34話「倒しに来たよ。」
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前回の水曜日、数年ぶりの再会を果たしたアポカリとファティマ。
しかし、アポカリには森を、そして保護区を飛び出す前に、どうしても自分自身の手で決着をつけなければならない「因縁」が残っていました。
2年前、旅人たちと一緒でも逃げるしかなかった最強の魔獣――グラドゥーン。
16歳になったアポカリは、その刃で、過去の絶望を切り裂くことができるのか。
少年が森の外へ向かうための、最後の試練が始まります。
マフラ深林の奥、霧が水面を這う湿地帯。
古木の根が泥の中から突き出し、足を置ける場所は限られていた。
2年前、アポカリは、仲間たちと逃げ帰るしかなかった魔獣を、自分の力を確かめるためにここまで来ていた。
深く息を吐く。
「久しぶり、倒しに来たよ。」
グラドゥーンが泥水を弾き飛ばしながら、狂暴な顎を開いてこちらへ食らいついてきた。
アポカリは右へ跳んだ。牙の列がすぐ脇を通り過ぎ、濡れた地面に深い溝を刻む。着地した足が泥に沈みかけたが、踏ん張るより先に、今度は左へ身を投げた。グラドゥーンの頭部が横薙ぎに走り、背後の若木をまとめてへし折った。
アポカリ「っ……!」
息を呑む暇もない。
正面から受けるのは無理だ。アポカリは泥を蹴り、猛然と倒木の向こうへ走った。
太い幹を回り込むが、グラドゥーンはためらわず、倒木ごと押し潰すように頭を突っ込んできた。木が軋み、裂け、湿った破片が頬を打つ。アポカリは岩の出っ張りを必死に蹴って横へ逃れた。牙が岩肌を削り、欠片が飛ぶ。ほんの少し判断が遅れていたら、あの岩と一緒に砕かれていた。
アポカリは短剣を握り直しながら、呼吸を乱さないようにした。周囲には水をたたえた窪地、苔に覆われた岩、根をむき出しにした古木がある。足場は悪い。けれど、何もない場所で向き合うよりは、使えるものがある。
グラドゥーンが再び首を伸ばした。アポカリは古木の根元へ滑り込み、牙が幹に食い込んだ瞬間を狙って飛び出した。短剣を横から叩きつける。
ガンッ!
鈍い音がした。
アポカリ「なっ……!」
刃は鱗の表面を滑っただけだった。装甲と言っていいほど硬い鱗が、短剣の刃を弾き返す。手首に痺れが走り、指が一瞬ゆるんだ。
グラドゥーンが首を引いた。喉のあたりが不気味に膨らみ、口の端から濁った液が糸を引く。アポカリはその変化を見逃さなかった。
すぐさま距離を取る。岩陰へ回り込み、風上へ逃れようとした――その瞬間、水面の下で何かがうねった。
尾だ。
グラドゥーンは、濁った水に沈めていた尾を、逃げる先へ合わせて振り抜いた。水が壁のように跳ね上がる。アポカリが振り向いた時には、もう避けきれない距離だった。
アポカリ「くはぁ!!」
とっさに短剣を両手で構え、尾の一撃を斜めに受け止める。衝撃が腕から肩へ、肩から胸へ突き抜けた。身体が横へ弾き飛ばされ、泥の中を転がる。短剣が手から抜けそうになったが、指を食いしばるようにして握り込んだ。
尾の直撃だけは避けた。だが、砕けた岩の破片が脇腹を打ち、着地の衝撃も重なった。直後、肋骨のあたりに重い痛みが走った。
アポカリ「ぐっ……!」
息がうまく吸えない。肋骨のあたりが、呼吸するたびに内側から押し潰されるように痛む。アポカリは片腕で脇腹を押さえ、岩の陰まで這うように下がった。追撃を警戒しながら、ようやく少しだけ距離を取る。
吸って、吐く。短くなった呼吸を、無理にでも整えた。
アポカリ「いっ…」
痛みが頭の中へじわじわ広がっていく。考えようとするたび、脇腹の痛みが思考を押し流す。何を見て、どう動けばいいのか。その順番さえ、少しずつ分からなくなっていった。
グラドゥーンは、こちらが立ち上がるのを待ってはくれなかった。泥水を押し分け、頭を低くして近づいてくる。口が開く。牙が並ぶ奥に、アポカリの身体がすっぽり収まりそうだった。
あの時は、何もできなかった。仲間に守られ、危険だからと戦いから遠ざけられた。守られることしかできず、自分から誰かを守ることさえ許されなかった。あの時の悔しさは、今も消えていない。
逃げない
痛みはまだ消えない。むしろ、呼吸するたびに強くなる。それなのに、頭の中を埋めていた焦りや恐怖が、ゆっくりと一つのことへ集約されていき研ぎ澄まされていく。
間合いを感じるんだ。
こんなに大きな相手と戦ったことはない。頭の動きも、尾の長さも、攻撃が届く距離も、今までの相手とは違う。見誤れば一撃で終わる。
グラドゥーンが、また頭を持ち上げた。
アポカリは息を吸った。脇腹の痛みは残っている。それでも、さっきより少しだけ、頭が働いた。
グラドゥーンにとって、自分はもう敵ではないのかもしれない。傷つき、立つのもやっとの獲物。目の前にいるのは、捕食対象だ。ならば、相手が疑わずに食らいついてくる瞬間を使える。
真正面から口を開き、まっすぐに喰らいに来る。その一瞬だけ、頭の下には大きな隙ができる。
「まだだ…」と小さく呟く
アポカリは短剣を握り、岩の陰から動かなかった。グラドゥーンは、こちらがまだ抵抗するのを見て取ったのか、首を低くして一気に間合いを詰めてくる。
泥が爆ぜた。牙が迫る。
(………………今!!!)
