第三章 白華・興華伝十 複雑な心境と残酷な推測
玄翁が告げた言葉は、安堵という名の殻を被った、あまりに鋭利な毒刃であった。
「――曹華は、あの憎むべき仇の懐に落ちた。だが殺されてはおらぬ。それどころか、その傍らで武と知略を、恐るべき速さで研ぎ澄ましておる」
銀の靄に浮かぶ、凛冽な妹の影。その背後にそびえ立つ、氷壁のような天鳳の威圧。
白華は、二つの像を交互に見つめ、激しく乱れる動悸を抑えきれずにいた。
胸を突き上げたのは、確かに、震えるような歓喜だった。
(……生きていた。あの子は、あの地獄を生き延びた……!)
それだけで、乾ききった魂が潤うのを感じた。だが、その純粋な光は、瞬く間に「知」という名の影に呑み込まれていく。
「……曹華……。でも、どうして……?」
白華は、血の気の引いた唇から声を絞り出した。
「なぜ、父様の仇である蒼龍国の……その将軍の側で、あそこまで自分を追い詰めているの?」
理知的な頭脳が、必死に整合性を探り当てる。脅されているのか。それとも、私たちを人質に取られたと聞かされているのか。だが、映し出された曹華の挙動には、囚われの身特有の卑屈さも、迷いも、一点の淀みもなかった。
あれは――自らの意志で「修羅」となることを選んだ者の、凄絶な姿だ。その帰結として、白華の脳裏に浮かんだのは、最悪の可能性であった。
「……まさか……」
指先が、目に見えて震え始める。
「蒼龍国……あるいは黒龍宗の禁忌の術で、曹華の『心そのもの』を書き換えられたのでは……?」
あの夜の川岸。牙們に蹂躙され、血を吐きながらも姉弟を逃がそうとした、あの誇り高い妹。もし、あの絶望の瞬間に、王族の「器」として利用するために心の根幹を汚染する術を施されていたのだとしたら。
今、鏡像に映る曹華の迷いなき強さ。それは彼女本来の魂ではなく、天鳳が作り上げた「精巧な人形」の輝きではないのか。白華の背筋を、耐え難い戦慄が這い上がった。
一方、興華の胸中もまた、嵐のように荒れ狂っていた。
「……曹華姉さん……」
十五歳の少年は、吸い寄せられるように映像を見つめていた。善悪の境界線が、足元から崩落していく。理解し難い光景。けれど――槍を閃かせる曹華の姿から、一瞬たりとも目を逸らせない。
強く、気高く、美しい。その峻烈なまでの「武」の極致に、父の仇の側にいるという事実さえ忘れ、憧憬を抱いてしまう自分。その背徳感に、興華は己を激しく恥じた。
生きている喜び。誇らしい強さ。そして、父への背信。相反する感情が、彼の未熟な魂を火炙りにしていた。
白華は、弟の動揺を敏感に察した。そして、長姉として、もっとも残酷な「剣」を抜く。
「……興華」
声は氷のように冷徹を装っていたが、その実、喉の奥は張り裂けそうだった。
「もし、曹華が……蒼龍の術に墜ち、あちら側の『道具』に変えられているのだとしたら」
一瞬、祈るように言葉を切り、そして断じた。
「その時は……私たちは、曹華と戦い、止めなければならない」
それは、再会を誓った妹に対し、死をもって報いるという血の覚悟。
白華は、震える己の手を隠すように、興華を射抜くような眼差しで見据えた。弟にだけは、姉が壊れてゆく姿を見せてはならない。興華は唇が裂けるほどに噛みしめ、溢れそうになる涙を堪えて、姉の覚悟を真っ向から受け止めた。
玄翁は、そんな二人を黙って見守っていた。湯気の立つ茶を一口含み、何も言わない。この混乱、この葛藤。それこそが、仙道の理を学ぶ者に必ず訪れる最初の試練。――力を得る前に、心が試される。玄翁は、そのことを誰よりもよく知っていた。
答えは、まだ出ない。だが姉弟は、この残酷な推測を胸に抱えたまま、次の修行へと歩みを進めることになる。
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