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英雄になるまでの旅路〜禁忌の森の少年、無能力の最強剣聖、嘘を見抜く転生者。3人の運命が交錯する〜王道群像ファンタジー!  作者: 皐月なる
4章「追憶」【アポカリ編】

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24話「魔族という生き物」

家の戸は、半分開いていた。


 アポカリは息を切らしながら中へ飛び込んだ。


 アポカリ「母さん!」


 部屋の中で、リリアが魔族に腕をつかまれていた。


 あの時の魔族だった。リリアの顔から血の気が引いている。男は彼女を押さえつけながら、戸口に立つアポカリへ目を向けた。


 魔族「……そうか。アイツとの子か」


 リリア「アポカリ、来てはだめ!」


 アポカリは、母の声に動こうとした。けれど、何が起きているのか、頭が追いつかなかった。


 アポカリ「母さんを離せ!」


 魔族は鼻で笑った。


 魔族「デクシアの息子か。あいつは戦争へ行って、人間どもに殺された。今さら何を守りに来た?」


 アポカリ「父さんを……知ってるの?」


 魔族「知っているとも。あいつがいなければ、あの時、女を始末できていた」


 リリアの顔が強張った。


 魔族「邪魔をしたくせに、戦場であっけなく死んだ。つまらん男だったな」


 リリア「あなた……!」


 魔族はリリアの腕を乱暴に引き、再び彼女へ手を伸ばした。


 アポカリ「やめろ!」


 考えるより先に、アポカリは駆け出していた。母をつかんでいる腕へ飛びつき、力いっぱい引き離そうとする。


 魔族「邪魔だ!」


 魔族の腕が振られた。


 アポカリの体は床から浮き、壁際へ吹き飛ばされた。背中を打ち、息が詰まる。目の前が白くなり、しばらく何も聞こえなかった。


 アポカリ「っ……!」


 体を起こそうとしたが、腕に力が入らない。それでも、母の姿を探した。


 リリアは魔族から離れた場所に倒れていた。起き上がろうとしているが、足が震えている。


 魔族「お前も邪魔をするのか。親子そろって、面倒なことだ」


 男がアポカリへ歩み寄ってくる。


 アポカリは床を押して後ずさった。怖かった。体が思うように動かない。短剣は家の中にあるはずなのに、どこに置いたのか思い出せない。


 魔族「まずはお前から始末してやる」


 男の影が、アポカリの上に落ちた。


 その瞬間、リリアが立ち上がった。


 リリア「やめて!」


 彼女はアポカリの前へ飛び込んだ。


 鈍い音がした。


 リリアの体が揺れ、服に赤い色が広がった。


 アポカリ「……母さん?」


 リリアは何かを言おうとしたようだった。けれど声は出ず、そのまま膝から崩れ落ちた。


 アポカリは、すぐに動けなかった。


 何が起きたのか分からない。母が倒れている。床に血が落ちている。さっきまで聞こえていた声が、急に遠くなった。


 アポカリ「母さん……?」


 返事はなかった。


 アポカリは這うようにして母のそばへ行った。手を伸ばしたのに、触れる直前で止まる。どうしていいのか分からない。起こせばいいのか。傷を押さえればいいのか。医者を呼べば、あの日のように助けてくれる人が来るのか。


 アポカリ「ねえ、母さん。聞こえる? 僕だよ。アポカリだよ」


 リリアの目が、わずかに動いた。


 それを見た瞬間、アポカリは母の手を握った。手は冷たくなり始めている気がした。


 アポカリ「待って。今、誰か呼んでくるから。だから……」


 声が震えた。言葉が続かない。母の手を握る指に力が入る。何かをすれば助かるはずだ。何かをしなければいけない。なのに、何をすればいいのか分からない。


 魔族が背後で笑った。


 その音が、アポカリの耳に届いた。


 胸の奥で、何かが弾けた。


 音がしたように思えた。小さな音ではなかった。体の内側に押し込められていた何かが、ひび割れて一気に広がるような感覚だった。


 アポカリは顔を上げた。


 黒いモヤが、足元から広がった。


 床を這うように流れたそれは、部屋の隅へ、戸口へ、壁の向こうへと一瞬で広がっていく。家の中の空気が急に冷たくなった。息を吸うたび、肺の奥まで冷えたものが入り込むようだった。


 魔族「……何だ、これは」


 窓の隙間から風が吹いたわけではない。火が消えたわけでもない。それなのに、部屋の温度が落ちていく。壁も床も、黒い影に沈んで見えた。


 アポカリの髪から、青みを帯びた黒が消えていった。


 一本一本が、夜よりも深い黒へ変わる。顔を上げた目は、赤く光っていた。


 アポカリ自身は、自分に何が起きているのか分かっていなかった。ただ、目の前に母が倒れている。血が流れている。あの魔族が、母を傷つけた。そのことだけが、頭の中を埋め尽くしていた。


 魔族は一歩、後ずさった。


 体が動かない。


 足を動かそうとしても、見えない重みが肩から背中へとのしかかっている。冷気が皮膚を刺し、呼吸をすることさえ難しくなった。魔族として生きてきた男は、これまで何度も敵の殺気を感じてきた。強い相手を前にした恐怖も知っている。


 だが、目の前の少年から放たれるものは、そのどれとも違っていた。


 強い、という言葉では足りない。


 敵意を向けられていると分かるのに、何をされたのか理解できない。身体が逃げろと叫んでいるのに、足が床へ縫いつけられたように動かない。自分より強い相手に出会ったのではない。自分が知っている力の尺度そのものが、役に立たなくなったようだった。


