29話「帰れない家」
その日も、アポカリは採集から戻り、籠を置いて手を洗った。水を拭き取る前に、ロウが声をかけた。
ロウ「アポカリ。少し、いいか」
アポカリ「……何?」
ロウ「サナも一緒に来てくれ。見てほしいものがあるんだ」
アポカリは、すぐには返事をしなかった。見てほしいものが何なのか、尋ねる気にもなれなかった。
アポカリ「分かった」
ただそう答え、ロウとサナの後についていった。
最初は、どこへ向かっているのか考えなかった。歩くことに意味があるわけでもない。二人が行くから、ついていく。それだけだった。
けれど、道が少しずつ見覚えのある形に変わっていく。木の根が道へ張り出した場所。足元に平たい石が埋まっているところ。枝が低く垂れ、通るたびに避けていた木。
アポカリは歩みを緩めた。
この道を知っている。
体が、先に気づいてしまった。
アポカリ「……どこに行くの?」
ロウは答えなかった。サナも振り返らず、歩く速さを少し落とした。
アポカリの胸の奥がざわついた。
あの日に似た感覚だった。理由は分からない。何かが起きる前に感じた、あの嫌なざわめき。心臓が一度強く打ち、息がうまく入らなくなる。
アポカリ「……やだ」
ロウが振り返った。
アポカリは道の先を見ていた。言葉が喉に引っかかり、もう一度、やだ、と小さく言った。
アポカリ「行きたくない」
サナは立ち止まり、アポカリの方を向いた。近づこうとはせず、彼が自分の足で立っていられる距離から声をかける。
サナ「分かってる。でも、お願い。どうしても、見てほしいものがあるの」
アポカリ「ここ、僕の家に行く道だよね……?」
ロウは、すぐに否定しなかった。
アポカリは首を横に振った。道の先を見たくなかった。あの時のことが、目を閉じなくても浮かび上がってくる。戸口。床。母さんの声。呼んでも、返事がなかったこと。
アポカリ「お願いだから……行きたくない」
ロウ「アポカリ。無理に急がせるつもりはない。ここで少し休んでもいい。けれど、お願いだから、一緒に来てほしい」
サナ「私たちが、あなたに見てほしいの。お願い」
2人は、それ以上何も言わなかった。
引き返していいとは言わない。でも、無理やり腕を引くこともしない。ここまで連れてきた理由を、言葉だけで説明しようともしなかった。
アポカリは道を見つめたまま立っていた。帰りたいと思っていたはずの家なのに、近づくほど足が動かなくなる。
後ろを向けば、来た道を戻れる。ロウの家に戻れば、今日はまたいつものように終わる。そう考えた途端、足が半歩だけ後ろへ下がった。
ロウもサナも、その動きを止めなかった。何かを言えば、アポカリはきっと従う。優しいから、2人の頼みを断れないのだと分かっていた。だからこそ、今は自分で決めるまで待つしかなかった。
やがて、アポカリは小さく息を吸った。
アポカリ「……分かった」
自分の声が、ずいぶん遠く聞こえた。
歩き出してからも、胸の奥のざわめきは消えなかった。ロウとサナは先へ行きすぎないよう、アポカリの歩幅に合わせた。誰も、急かさなかった。
木々の間が開ける。
家が見えた。
アポカリの足が止まった。
戸は閉まっている。屋根も、壁も、窓も、あの日のままだった。家の周りには落ち葉がたまっていない。戸口の脇もきれいにされている。誰かが、時々ここへ来て手を入れていたのだと分かった。
それでも、アポカリの目には何も変わっていないように見えた。
アポカリ「……」
ロウ「大丈夫か?」
声をかけられ、アポカリははっとした。いつの間にか、戸口を見たまま息を止めていたらしい。ゆっくり息を吐いても、胸の奥のざわめきは残っていた。
サナ「定期的に、ここを掃除していたの。家の中も、できる範囲でね」
アポカリはサナを見た。
サナ「その時に、部屋の奥で見つけたものがあるの。だから、あなたにも見てほしくて」
何が見つかったのかは、まだ教えてくれなかった。
アポカリは戸口へ目を戻した。ここを越えれば、母さんが暮らしていた場所に入ることになる。
手を伸ばすまでに、長い時間がかかった。




