第二章 白華・興華伝四 老仙との対話と仙術の理
湯浴みを終えた白華は、老仙の用意した清潔な衣に袖を通した。粗末ながらも糸の質は上等で、どこか俗世とは違う、静謐な気配が纏わりついている。まだ名も素性も知らぬ老人に対し、白華は深々と頭を下げた。
「……御老人、この度は危ういところを助けていただき、本当にありがとうございます。私は白華と申します。こちらは弟の興華。私たちは、山の上の村から……逃れてきました」
老人は湯気の立つ茶を注ぎながら、まるで全てを知っているかのように、柔らかな笑みを浮かべた。
「ほほう、白華に興華か。よき名を持つ」
薬草の香りを含んだ茶の湯気が小屋に満ち、張り詰めた白華の神経をわずかに緩める。しかし、心に渦巻く疑念は収まらなかった。
「……御老人、ここは翠林国でしょうか? それとも、蒼龍国の支配下なのでしょうか……」
老人は茶を一口含み、ゆっくりと頷いた。
「ここは俗世の国境とは無縁の地。翠林国でもなく、まして蒼龍国の手の届く場所でもない。そなたらは今、仙道の理――人の世とは隔たれた、気と霊の流れに抱かれておるのじゃ」
白華は息を呑んだ。「仙道」という言葉が、現実の延長ではなく、異界を覗かされたような感覚を呼び起こす。老人は、彼女の心を見透かしたように続けた。
「さきほど、坊主が宙に浮いたのを見て驚いておったな。あれこそが儂の研鑽してきた仙術じゃ。仙術は妖しき術ではない。己の内に流れる生命の力――『気』を磨き、操ることで生まれる理よ。武人が剣を鍛えるように、気を鍛え、自在に使えば、天地の理すら従わせることができる」
老人の瞳は静かで深く、その言葉には荒唐無稽な響きよりも、不思議な説得力があった。
「そして……あの坊主、興華というたな。あの子の内には、尋常ならぬ気功の才が宿っておる。儂と同じく、いや、儂をも凌ぐかもしれぬ。いずれその力は霊力へと昇華し、さらに高みに至るであろう」
白華の胸に、あの夜の記憶が甦る。牙們に追われた絶望の中、抱きしめていた興華の身体から確かに温かな光が流れ出し、牙們の動きを止めた――。それは錯覚などではなかったのだ。
白華ははっきりと悟った。この老人はただの善意で助けたのではない。興華の血筋に秘められた才を見抜き、最初から導こうとしていたのだ、と。
白華の胸には、不安と同時に、かすかな希望が芽生えつつあった。