 魔族「お、お前は……なんなんだ…」


 アポカリは答えなかった。


 赤く光る目が、男を見据えた。


 その視線に射抜かれた瞬間、魔族は息を詰まらせた。少年の姿をしているのに、そこにいるのが本当に少年なのかさえ分からなくなる。黒いモヤが足元を包み、冷たさが骨の奥へ染み込んでくる。


 魔族は歯を鳴らした。


 魔族「くそっ……!」


 逃げなければ。


 そう思った瞬間、体がわずかに動いた。男は後ろへ飛び退き、戸口へ向かって走った。振り返る余裕もなかった。黒いモヤが追ってくるのか、あの目がもう一度自分を見るのか、それを確かめることすらできなかった。


 戸がぶつかる音がした。


 魔族の気配が遠ざかっていく。


 アポカリは、追いかけなかった。


 母がいる。


 そのことを思い出し、彼はゆっくりと振り返った。黒いモヤはまだ家の中を覆っている。冷たい空気が頬を撫でた。アポカリは母のそばへ膝をつき、震える手で肩に触れた。


 アポカリ「母さん。ねえ、母さん……」


 リリアの呼吸は浅かった。目を開けているのもつらそうで、唇がわずかに動いている。


 アポカリ「今、助けるから。大丈夫だから……」


 自分でも、何を言っているのか分からなかった。母を安心させたかったのか、自分にそう言い聞かせていたのかも分からない。


 リリアは、息子の頬に手を伸ばそうとした。指先が少し動いただけで、腕は力を失った。それでもアポカリは、その手を両手で包んだ。


 リリア「……アポカリ」


 アポカリ「うん。ここにいるよ。僕、ここにいるから」


 リリアは、かすかに笑った。


 リリア「大好きよ……私の、大切な子……」


 アポカリ「母さん……?」


 リリアの目が、ゆっくりと閉じた。


 手から、力が抜けた。


 アポカリは母の顔を見つめた。何度も名前を呼んだ。肩を揺すった。手を握り直した。けれど、母はもう返事をしなかった。


 アポカリ「母さん? ねえ、母さん……!」


 声が大きくなる。返事はない。


 アポカリ「いやだ……いやだよ、母さん! 起きてよ!」


 叫び声が家の中に響いた。涙で視界が歪み、母の顔が見えなくなる。アポカリは何度も目をこすったが、涙は止まらなかった。


 黒いモヤは収まらない。


 床を這い、壁を覆い、開いた戸口から外へ流れ出していた。冷気は家の外まで広がり、森の音さえ遠ざかっていくようだった。


 ふと、アポカリは玄関のほうを見た。


 そこに、ファティマが立っていた。


 彼女は戸口の向こうから、こちらを見ていた。いつもの笑顔はない。目を見開き、顔をこわばらせ、目の前にいるものを恐ろしい何かとして見ている。


 アポカリには、その表情が理解できなかった。


 どうして、そんな目で見るのだろう。


 どうして、母が倒れているのに。


 どうして、何も言わないのだろう。


 さっきまで一緒に森を歩いていた。父の話を聞いてもらった。母を大切にしてね、と言ってくれた。そのファティマが、今は玄関に立っている。


 混乱した頭の中で、言葉がばらばらに結びついた。


 アポカリ「……ファティマ?」


 ファティマは一歩も動かなかった。彼女の視線は、血を流して倒れているリリアと、黒いモヤに包まれたアポカリの間を行き来していた。


 アポカリの胸が、ひどく痛んだ。


 母を失ったことも、何が起きたのか分からないことも、すべてが一度に押し寄せてくる。そこに、ファティマの恐怖した顔が重なった。


 アポカリ「……お前が、連れてきたの?」


 ファティマ「ち、違う……私は、声が聞こえて……」


 言葉が途切れた。ファティマはアポカリのあとを追ってきただけだった。森の道で家の方から言い争う声と叫び声を聞き、何かあったのではないかと心配になって走ってきたのだ。けれど、戸口から見えたのは、血を流して倒れたリリアと、黒いモヤに包まれたアポカリだった。


 ファティマには、何が起きたのか分からなかった。恐ろしくて、すぐに近づくこともできなかった。


 アポカリには、その沈黙が別の意味に見えた。


 母さんが襲われたこと。あの魔族がここに来たこと。自分と友達になったファティマが、今ここにいること。混乱した頭の中で、それらが無理やり結びついていく。何かを考えなければ、母の死を受け止めてしまいそうだった。


 アポカリ「出ていけ!」


 自分の声が、ひどく遠く聞こえた。


 アポカリ「出ていけ! 僕の家から、出ていけ!」


 黒いモヤが、床を走った。


 ファティマの足元へ向かって、黒い影が一気に伸びる。ファティマは息を呑み、反射的に後ろへ下がった。


 ファティマ「アポカリ……!」


 その声は、いつもの彼女の声とは違っていた。恐怖に震え、今にも泣き出しそうだった。


 アポカリには、その声を聞く余裕がなかった。


 ファティマは踵を返し、森へ逃げた。黒いモヤが戸口から追うように流れ出す。彼女の姿は木々の向こうへ消え、足音も聞こえなくなった。


 アポカリは、母のそばに立とうとした。


 けれど、膝に力が入らなかった。視界が傾き、黒いモヤがどこまでも広がっていく。耳の奥で、何かが鳴っていた。


 アポカリ「……母さん……」


 伸ばした手は、母に届く前に落ちた。


 アポカリの意識は、そこで途切れた。

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