↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
英雄になるまでの旅路〜禁忌の森の少年、無能力の最強剣聖、嘘を見抜く転生者。3人の運命が交錯する〜王道群像ファンタジー!  作者: 皐月なる
5章「喪失」【アポカリ編】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/49

30話「戸の向こう」

アポカリは、戸に手をかけた。


 前なら、何も考えずに開けていた戸だった。採集から帰ってきた時も、外へ出る時も、そこにあるのが当たり前だった。今は、指先に力を入れるだけでためらってしまう。


 ロウもサナも、急かさなかった。


 アポカリは一度手を離し、息を吸い直した。それから、ゆっくりと戸を開けた。


 家の中は静かだった。


 アポカリは戸口で立ち止まり、空気を吸った。懐かしい匂いがした気がしたが、何の匂いだったのかは分からない。記憶に手を伸ばす前に、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 その時、部屋の奥に母が立っているように見えた。いつも声をかけてくれた、あの場所に。アポカリは息を止めた。母さん、と呼びかけそうになって瞬きをした。次に目を開けた時には、人影はなかった。窓から差し込む光が、床の上に伸びているだけだった。


 掃除されているのだろう。床に埃は積もっていない。物が散らばったままにもなっていない。部屋の隅も、以前と同じように片づいていた。


 それなのに、戸を開けた瞬間、アポカリは中へ入れなかった。


 いつもの挨拶が、喉まで上がってきた。


 ただいま。


 そう言えば、母さんが返事をしてくれる気がした。けれど、声にはできなかった。返事がないことを、自分の声で確かめたくなかった。


 ここに母さんがいた。


 そのことが、ただ分かった。


 採集から帰ると、母は籠の中をのぞき込んで、何を見つけたのか聞いてくれた。アポカリが夢中で話し始めると、母は手を止めて、最後まで聞いてくれた。たいしたことのない話で一緒に笑うこともあった。そんな時間が、明日も、その次の日も続くのだと思っていた。


 けれど、今は誰もいない。


 アポカリは床へ視線を落とした。もう覚えていないと思っていた、あの日のことが少しずつ戻ってくる。声。足音。倒れた母。握った手。自分の中から広がった冷たいもの。


 胸の奥がまたざわついた。


 ロウ「アポカリ」


 アポカリは顔を上げた。


 ロウ「無理なら、少しずつでいい。俺たちはここにいるからな」


 アポカリはうなずいた。何かを言おうとしたが、声は出なかった。それでも一歩、家の中へ入った。


 サナが後ろから続き、戸を閉めた。外の音が遠くなる。家の中は、以前と同じ静けさを保っていた。


 アポカリは部屋の中を見た。すぐに奥へ行くことはできなかった。見慣れた場所のひとつひとつに目が止まる。ここで母と話した。ここで採集の道具を広げた。ここで、帰ってきたことを伝えた。


 机の端に、小さな傷が残っていた。採集の道具を置いた時、うっかりつけてしまった傷だった。あの時、母は少し困った顔をして、それから、次は気をつけてねと笑っていた。アポカリも謝りながら、つられて笑った。あの傷は、ずっとそこにあった。あの時は、ただ失敗したと思っただけだったのに、今はその短いやり取りまで懐かしかった。


 ただ、それを口に出すことはできなかった。


 ロウ「掃除をしていた時、奥にしまってあったものを見つけたんだ」


 アポカリは視線を動かした。


 ロウ「俺たちが決めることじゃないと思って、そのままにしておいた。ちゃんと、お前自身に見てほしかったから」


 サナは静かにうなずいた。それ以上の説明はしなかった。


 アポカリは、ゆっくりと部屋の奥へ進んだ。一歩ごとに、足裏が床を踏む感触が伝わってくる。母と暮らしていた家なのに、どこか知らない場所へ入っていくようだった。


 途中で、何度か立ち止まりそうになった。ここで振り返れば、母さんが声をかけてくれるような気がした。いつものように、そんなところで立ち止まってどうしたの、と尋ねてくれるような気がした。


 けれど、振り返っても、ロウとサナがいるだけだった。


 アポカリは前を向き直した。もう少しだけ。何があるのか、見なければならない。そう思って、足を動かした。


 奥に着いた時、アポカリは足を止めた。


 そこに、何かがあった。


 何があるのか、すぐには確かめられなかった。目を向けたまま、ただ立ち尽くしていた。


 ロウもサナも、何も言わなかった。


 アポカリは一度、息を吸った。


 それから、目の前にあるものを、もう一度見た。


 アポカリの足は、そこから動かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。