第二章 白華・興華伝三 安息と姉の懊悩
白華は、意識を失った興華を背負い、老人に導かれるまま湖畔の小屋へと足を踏み入れた。
苔むした外観からは想像もつかぬほど、内側は磨き抜かれた板の間と清潔な調度によって整えられていた。簡素でありながら、空気そのものが凛として、まるで神域のような神秘的な気配を纏っている。
老人はまず、興華の容態を検分するように見つめた。
「坊主はまだ微睡みの中か。案ずるな、まずは横たえてやろう」
そう言うや否や、老人は携えていた杖を羽のように軽く振る。
刹那、白華の背にあった興華の身体がふわりと宙に浮き、見えざる揺り籠に抱かれるように、布団の上へと音もなく運ばれた。
「……えっ? あ、興華……!?」
白華は、その光景の異常さに息を呑み、動揺を隠せなかった。重力という理を容易く踏みにじるその業。老人は愉快そうに目を細め、静かに首を振る。
「ほほ、案ずるな。ただの風の悪戯じゃよ」
興華は柔らかな綿の上に降ろされると、ほどなくして安らかな寝息を立て始めた。それを見届け、白華はようやく肺の奥に溜まっていた熱い空気を吐き出した。
「娘さんや、まずは湯浴みをしてくるといい。血と泥にまみれては、お前の本質まで曇ってしまう。興華のことは儂が見ておいてやろう」
弟を独りにするのは身を裂かれるような不安があった。だが、先ほどの不可思議な業を見せられて、白華は直感していた。この老人は、俗世の善悪を超越した「何か」であり、少なくとも今の自分たちに害を成す存在ではないのだと。彼女は深く頭を下げ、その誘いに従った。
木桶から溢れる湯の温かさに包まれ、白華はようやく数日来の緊張を解いた。
しかし、肌を叩く湯水が、かえって胸の奥に閉じ込めていた不安を鮮明に呼び覚ます。
(曹華――)
目を閉じれば、自分たちを逃がすために牙們という化け物にしがみつき、死を賭して足止めを続けた妹の姿が浮かぶ。怒号と殺意。あの惨劇の中で、曹華は生き延びたのか。それとも、冷たい礫の上に果てたのか。暗い水底に引きずり込まれるような悪い想像が、彼女の胸を無慈悲に締めつけた。
そして、もうひとつの疑念が、白華の知性を離さない。
――あの夜、川岸で。
絶体絶命の瞬間、牙們が確かに動きを止めた。あの時、興華を抱きかかえていた白華は、身体の芯で感じていた。弟の小さな胸から、震えるほどに温かな「光」が奔流となって溢れ出し、凶刃を縛ったのだ。
あれは錯覚だったのか。それとも、父が隠し通そうとした王家の宿命が、あの幼子の内で目覚めようとしているのか。
なぜ、この浮世離れした老人は、出会ってすぐに自分たちを受け入れたのか。
白華は、湯から上がりながら確信に近い答えを導き出す。
「……興華の中に眠る『何か』を、この人は見抜いたのね」
彼女は濡れた髪を絞り、鏡の代わりに水盆に映る自分を厳しく見据えた。
「必ず、曹華と再会する。そのためにも、興華を護り通す――。それが知恵を授けられた長姉としての、私の戦い」
安息の地を得たはずの白華の胸中には、家族への思慕と、弟の秘められた力への畏怖が、静かな渦を巻いていた。
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