30話「戸の向こう」
アポカリは、戸に手をかけた。
前なら、何も考えずに開けていた戸だった。採集から帰ってきた時も、外へ出る時も、そこにあるのが当たり前だった。今は、指先に力を入れるだけでためらってしまう。
ロウもサナも、急かさなかった。
アポカリは一度手を離し、息を吸い直した。それから、ゆっくりと戸を開けた。
家の中は静かだった。
アポカリは戸口で立ち止まり、空気を吸った。懐かしい匂いがした気がしたが、何の匂いだったのかは分からない。記憶に手を伸ばす前に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
その時、部屋の奥に母が立っているように見えた。いつも声をかけてくれた、あの場所に。アポカリは息を止めた。母さん、と呼びかけそうになって瞬きをした。次に目を開けた時には、人影はなかった。窓から差し込む光が、床の上に伸びているだけだった。
掃除されているのだろう。床に埃は積もっていない。物が散らばったままにもなっていない。部屋の隅も、以前と同じように片づいていた。
それなのに、戸を開けた瞬間、アポカリは中へ入れなかった。
いつもの挨拶が、喉まで上がってきた。
ただいま。
そう言えば、母さんが返事をしてくれる気がした。けれど、声にはできなかった。返事がないことを、自分の声で確かめたくなかった。
ここに母さんがいた。
そのことが、ただ分かった。
採集から帰ると、母は籠の中をのぞき込んで、何を見つけたのか聞いてくれた。アポカリが夢中で話し始めると、母は手を止めて、最後まで聞いてくれた。たいしたことのない話で一緒に笑うこともあった。そんな時間が、明日も、その次の日も続くのだと思っていた。
けれど、今は誰もいない。
アポカリは床へ視線を落とした。もう覚えていないと思っていた、あの日のことが少しずつ戻ってくる。声。足音。倒れた母。握った手。自分の中から広がった冷たいもの。
胸の奥がまたざわついた。
ロウ「アポカリ」
アポカリは顔を上げた。
ロウ「無理なら、少しずつでいい。俺たちはここにいるからな」
アポカリはうなずいた。何かを言おうとしたが、声は出なかった。それでも一歩、家の中へ入った。
サナが後ろから続き、戸を閉めた。外の音が遠くなる。家の中は、以前と同じ静けさを保っていた。
アポカリは部屋の中を見た。すぐに奥へ行くことはできなかった。見慣れた場所のひとつひとつに目が止まる。ここで母と話した。ここで採集の道具を広げた。ここで、帰ってきたことを伝えた。
机の端に、小さな傷が残っていた。採集の道具を置いた時、うっかりつけてしまった傷だった。あの時、母は少し困った顔をして、それから、次は気をつけてねと笑っていた。アポカリも謝りながら、つられて笑った。あの傷は、ずっとそこにあった。あの時は、ただ失敗したと思っただけだったのに、今はその短いやり取りまで懐かしかった。
ただ、それを口に出すことはできなかった。
ロウ「掃除をしていた時、奥にしまってあったものを見つけたんだ」
アポカリは視線を動かした。
ロウ「俺たちが決めることじゃないと思って、そのままにしておいた。ちゃんと、お前自身に見てほしかったから」
サナは静かにうなずいた。それ以上の説明はしなかった。
アポカリは、ゆっくりと部屋の奥へ進んだ。一歩ごとに、足裏が床を踏む感触が伝わってくる。母と暮らしていた家なのに、どこか知らない場所へ入っていくようだった。
途中で、何度か立ち止まりそうになった。ここで振り返れば、母さんが声をかけてくれるような気がした。いつものように、そんなところで立ち止まってどうしたの、と尋ねてくれるような気がした。
けれど、振り返っても、ロウとサナがいるだけだった。
アポカリは前を向き直した。もう少しだけ。何があるのか、見なければならない。そう思って、足を動かした。
奥に着いた時、アポカリは足を止めた。
そこに、何かがあった。
何があるのか、すぐには確かめられなかった。目を向けたまま、ただ立ち尽くしていた。
ロウもサナも、何も言わなかった。
アポカリは一度、息を吸った。
それから、目の前にあるものを、もう一度見た。
アポカリの足は、そこから動かなかった。




