8話「悲しみは少しずつ幸せを蝕んで行った。」
前回のお話を呼んでいただきありがとうございます!!
カナの明かされた過去そしてあと1ヶ月で店を閉めなくてはならなくなった理由が今回で明かされます!!
是非読んでみてください!
父の料理が好きだった。
味はもちろんだけれど、ジムが料理をしているときの顔を見るのも好きだった。鍋の中をのぞき込み、火加減を確かめ、味見をして、ほんの少しだけ眉を寄せる。納得すると、今度は何事もなかったように鼻歌を歌い出す。
その横で、兄のドクが魚をさばいていた。
ドック「カナ、そこにある布を取ってくれ」
ドック「これ?」
ドック「そう、それ。ありがとう」
兄の包丁は、父ほど迷いなく動かなかった。ときどき身を崩してしまい、ドクはそのたびに悔しそうな顔をした。
ジム「急がなくていい。魚は逃げないからな」
ドック「魚は逃げなくても、客は待ってくれないよ」
ジム「待ってもらえる料理を作ればいい」
父はそう言って笑った。
ドックは納得していない顔をしていたけれど、包丁を置きはしなかった。私はその様子を見ながら、いつか兄が父と並んで厨房に立つところを想像した。
母のエミーは、出来上がった料理を味見していた。
エミー「ジム、今日の煮込み、いつもより香りがいいわ」
ジム「そうか? なら、あとでお前の分を少し多めによそっておこう」
エミー「私の分だけ?」
ジム「もちろん。店の分を減らすわけにはいかないからな」
エミー「まあ、ひどい人」
母はそう言いながら、嬉しそうに笑っていた。
そんな会話を聞くたび、私はこの店がずっと続いていくのだと思っていた。
父が料理を作り、兄がその隣で魚をさばき、母が客に声をかける。私は皿を運び、空いた卓を拭く。いつか大きくなったら、私も厨房で料理を覚えるつもりだった。
カナ「お父さん、私も魚をさばけるようになりたい」
ジム「そうか。じゃあ、まずは包丁を持つ前に、魚の名前を覚えよう」
カナ「名前?」
ジム「どんな魚なのか知らずに切ったら、魚に失礼だろう?」
ドック「父さん、それはさすがに魚も気にしないと思うけど」
ジム「お前は魚の気持ちが分かるのか?」
ドック「……分からないけど」
ジム「なら、決めつけるな」
兄は口を閉じ、私は声を上げて笑った。母も笑い、父は満足そうにうなずいた。
あの頃の店には、いつも人の声があった。
卓を囲む客の笑い声。厨房で鍋が鳴る音。父が料理を運ぶときの「お待たせしました」という声。食べ終えた客が、皿を前にして「今日もおいしかった」と言ってくれること。
父は、その言葉を聞くと決まって少し照れたように笑った。
ジム「また来てくれよ」
客が帰ったあと、父は空いた卓を見ながら、よくそう言っていた。
だから、最初に客足が減り始めたときも、私は一時的なものだと思っていた。
ある日、いつも昼どきに来る荷運びの男が姿を見せなかった。次の日は、近所の夫婦が来なかった。その次の週には、常連だった客の顔を、何日も見かけなくなった。
店が急に静かになったわけではない。少しずつ、少しずつだった。
卓がひとつ空く。料理を出す皿が減る。父が仕込む量を少し調整する。母が入口の方を見てから、何事もなかったように注文を取りに行く。
私は、理由を知らなかった。
カナ「お母さん、今日はいつもの人たち来ないね」
エミー「そうね。みんな忙しいのかもしれないわ」
カナ「明日は来るかな?」
エミー「来てくれるといいわね」
母は笑っていた。けれど、閉店後に売上を数えるとき、その笑顔が消えることがあった。
父は料理の手を抜かなかった。客が少なくても、仕込みを雑にすることはなかったし、味見をする回数も変わらなかった。
ただ、夜が深くなってから厨房に残ることが増えた。
ある晩、私はトイレに起きた。
家の中は暗く、廊下の床が足の裏にひんやりと感じられた。水を流して部屋へ戻ろうとしたとき、店の方から小さな音が聞こえた。
紙をめくる音だった。
父はまだ起きていた。
厨房の明かりが、扉の隙間から細く伸びている。私は何をしているのか気になって、そっと近づいた。
父は卓に紙を広げ、別の紙へ何かを書き写していた。ときどき元の紙に目を戻し、指先で行を追っている。いつも料理をするときとは違う、固い顔をしていた。
(お仕事かな……?)
