21話「僕より昔のこと、僕の昔のこと」
翌日の夕方、アポカリは採集から帰ると、籠を片づけてからリリアのそばに座った。
昨日の話が、頭から離れなかった。父が母を助けたこと。母が自分から会いに行ったこと。まだ生まれていない自分に、森を歩く約束をしていたこと。
アポカリ「母さん。父さんって、魔族だったんだよね?」
リリアは手を止めた。
リリア「……どうしてそう思ったの?」
アポカリ「昨日、兵士だったって話してくれた時、母さんは人間の兵士だとは言わなかったから。ずっと気になってたんだ」
リリアは静かにうなずいた。
リリア「そう。あなたのお父さんは魔族だったの」
アポカリはしばらく黙っていた。驚きはあった。けれど、父の話を聞いてから、どこかでそうなのではないかと思っていたのかもしれない。
アポカリ「集落のみんなは、知らないんだよね」
リリア「ええ。あの人は人間の姿に擬態できたから、みんなには人間として見えていたの。私も、あの人が魔族だと知った時は驚いたわ。でも、あの人があの人であることは変わらなかった」
アポカリ「怖くなかった?」
リリア「最初は、少しだけ。でも、私を助けてくれた人で、何度も話して、好きになった人よ。種族を知ったからといって、急に別の人になるわけじゃないでしょう?」
アポカリはうなずいた。
リリア「あなたには、ちゃんと話しておこうと思っていたの。お父さんのことも、あなたが生まれた時のことも」
リリアは椅子に座り直した。
リリア「あなたが生まれた時、私は本当に嬉しかった。あの人がそばにいなかったのは寂しかったけれど、あなたを抱いた時、あの人が残してくれたものを大切にしようと思ったの」
アポカリ「僕、赤ちゃんの時はどんなだった?」
リリア「……大変だったわ」
母の表情が、少しだけ曇った。
リリア「あなたは、生まれてからずっと、苦しそうに泣くことが多かったの。抱いても、あやしても、なかなか泣き止まない日があってね。眠れたと思っても、また苦しそうに泣き出す。私は、何が起きているのか分からなかった」
アポカリは思わず、自分の手を見た。そんな幼い頃のことは覚えていない。
リリア「それが、4歳になるまで続いたのよ。もちろん、いつもというわけではなかったけれど……苦しそうな顔を見るたび、どうしてあげればいいのか分からなかった」
リリアの声は静かだった。過去のことを話しているのに、指先が器の縁を何度もなぞっていた。
リリア「ある日、私は採集から帰ってきた。家に入ると、あなたが床に倒れていたの」
――あの日。
籠を下ろす間もなく、リリアはアポカリのもとへ駆け寄った。幼い息子は体を丸め、苦しそうに呼吸をしていた。名前を呼んでも、いつものように泣き声を上げることさえできない。
そして、体の周りには黒いモヤが漂っていた。
それが何なのか、リリアには分からなかった。煙のようにも見えるのに、火の気はない。手を伸ばすのも怖かった。それでも、息子を放っておくことなどできなかった。
リリア「アポカリ! ねえ、どうしたの。お願い、返事をして」
小さな肩に触れる。体は熱いのか冷たいのかも分からず、リリアの手は震えた。
誰かを呼ばなければ。医者を探さなければ。けれど、どうすればいいのか分からない。息子の苦しそうな顔を見るほど、何もできない自分が悔しかった。
リリア「お願いだから……この子を連れていかないで」
声に出した瞬間、涙がこぼれた。
夫を失ったばかりか、息子まで失うのか。そんなことを考えたくなかった。アポカリは自分のすべてだった。何としてでも助けたかった。
その時、戸を叩く音がした。
知らない女の人が立っていた。リリアが顔を上げると、その人は家の中の様子を見て、すぐにアポカリのそばへ向かった。
女「診せてください。私は医者です」
リリア「お願いです、この子を……助けてください」
女は余計なことを尋ねず、アポカリの様子を確かめ始めた。リリアには、その人がどこの誰なのか分からなかった。なぜここに来たのかも、どうして医者だと名乗ったのかも分からない。
それでも、今はその言葉に縋るしかなかった。
リリアはそばで見守りながら、何度も息子の名を呼んだ。やがて、アポカリの苦しそうな様子は少しずつ落ち着いていった。
その日を境に、あの時のようなことは起きなくなった。
――現在。
リリアは話を終えると、長く息を吐いた。
アポカリ「その人、どこの人だったの?」
リリア「分からないの。名前も、どこから来たのかも、詳しく聞けなかった。ただ、あなたを診てくれて、それから同じことは起きなくなったわ」
アポカリ「……そうなんだ」
リリア「今思い出しても、あの時は怖かった。あなたが苦しんでいるのに、私は何もできなかった。あの人を失ったあとで、あなたまで失うのかと思ったら……怖くて、仕方がなかったの」
リリアはアポカリの頬に手を添えた。
リリア「だから、あなたを大切に育ててきた。少し心配しすぎたこともあるかもしれないわね」
アポカリ「……ううん。僕、母さんに大切にされてるって分かってるよ」
リリアは笑った。けれど、目元には薄く涙がにじんでいた。
アポカリ「話してくれてありがとう。父さんのことも、僕が小さかった時のことも」
リリア「聞いてくれてありがとう。あなたが大きくなったら話そうと思っていたのに、いつの間にか、きっかけをなくしてしまっていたのね」
アポカリ「僕も、聞きたかった。でも、母さんが悲しそうになるのは嫌だったんだ」
リリア「分かっていたわ。だからこそ、今は話しておきたかったの」
リリアは息子を抱きしめた。アポカリも母の背中へ腕を回した。
しばらく、二人は何も言わなかった。
【注釈】デクシア:120歳の魔族で、一般兵士。心優しく、一般兵士より一段上の戦闘力を持ち、短剣を使った素早い戦い方をする。人間の姿に擬態でき、短時間だけ身体能力を高められる。




