでは、異質さは死に直結するからだ。
沈黙の後、年老いた村長らしき男が枯れ木のような声で応えた。
「……白陵へ向かうのか」
白華は肯定も否定もしない。その沈黙を、男は「正解」と受け取ったように目を伏せる。
「最近はこの辺りも荒れ果てておる。盗賊も、徴発を名目にした兵も、区別がつかん。……ただ、野良犬どもより質の悪い連中がうろついとる」
興華の拳が、微かに、けれど鋭く強張る。
「兵……蒼龍国の者たちですか?」
「分からん。だが――“黒き龍”の印を掲げた者を見たという話はある」
白華の胸に、静かな戦慄が奔った。
黒龍宗。その言葉が、鼓膜の奥で警笛を鳴らした気がした。
その夜、二人は村外れの森に潜み、慎重な野営を張った。白華は焚き火を最小限の熾火に留め、興華は神経を研ぎ澄ませて霊力を地表に巡らせる。
そして――夜半。
「……来るわ」
白華の囁きとほぼ同時に、闇が蠢いた。
四人。足音は粗野だが、大気を断つ刃の気配は、ただの盗賊にしては「重すぎる」。
「女とガキか! 荷を置いて、大人しく従え!」
興華が弾かれたように踏み出そうとしたが、白華がその腕を制した。
「殺さない。……必要最小限の沈黙を」
白華は認識阻害の術を「半分だけ」解き放った。
完全に姿を隠すのではない。そこにいるのに焦点が合わず、像が二重に重なり、空間の距離感が狂う――「不可解な恐怖」を相手の脳に直接植え付ける術法。
襲撃者の一人が石もない場所で躓き、もう一人が錯乱して虚空を斬りつける。
混乱が闇を支配した。
その刹那、興華が爆発的な速さで動いた。
仙杖を振るわず、気功を纏わせた掌打を一閃。骨を砕くのではなく、経絡を強打して神経を麻痺させる「止め」の一撃。
数息の後、森は再び、粘りつくような静寂に包まれた。
地に倒れた男の懐から、一辺の布切れが零れ落ちる。白華は無言でそれを拾い上げ、消えゆく火にかざした。そこには――簡略化された、禍々しい黒龍の刻印。
「……やっぱりね」
興華が、滴る汗を拭いながら低く問う。
「姉さん。さっき……一瞬も、躊躇わなかったね」
白華は少し驚き、そして自嘲気味に微笑んだ。
「ええ。……“護るために止める”と、あの日、自分に誓ったから」
「……玄翁様の試練。ここでも、僕たちを護ってくれてるんだね」
白華は、遠く、永久に続くような北の地平を見据えた。
白陵国はまだ、険しき嶺の向こう側だ。けれど――物語は、既に動き出している。
「行きましょう、興華。白陵は“楽園”ではないかもしれない。でも、この闇を共に裂ける『盾』を見つけられる可能性が、あそこにはある」
二人は熾火を完全に踏み消し、再び歩き出した。
背後の闇の中で、黒龍宗の布切れが灰となり、夜風にさらわれて消えた。
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