声をかけようか迷った。けれど、父は私に気づかなかった。私は眠くて、目をこすった。
そのとき、父がふと顔を上げた。
ジム「カナ? どうした、こんな時間に」
カナ「トイレに起きたの。お父さん、まだ寝ないの?」
ジム「もう少しだけな。すぐ終わるよ」
カナ「それ、何を書いてるの?」
父は紙を重ねた。隠そうとしたのか、それともただ片づけただけなのか、幼い私には分からなかった。
ジム「少し、確かめておきたいことがあるんだ」
カナ「明日じゃだめなの?」
ジム「明日だと、遅いこともあるからな」
父はそう言ったあと、私の髪を撫でた。
ジム「ほら、もう寝なさい。明日は朝から手伝ってくれるんだろう?」
カナ「うん。お皿、いっぱい運ぶよ」
ジム「頼もしいな。じゃあ、父さんも早く終わらせるよ」
私はそれ以上聞かず、自分の部屋へ戻った。
翌朝には、父はいつもどおり厨房にいた。昨夜の紙のことも、あの固い顔のことも、私は聞かなかった。聞くほどのことではないと思ったのだ。
それから何日かして、私は夜中に目を覚ますたび、店の方に明かりがついていないか気にするようになった。
明かりがついている夜もあった。父が紙を広げているのを、遠くから一度だけ見たこともある。
けれど、私は近づかなかった。
父が何をしていたのか、あのとき聞いておけばよかったのだろうか。
今でも、ときどき考える。
事件が起きた夜のことは、よく覚えている。
その日は店を閉めるのが遅くなった。客は少なかったのに、片づけに時間がかかった。母は帳場の仕事をしていて、兄は厨房の道具を拭いていた。父は最後に火を確かめ、戸締まりをしていた。
私は眠気に負けて、先に寝ることにした。
布団に入って、どれくらい経った頃だっただろう。
喉が渇いて目を覚ました私は、水を飲もうと部屋を出た。家の中は静かだった。台所へ向かう途中、玄関の方で小さな音がした。
父が外套を羽織っていた。
カナ「お父さん?」
父は振り返った。驚いた顔をしたあと、すぐにいつもの優しい表情に戻った。
ジム「起こしてしまったか?」
カナ「ううん。お水を飲みに来ただけ。どこか行くの?」
ジム「少し用事があってな。すぐ戻るよ」
カナ「今から?」
ジム「そう、今からだ」
父は靴を履きながら、私の方へ手を伸ばした。頭を撫でる大きな手は、いつもと同じ温かさだった。
ジム「カナ。明日の朝、もし父さんが戻るのに遅れても、母さんの言うことをよく聞くんだぞ」
カナ「……遅くなるの?」
ジム「心配はいらないよ。すぐ戻ってくる。」
カナ「約束?」
父は一瞬だけ黙った。それから、私の目を見て笑った。
ジム「約束だ。必ず戻ってくるからね。」
私は安心してうなずいた。
カナ「じゃあ、おやすみなさい」
ジム「おやすみ、カナ」
父は玄関を出ていった。
扉が閉まる音を聞いて、私は水を飲みに台所へ向かった。コップの水は冷たかった。飲み終えると、私は自分の部屋へ戻り、もう一度布団に潜り込んだ。
父が出かけた理由を、私は知らなかった。
翌朝、父は帰ってこなかった。
母は朝食の支度をしていた。兄はいつもより早く起きていた。家の中には、いつもの朝と同じ音があったはずなのに、何かが違っていた。
母は何度も玄関を見た。兄は食卓に座ったまま、ほとんど何も食べなかった。
カナ「お母さん、お父さんは?」
母は返事をしなかった。
カナ「お兄ちゃん、お父さん、まだ帰ってないの?」
ドックは顔を上げた。何か言おうとして、唇を閉じた。
やがて、店の従業員が家に来た。母は玄関へ出て、その人の話を聞いた。私は少し離れたところに立っていたから、最初は言葉がよく聞き取れなかった。
事故があった。
父が巻き込まれた。
その言葉だけが、耳に残った。
カナ「……事故?」
母は私のところへ戻ってきた。顔色が悪く、いつもならきれいに整えている髪も乱れていた。
エミー「カナ……」
カナ「お父さんは? どこにいるの?」
母は私を抱きしめた。
それでも、父がどこにいるのかは教えてくれなかった。
私は、父がすぐに帰ってくると思っていた。昨夜、約束してくれたからだ。少し遅れるかもしれないと言っていた。だったら、もう少し待てばいい。
店の戸を開ける時間になっても、父は戻らなかった。
昼になっても、戻らなかった。
夕方になっても。
その日、厨房には父の声がなかった。
