7話「世界で1番の魚料理屋さん」
カナ「……私が5歳のころ、このお店はね――」
店の扉が開くたび、外の風と一緒に客の声が流れ込んできた。厨房からは魚を焼く音が聞こえ、炭火の香りが店の隅々まで広がっている。
私は、厨房の入口から中を覗いていた。
父は、まな板の上の魚に向き合っていた。大きな手で魚を押さえ、包丁を滑らせる。迷いのない動きだった。切り分けた身を皿に並べると、今度は火加減を確かめ、鍋の中を覗き込む。
父が何をしているのか、まだ全部は分からなかった。
けれど、父が料理をしているときの顔を見るのが好きだった。
父は真剣なのに、どこか楽しそうだった。料理ができあがるたび、客のいるほうへ目を向ける。客がひと口食べて笑うと、父の顔はもっと明るくなった。
カナ「パパ、今のお客さん、笑ってる!」
ジム「おう。うまいもん食べたら、笑いたくなるだろ?」
カナ「パパのお料理だから?」
ジム「そうだったら、うれしいな」
父は手を止めずに答えた。私はその横顔を見つめてから、客席へ顔を向けた。
卓を囲む客たちは、皿を指さしながら話していた。誰かが笑うと、向かいの人も笑う。料理を運ぶ店員も、忙しそうにしながら時折つられて口元を緩めていた。
私は、その景色が好きだった。
魚料理も好きだった。焼き上がった皮の香ばしい匂いも、鍋から立ち上る湯気も、父が味を確かめるときの小さなうなずきも。
でも、一番好きだったのは、料理を食べた人たちの顔だった。
カナ「私も、いつかパパみたいに作れる?」
ジム「作れるようになるさ。けど、いきなり包丁は駄目だぞ。まずは、手伝えることからだ」
カナ「うん!」
返事だけは一人前だった。
父が笑うと、私も笑った。何かを任せてもらえる日が、もう明日にも来るような気がしていた。
その日、私に任されたのは、洗った香草を小さな籠へ移す仕事だった。
私は葉を一枚ずつ確かめ、折れないようにそっと籠へ入れた。途中で一枚、床に落としてしまう。慌てて拾い上げたところで、父が振り返った。
ジム「おっと、床に落ちたものは使わないぞ」
カナ「ご、ごめんなさい……」
ジム「謝ることはねぇよ。失敗したら、次に気をつけりゃいい。これは別にして、もう一度やってみな」
父は新しい香草を籠の横に置いた。怒られなかったことにほっとして、私は小さく息を吐いた。
カナ「今度は落とさない!」
ジム「その意気だ」
私は両手で籠を抱え、今度こそ慎重に葉を並べた。仕事を終えて父に見せると、父は大げさなくらい真剣に確かめてから、満足そうにうなずいた。
ジム「よし。助かったぞ、カナ」
たったそれだけの言葉が、私にはとびきりの褒め言葉だった。
店の仕事がひと段落すると、今度は兄のドックが厨房にやってきた。
兄は私よりずっと背が高く、父の手元を真似するように、魚をさばく練習をしていた。まだ力の入れ方が安定しないのか、身の厚さはところどころ違っている。それでも、本人は真剣だった。
ドック「親父、ここ、もう少し薄く切ったほうがいいか?」
ジム「焦るな。包丁を押しつけるんじゃなくて、刃を使うんだ」
ドック「分かってるって」
ジム「分かってるやつは、そんなに眉間にしわを寄せねぇよ」
兄はむっとして眉間を指で伸ばした。私は隣から覗き込み、兄の皿を見た。
カナ「にぃ、こっちだけ分厚いよ」
ドック「うるせぇな。お前は香草を籠に入れてただけだろ」
カナ「ちゃんとできたもん!」
ドック「魚を切れるようになってから言え」
カナ「切れるようになるもん!」
私が言い返すと、兄は鼻を鳴らした。それから手元の魚を見直し、さっきよりも慎重に包丁を動かした。
私はその横顔を見ていた。兄は少し乱暴な言い方をすることもあったけれど、父の料理を覚えようとする姿は格好よかった。
私も、いつかあんなふうに魚をさばいてみたい。
エミー「2人とも、包丁を使うときはふざけないの。指を切ったら大変よ」
母が、布巾を手に厨房へ入ってきた。
ドック「ふざけてねぇよ、母ちゃん」
エミー「ドックはそう言うときほど、周りが見えなくなるでしょう?」
ドック「……見えてるって」
エミー「なら、カナがすぐ横にいることも分かっているわね?」
兄は言葉に詰まり、私から少しだけ場所を空けた。
カナ「にぃ、気をつけてね」
ドック「お前に言われなくても分かってる」
そう言いながら、兄は私が包丁の近くに寄りすぎないよう、さりげなく自分の反対側へ回した。
私はそれに気づかず、母の手を引いた。
カナ「お母さん! あーん!」
エミー「まあ、何かしら?」
カナ「パパのお料理、味見して!」
私が差し出したのは、父が味を確かめるために小皿へ分けてくれたひと口だった。母は少し身をかがめて、私の手からそれを食べた。
エミー「……うん。おいしいわ」
カナ「でしょ!」
エミー「ええ。あなたが作ったの?」
カナ「違うよ! パパ!」
ジム「ははっ、そこは自分で作ったって言うところじゃねぇのか?」