アポカリは真下へ身を沈めた。牙の列が頭上を通り過ぎる。泥水が顔にかかり、濡れた鱗が視界を塞いだ。彼は地面すれすれに滑り込み、頭が通り過ぎる方向へ身体を合わせながら、開いた下顎の内側へ短剣を突き上げた。
ザッ、と刃が通る感触が手に返った。
「……しっ…通ったっ!!」
短剣は下顎の柔らかな部分を裂き、深く食い込んだ。グラドゥーンの巨体が跳ね上がる。轟音のような咆哮が湿地を震わせ、泥水が四方へ飛び散った。
だが、アポカリは喜びに浸らなかった。短剣を抜くより早く、身体を逃がさなければならない。
彼は岩の出っ張りに手をかけ、刺した勢いを利用して身体を滑らせた。泥の上を斜めに流れ、進行方向を変える。グラドゥーンの反撃に備え、頭の向きと尾の位置を確かめようとした。
――その先に、尾が待っていた。
高く持ち上がった尾が、ためらいもなく振り下ろされる。まるで小さな虫を叩き落とすような、無駄のない動きだった。
アポカリは首をひねった。尾は目のすぐ横をかすめ、直撃だけは免れた。だが、巨体から放たれた鞭のような一撃は、背後の岩を砕いた。砕けた岩が跳ね、地面が震える。その振動だけで身体の芯が揺さぶられた。
視界が傾いた。尾の風圧と岩の破片に煽られ、身体が横へ弾かれたのだ。足が地面を探して空を切る。
いつ岩にぶつかったのかも分からなかった。額に、生ぬるいものが流れる感覚がある。目の端を伝い、頬へ落ちた。
血、だろうな……
グラドゥーンは下顎の傷に苦しみ、泥の中で暴れ回っていた。尾が水面を叩くたび、波が岩を越えてくる。アポカリは岩にもたれ、霞む視界の中で短剣を探した。
少し先。ほんの数メートル先の岩の隙間に、短剣が突き刺さっている。
あれを掴めたとしても……どうにもならないかもしれないな…
指先に力が入らない。立ち上がるだけでも、目の前が暗くなる。それでも、アポカリは岩に手をついた。
こいつを倒したからといって、森のすべてを知ったことにはならない。自分が強くなったと証明できるわけでもない。それでも、こいつを倒さない限り、森の外へ出ることを自分自身が許せなかった。
……試してみる……か
ひとりで魔物を狩り続けた日々が、途切れ途切れによみがえる。何度も傷を負った。逃げるしかなかったこともある。死にかけたことだってあった。
その時、あの日と同じ感覚が、胸の奥に触れた。
母さんを傷つけた魔族への怒り。守れなかった自分への怒り。あの時、自分の中で何かが目を覚ましたような感覚だけは、今も忘れていない。けれど、その先のことは、ほとんど思い出せなかった。
胸の奥で、鼓動とは違う何かが脈を打つ。
「ドクン」
黒とエメラルドブルーが混じった髪から、ゆっくりと青が消えていった。濡れた髪が額に張りつく。一本、また一本と、黒に沈んでいく。
「ドクン」
周囲が、もう一段暗くなったように感じた。光が差し込まない湿地の森に、冷気が満ちていく。水面の揺れが止まったわけではない。それでも、空気だけが凍りついたようだった。
グラドゥーンが動きを止めた。
傷の痛みに暴れていた巨体が、ゆっくりとこちらを向く。目の前にいる少年に、何か異変が起きている。獲物が立ち上がろうとしている。それだけのことのはずだった。
ブワッ。
黒いモヤが、地面を這い、木々の根元を覆い、水面の上へと広がった。気づいた時には、湿地の一帯がその中に沈んでいた。
グラドゥーンは初めて、捕食者として知らなかった感覚を覚えた。
恐怖。
目の前にいる何かが怖い。先ほどまで敵だったもの。
弱り、捕食対象に成り下がったはずのもの。それが今は、何なのか分からない。何をするのかも、どれほど危険なのかも分からない。
分からないという事実そのものが、グラドゥーンの本能を揺さぶっていた。
アポカリはゆっくりと立ち上がった。額から流れた血が頬に残っている。髪は黒く、開いた目は真っ赤に染まっていた。その視線は、ただ一点――グラドゥーンだけを捉えている。
アポカリは歩き、岩に刺さった短剣を引き抜いた。
握り直す。足を開く。刃先を相手へ向ける。
その構えには、この2年間が刻まれていた。短剣を扱う基本をロウと何度も確かめ、魔物を狩るたびに動きを修正し、来る日も来る日も繰り返した構え。守りたいものを守れるように。守れなかったものを、一振りごとに心へ刻むように。何千、何万と振り下ろしてきた、その構えだった。
アポカリ「………くっ」
