第三章 白華・興華伝八 仙道の才と知恵の盾
あの激流の夜から五年。白華と興華は、老仙・玄翁のもと、俗世から隔絶された天脊山脈の奥深く――神秘の湖畔で、厳しい日々を送っていた。風に揺れる針葉と静かな水面、朝霧に包まれた小屋。外界の喧噪は届かず、時の流れはここだけ別の速度で動いているように感じられた。
二人の幼い姉弟は、玄翁が語る“正しき仙道”の理を、一歩ずつ学び、身に着けていった。彼らの修練は単なる肉体の鍛錬に留まらず、心と知を鍛えるものであり、世俗的な力だけでは守れないものを護るための学びでもあった。
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長姉・白華(21歳)――知恵の盾
白華は、五年の歳月で冷静さと知性を大きく開花させた。かつて村で父と議論を交わしていた少女は、今や玄翁の下で薬草学や戦略、道術理論を体系的に学ぶ“知の守り手”となっている。
朝はまず書物の読み込みから始まる。薄暗い小屋の畳に座り、古い軍記や地図、薬草書を広げ、玄翁と詰めて議論する。昼は薬草を採り、調合し、傷の手当てや体調管理を行う。夜は気の流れや認識阻害の術の細かな差を体感で理解する稽古に明け暮れる。
彼女が習得した認識阻害の術は、当初は簡単な“気配の薄め方”に過ぎなかった。しかし今では、接触している者の存在を薄く覆い、敵の注意から完全に隠すほどまでに制御できるようになった。白華がそっと息を吐けば、周囲の風景がほんの少し歪み、視線の届く範囲が一瞬だけ遮られる――その技はまさに“知恵の盾”だった。
また、白華は知識の整理と応用に長けている。敵の行動パターンを推理し、退路を計算し、薬草で毒を和らげる術など、武力で解決できない場面での打ち手を次々と示す。彼女の存在は、興華の暴発しうる力を抑え、二人を生かすための理性そのものだった。
だが白華の胸中には常に重責がある。妹を残して逃がしたことの負い目、曹華の安否への不安、そして「姉」として弟を守らねばならないという覚悟。知は盾となるが、心が薄く裂けそうになる夜もあった。そんな時は、玄翁がそっと側に座り、古い詩を一つ、風のように囁くことで彼女を落ち着かせた。
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末弟・興華(15歳)――千年に一度の器
興華は十五歳となり、表面上はまだ少年の佇まいだが、その内側には誰もが息を呑むほどの力が芽生えていた。玄翁の教えのもと、気功の基礎を固め、身体能力を霊力で底上げする訓練を繰り返している。
力の片鱗は日常の所作にも現れた。小さな手でありながら岩を簡単に持ち上げ、険しい崖を駆け上がる。呼吸とともに筋肉が収縮するたび、彼の体から生まれる“気”が柔らかに光り、周囲の空気が微かに震えるのだ。玄翁はその様子を見て、初めて興華に微笑みを見せた。
だがその力は両刃の剣でもある。興華の感情が揺れると、制御の糸がほつれ、力は暴走する危険性を孕んでいる。怒りや恐怖が閃光のように彼を襲うと、周囲の木々が震え、石が裂けることすらある。玄翁の稽古はその抑制に最も時間を割いた。呼吸法、足の置き方、気の方向付け――一つでも狂えば力は怪物となる。
興華は日々、姉の顔を見て学ぶ。白華の沈着な判断に触れ、玄翁の導きに従い、少しずつ自分の内なる炎を鎮める術を覚えていった。時折見せる無垢な笑顔の奥に、やがて来るであろう大きな役割を秘めていることを、白華は静かに確信していた。
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二人は、それぞれの役割を胸に刻み、互いに補い合う存在となっていた。白華は知恵の盾として興華の周りを守り、興華は補い得ぬ力で姉を支える。玄翁はその五年を、二人が大陸の闇と対峙するための“基礎”に注いだ。
ある夜、湖面に満天の星が映るとき、白華はふと興華の額に手を当て、静かに誓った。
「いつか、曹華と再会してみせる。そして、この力で――父と皆のために、正しい未来を取り戻すのよ」
興華は小さく頷き、ぎゅっと姉の手を握り返した。湖畔に響くのは、まだ脆いが確かな二つの誓いの音だった。