カナ「だって、パパのお料理だもん!」
私は当然のことのように言った。父は声を立てて笑い、母も目を細めた。
エミー「そうね。あなたは昔から、ジムの料理が大好きだものね」
カナ「うん! 大好き!」
その言葉を聞いて、父は少し照れたように鼻の下をこすった。けれど、すぐにいつもの調子に戻った。
ジム「よし、じゃあもっと腕を上げて、もっと自慢できる料理を作らねぇとな」
ドック「俺が作れるようになったら、親父よりうまくなるけどな」
ジム「おっ、言ったな?」
ドック「本当のことだろ」
カナ「私だって、にぃよりうまくなるもん!」
ドック「まだ魚も切れねぇくせに」
カナ「これから切れるようになるの!」
エミー「はいはい。2人とも、勝負するのはいいけれど、まずは手を洗ってきなさい。料理をする前の約束でしょう?」
カナ「はーい!」
ドック「分かってるって」
返事の声が重なった。兄は先に水場へ向かい、私はその後ろを小走りで追いかけた。
夕方になると、店の忙しさが少しずつ落ち着いた。
最後の客が帰り、卓が片づけられ、厨房の火が弱められる。店の中には、料理の香りと、仕事を終えた人たちの穏やかな声が残っていた。
家族は厨房の隅に集まり、出来たての料理を囲んだ。父は自分の皿より先に、母の皿へ魚を取り分けた。母はそれを見て、何も言わずに微笑んだ。
私は父と母を交互に見ていた。兄は自分の皿を抱え込むようにして食べている。おいしいものを前にすると、兄はいつも少しだけ無口になった。
ジム「カナ!いいか?俺が好きなもんはな料理じゃねぇ食って幸せそうに笑う客が好きなんだ!!それにカナの母ちゃんが俺の料理食ってうめぇって言ってくれた。だから!母ちゃんが愛してくれた料理をみんなに自慢してやりてぇのさ!!」
カナ「私も!パパの料理自慢したい!!」
ドック「俺も!まぁ俺の方がカナより上手く作れてるからな!!自慢したいなら俺のお手伝いでもしとけ!!この店は俺が継ぐんだ!!」
カナ「なっ!!!私が継ぐもん!!にぃよりぜっっったい!!!美味しく作れるようになるんだから!!」
ジム「はっはははは!!娘にも息子にも愛してもらったこの料理をもっと自慢しねぇとな!!!」
エミー「あら、もう私の自慢はしなくていいの?ふふっ」
父は一瞬きょとんとして、それから母へ顔を向けた。
ジム「何言ってんだ。お前のことだって、いつだって自慢してるさ」
エミー「まあ、口が上手いこと」
そう言いながらも、母の頬は少し赤くなっていた。
私は父と母の顔を見比べ、にこにこと笑った。兄は「ごちそうさま」と言いながら、皿に残った最後のひと口まできれいに食べた。
そのあと、私は父の隣にぴたりと座った。
カナ「パパ。私が大きくなったら、このお店でお料理してもいい?」
ジム「もちろんだ。カナが本当にやりたいならな」
カナ「本当にやりたい!」
ジム「そいつは頼もしいな。けど、料理は包丁が使えりゃいいってもんじゃねぇぞ。食べる人のことを考えて、手を抜かずに作るんだ」
カナ「うん。お客さんが笑ってくれるように作る!」
ジム「そうだ。それが一番だ」
父は私の頭を大きな手で撫でた。私はくすぐったそうに肩をすくめ、それでも父の手が離れるまで、じっとそこに座っていた。
兄が横から顔を出した。
ドック「店を継ぐのは俺だって言っただろ」
カナ「私も継ぐの!」
ドック「2人で継げるわけねぇだろ」
ジム「はははっ。なら、どっちがうまい料理を作れるか、これから見せてもらうとするか!」
エミー「ジム、煽らないの。2人とも本気にするんだから」
ジム「本気でいいじゃねぇか。うまい料理が増えるなら、俺は大歓迎だ」
兄と私は顔を見合わせた。
カナ「絶対、負けないからね!」
ドック「それはこっちの台詞だ!」
2人の声が厨房に響く。父は笑い、母も笑った。
その夜、布団に入ってからも、父の言葉を思い返していた。
お客さんが笑ってくれるように作る。
大きくなったら、自分も父の隣で魚をさばく。兄とどちらが上手いか競争する。母に味見をしてもらって、笑ってもらう。
そんな未来を思い浮かべるだけで、胸が弾んだ。
明日も店が開く。父が料理を作る。母が笑う。兄とまた言い合いをする。
そして、私もその中にいる。
私は布団の中で小さく笑い、目を閉じた。明日も父の料理を食べるのが、楽しみだった。
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第7話 注釈
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■ ジム
カナとドックの父。魚料理店を営み、料理を食べた客が幸せそうに笑うことを何よりも喜びとしている。
■ ドック
カナの兄。父の料理を誇りに思い、将来は店を継ぐつもりで魚をさばく練習をしている。
■ エミー
カナとドックの母。家族を見守り、夫の料理を愛している