意識が、黒いモヤの中へ溶けていく。自分が自分でなくなるような感覚が、足元からせり上がってきた。これ以上は持たない。そう悟った瞬間、アポカリは地面を蹴った。
さっきまでとは比べものにならない速さで、グラドゥーンへ飛びかかる。
この一撃で決める
グラドゥーンの本能は、逃げろと告げていた。だが、初めて味わう恐怖が、その判断を鈍らせる。巨体がわずかに遅れた。次の瞬間には、身を翻して背を向け、泥水を蹴りながら逃げ出していた。
それでも、間に合わなかった。
グラドゥーンが振り向いた時
その右側面に――それはいた。
先ほどまでの捕食対象とは違う何かが、地面を踏みしめている。短剣が、真っ直ぐな軌道で振り下ろされた。
刃はグラドゥーンの頭部を捉えた。
グラドゥーンの首から先が切り離され、残った巨体が泥水を巻き上げながら暴れ回った。尾が地面を叩き、古木の根をえぐり、やがて動きが弱まっていった。
グラドゥーンは目を開いたまま、死んだ。
その姿を見届ける余裕は、アポカリにはなかった。
黒いモヤが止めどなく身体から流れ落ち、さらに周囲へ広がっていく。剣を持つ手が震えた。目の前の景色が遠のき、自分の意識まで闇に引きずられていく。
アポカリ「くっ……戻って来れない……」
声が、自分のものではないように聞こえた。踏みとどまろうとしても、足元の感覚が薄れていく。もう一度、胸の奥で何かが脈打った。
その時だった。
リリア『あなたにはずっと笑顔でいて欲しいの……』
母の声が聞こえた。
はっきりと、すぐそばにいるように。
アポカリは動きを止めた。黒いモヤの向こうで、母の顔を思い浮かべる。叱られた時の声も、食事を呼ぶ声も、何気なく笑った顔も。どれも、もう触れることのできないものだった。
それでも、その声だけは胸の奥に届いた。
黒いモヤが、ゆっくりと引き始める。水面を覆っていた影が薄れ、木々の輪郭が戻ってきた。赤く染まっていた目の色が戻り、黒くなっていた髪にも青みが差し戻されていく。
アポカリ「母さん……やったよ……。僕、強くなったでしょ? 今ならきっと、母さんだって守れるよ……」
言葉の終わりは、かすれていた。
アポカリは少しだけ笑った。それから、すぐに困ったように眉を下げる。
アポカリ「……こんな危険なことしてたら、母さん、喜ぶ前に怒るかな」
返事はなかった。湿地に残っているのは、砕けた岩と荒れた泥、そして動かなくなったグラドゥーンだけだった。
自分の力ってことでいいんだよね……
アポカリは短剣を下げ、倒れた巨体の首元を見下ろした。さっきまで自分を食い殺そうとしていた相手が、今はぴくりとも動かない。
アポカリ「……どうだ!」
誰に見せるでもないのに、少しだけ胸を張ってしまった。すぐに脇腹が痛み、顔をしかめる。
アポカリ「いたた……。あ、そうだ。魔獣核……」
魔獣核を探そうと、傷ついた身体をかばいながら首元を確かめる。どこにあるのか、どう取り出すのか。すぐには分からない。アポカリは無理に刃を入れず、まずは傷と身体の状態を確かめることにした。
(ギリギリだったなぁ……。なるべく、この力に頼らないで戦えるようにならなきゃ)
そして、もうひとつ。
(制御できるように頑張らないと……。周りに人がいなかったからよかったけど、またこんな状態になったら……)
きっとまた誰かを傷付けてしまう
激闘をお読みいただき、本当にありがとうございました……!
2年間の血の滲むような修行の成果、そして暴走しかけたアポカリを救った母リリアの優しい言葉。アポカリは己の過去に、見事な雪辱を果たしました。
そして――物語はいよいよ、マフラの森を飛び出し、外の世界へ。
次回、アポカリ編の最終回となる【新章・旅立ち編】を更新いたします!
ここからアポカリの物語は、外の世界で動く「別の主人公たち」の運命と交錯していくことになります。
次回の更新日時は【来週の水曜日 18:00】となります!
(※本日、この後22:00頃に、X(旧Twitter)にて今回のグラドゥーン戦を記念した宣伝ポストを発信します!よろしければプロフのリンクから覗いてみてください!)
アポカリの雪辱戦に「熱くなった!」「次からの旅立ちも応援したい!」と思っていただけましたら、ぜひ下にある【☆☆☆☆☆】の評価や、ブックマークでアポカリの旅路を応援していただけると、今後の執筆の物凄いエネルギーになります。どうぞよろしくお願いいたします!




