第二章 白華・興華伝二 神秘的な湖
意識の戻らぬ興華を背負い、白華は一歩、また一歩と湿った森の深奥へ足を踏み入れていた。
全身は激流に揉まれ、岩に打ち付けられた痣と裂傷で悲鳴を上げている。肺は焼けるように熱く、視界は疲労のあまり白く霞んでいた。
目の前をゆったりと進む老人が、何者なのか。救い主なのか、それとも死神の変装なのか。白華には知る由もなかった。だが、己ひとりの細腕でこの幼い弟を死の淵から引き戻すことは、もはや不可能だ――それだけは、痛いほど理解していた。
(信じるしかない。この人が誰であっても……興華を助けてくれるなら、私は魂だって差し出す)
白華は唇を噛み切り、覚悟を血の味とともに飲み下して、謎の老人の背を追った。
老人は一度も振り返らず、それでいて白華のたどたどしい歩調を測るように、鬱蒼とした原生林を抜けていく。道なき斜面を越え、幾重にも重なる巨大なシダの葉を掻き分けたその時、不意に視界が、眩いほどの光に塗り潰された。
白華は、思わず息を呑んで立ち尽くした。
そこには、俗世の汚れを一切拒絶したような、静謐の極致があった。
深い森の懐に抱かれるように、澄明な水を湛える巨大な湖。湖面は一点の曇りもない鏡となって、紺碧の空と千歳の緑を映し出し、朝靄の中で幻想的に揺らめいている。
驚くべきは、その水底だ。深淵から、まるで精霊の吐息のように淡く青白い光がほのかに立ち昇り、湖面を宝石のように煌めかせている。その光は、白華の泥にまみれた五感と疲弊した心に染み渡り、呪縛を解くように魂を浄化していく。
湖畔には、苔むした巨岩に寄り添うように、古びた木材で組まれた粗末な隠れ家が、ひっそりと佇んでいた。
「……綺麗……。こんな場所が、あったなんて……」
忘れていたはずの言葉が、震える吐息とともに漏れる。恐怖も疲労も一瞬だけ彼方へ去り、彼女はただ、その神秘的な美に魂を奪われていた。
老人は足を止め、静かに振り返った。その瞳には、湖面と同じ静かな光が宿っている。
「娘さんや。まずはその坊主を横たえ、休むがいい。……ここは、時の流れが外とは違う。お前たちの傷を癒やすには、これ以上の場所はあるまい」
その声音は枯れ木のようでありながら、森そのものが語りかけてくるような、不思議な威厳を孕んでいた。白華ははっとして正気に戻り、冷え切った興華の身体を背負い直すと、老人の後に続いて小屋の戸口をくぐった。
古びた板戸が閉まり、外の眩い光が遮断された瞬間、彼女を支えていた最後の緊張の糸が、ふっと音を立てて切れた。
こうして白華と興華は、絶体絶命の危機を脱し、この「仙境」とも呼ぶべき湖の畔で、新たな運命の扉を開くこととなる。
それは、興華の中に眠る「王家の力」を呼び覚まし、白華を「真理を説く知者」へと変貌させる、長く神秘的な修行と覚醒の序章であった。
読んでいただきありがとうございます。
作品、続きに興味を持っていただけたら、☆をお願いします。