父が使っていた鍋は、いつもの場所にあった。包丁も、布巾も、きちんと片づけられていた。私は何度も厨房をのぞいた。父がいつものように立っていて、「どうした、カナ」と笑う気がした。
けれど、そこには誰もいなかった。
信じられなくて。あの日戻ってくるって言って出ていった父が……
もう戻って来ないなんて信じられるはずがなくて…
笑い声も怒った声も褒めてくれて頭を撫でてくれたあの手の温もりもまだ残っているのに…
それさえも流されてしまわれないかと思ってしまうほどに…泣いた。
家族みんなでぽっかりと空いた穴を涙で満たすかのように泣いたんだ。
そのあとからだ。
家族は少しずつ変わっていった。
最初のうち、ドックは店を手伝っていた。父がいなくなった厨房で魚をさばき、仕込みをし、母と一緒に帳場の仕事もした。うまくいかないことがあると、以前のように眉を寄せた。私はその横で皿を運び、兄の手元を見ていた。
カナ「お兄ちゃん、これでいい?」
ドック「ああ。そこに置いてくれ」
父ほど早いわけじゃないが店を守ろうと必死に働いてくれていたことを覚えている。
そうして過ぎていった。
けれど、兄は少しずつ家にいる時間が短くなった。
夜、店を閉める頃にはまだ帰ってこないことがあった。母が食事を残しておくと、深夜になってから戻ってきて、ほとんど口をつけずに部屋へ行った。朝、私が起きる頃には、もう出かけている日も増えた。
カナ「お兄ちゃん、最近どこに行ってるの?」
ドック「用事だよ」
カナ「毎日?」
ドック「……いろいろあるんだ」
兄はそれ以上、話さなかった。
以前なら、私が何度も尋ねれば、最後には困ったように笑って答えてくれた。今は、私の方を見ないこともあった。
それでも、兄は父の道具を粗末にはしなかった。
父が使っていた包丁を洗うときは、刃を傷めないように丁寧に拭いた。鍋を片づけるときも、取っ手の緩みがないか確かめていた。私はその様子を見て、兄はまだ父のことを忘れていないのだと思った。
そう思いたかったのかもしれない。
母も変わった。
客の前では笑顔を見せていたけれど、閉店後は帳場に座ったまま動かないことがあった。売上の記録を確かめ、何度も数え直し、最後には紙を閉じて目を伏せる。
店を続けるのは簡単ではなかった。
客足は戻らなかった。仕入れの量を減らし、従業員にも相談し、できることをひとつずつ試した。それでも、以前のように店を回すことはできなかった。
やがて、厨房に立つのは私と、残ってくれた数人の従業員になった。
私は父が教えてくれたことを思い出しながら、魚の名前を覚え、切り方を覚え、味を確かめた。父のようにはできなかった。兄のように手早くも動けなかった。それでも、店を開ける時間になれば、厨房に立った。
お客さんが少ない日も、料理を出した。
食べ終えた人が「おいしかった」と言ってくれると、私は父の顔を思い出した。父なら、きっと笑って「また来てくれよ」と言っただろう。
その言葉を、私も言うようになった。
カナ「ありがとうございました。また来てくださいね」
声に出すたび、少しだけ胸が痛んだ。
父が出ていった夜、私は何も知らなかった。
夜中に紙を書き写していたことも、何を確かめていたのかも。あの用事が何だったのかも。翌朝、事故があったと聞かされたあと、何が起きたのかを詳しく知ることもできなかった。
兄がなぜ帰りの遅い日を増やしていったのかも、私には分からない。
尋ねても、兄は答えてくれなかった。
今、私に分かるのは、父がもう店に戻ってこないということと、母と兄と私の暮らしが、あの日から変わってしまったということだけだった。
それでも、父の料理を忘れたくはなかった。
父が笑っていた厨房を、父が大切にしていた店を、簡単に手放したくなかった。
だから私は、今日も店の扉を開ける。
父が帰ってくると信じていた頃と同じように、厨房の火を確かめ、皿を並べ、客を待つ。
そうして時と共に刻一刻と父のいない店を蝕んで行った。
前触れもなく突然起きた不幸は店だけでなく私達家族をも蝕んだ。
お読み頂きありがとうございます!!
この後正義達はどのような選択をしていくんでしょうか!!そしてカナの運命は!?
続きは明日の24時頃に投稿します!!
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