20話「あの日のこと」
夕食を終えたあと、リリアは湯を入れた器を二つ、食卓に置いた。
アポカリは向かいに座ったものの、いつもより落ち着かなかった。母が何を話すつもりなのか、気になって仕方がない。けれど、自分から尋ねるのもためらわれた。
リリア「そんなにかしこまらなくてもいいのよ」
アポカリ「かしこまってないよ」
リリア「そう? さっきから器ばかり見ているわ」
アポカリ「……何を話すのかなって思って」
リリアは小さく笑った。
リリア「そうよね。あなた、お父さんのことをあまり聞かなかったでしょう?」
アポカリ「うん。母さんが話したくないのかなって」
リリア「やっぱり。あなたは優しいから、私が悲しくなると思っていたのね」
アポカリは目を伏せた。そう思っていたのは本当だった。
リリア「でも、悲しいから話せないことと、話したくないことは違うの。私はね、あなたにお父さんのことを知っていてほしい」
リリアは器を両手で包み、しばらく湯気を見ていた。
リリア「17年前のことよ。私は今よりずっと若くて、採集に出る時も、今ほど遠くまで行かなかったの」
アポカリは黙って聞いていた。
リリア「保護区の外側に近い場所へ、薬に使う草を探しに行った日があったわ。いつも通る道から少し離れたところでね」
その時の景色は、今も忘れられない。
――17年前。
昼の光が木々の隙間から落ちていた。リリアは籠の中を確かめ、採った草を傷めないように並べ直した。もう少し探せば、必要な分がそろう。そう考えて足を進めた時、背後から枝を踏む音がした。
振り返った先に、魔族がいた。
リリアよりもはるかに大きな体。近くに立たれただけで、木々の間が狭くなったように感じた。魔族はリリアを見下ろし、ゆっくりと口元を歪めた。
魔族「こんなところに女がひとりか」
リリアは後ずさった。助けを呼ぼうとしたのに、喉が塞がったように声が出ない。
魔族「保護区の端まで来るとは、運が悪いな」
リリアは走ろうとした。けれど、腕をつかまれた。振りほどこうとしても、指が食い込むほど強く握られ、体は簡単に引き戻された。
リリア「や……っ」
声はほとんど息になった。
周囲に人影はなかった。採集に来る者が通る道は、ここから少し離れている。どれだけ叫んでも、誰にも届かないかもしれない。その考えが浮かんだ瞬間、足から力が抜けそうになった。
魔族はリリアを地面へ押さえつけた。彼女は必死に逃れようとしたが、体格も力も違いすぎた。腕を動かすことさえ難しく、恐怖で呼吸が乱れた。
魔族はリリアの衣服に手をかけた。彼女が必死に抵抗すると、拳が頬を打った。視界が揺れ、地面の冷たさが頬に伝わる。リリアは痛みで息を詰まらせたが、魔族の手を振りほどくことはできなかった。
魔族「少し遊んでから殺して、死体を保護区の外に置いておけばいい。こんな場所でひとり消えたところで、誰も気づかん」
その言葉で、リリアの中から最後の希望が消えた。
逃げられない。声も出ない。誰も来ない。
もう家に帰れないのだと思った。母や、集落の人たちの顔が浮かんだ。あの人たちに何も伝えられないまま、自分はここで死ぬのだろうか。
魔族が再びリリアに手を伸ばした。彼女は身を縮め、目を閉じた。次に何をされるのか考えることさえ怖く、ただ、誰か来てほしいと願った。
その時だった。
魔族「誰だ!」
体にかかっていた重みが、不意に消えた。
リリアが目を開けると、魔族の腕をつかんでいる男がいた。人間の姿をした、ひとりの兵士だった。彼は相手の腕を押し返し、リリアと魔族の間に立った。
兵士「離れろ」
短い声だった。怒鳴ってはいない。それなのに、男の立ち方には迷いがなかった。
魔族「人間が、俺に指図するのか」
兵士「女から離れろと言った」
魔族が殴りかかる。兵士は体をずらし、相手の腕を受け流した。大きな体が勢いを失い、地面へ膝をつく。兵士は追い打ちをかけることなく、リリアから魔族を遠ざけた。
魔族は舌打ちし、兵士を睨みつけたあと、森の奥へ退いていった。
その場に静けさが戻る。
兵士はすぐにリリアのそばへ膝をついた。近づく前に、手を伸ばしかけて止める。
兵士「怪我はあるか。立てるか?」
リリアは答えようとした。けれど、喉が震えるだけで声にならなかった。
兵士「無理に話さなくていい。ここを離れよう。歩けないなら、肩を貸す」
その言い方が、ひどく優しかった。
リリアは差し出された手を見た。震える指を伸ばすと、兵士は乱暴に引っ張らず、彼女が立てるように支えてくれた。
兵士の顔を見上げた時、リリアは思った。
――かっこいい。
恐怖が消えたわけではない。体はまだ震えていた。それでも、目の前の人が来てくれたことが、信じられないほど嬉しかった。
リリアはその時のことを話し終え、目の前のアポカリを見た。
リリア「その人が、あなたのお父さん。デクシアよ」
アポカリ「……父さんが、助けてくれたんだ」
リリア「ええ。あの時は、顔を見ている余裕なんてなかったはずなのに、私は助けてもらった瞬間から、あの人のことをかっこいいと思っていたの」
アポカリ「一目惚れだったの?」
リリア「そう。最初からね」
少し照れたように笑う母を見て、アポカリの緊張がわずかにほどけた。
リリア「それから、何度か会うようになったの。あの人は兵士だったから、保護区の周りに来ることもあった。会うたびにお礼を言って、少しずつ話すようになって……気づいたら、私のほうが会いに行く理由を探していたわ」
アポカリ「母さんから?」
リリア「そうよ。待っているだけじゃ、いつまでたっても進まないでしょう?」
アポカリ「それで、猛アタック?」
リリア「誰に聞いたの、そんな言葉」
アポカリ「えっと……今、思いついただけ」
リリア「ふふ。まあ、間違ってはいないわね。私は何度も会いに行ったし、好きだということも、ちゃんと伝えたわ」
アポカリは少し驚いた顔をした。
アポカリ「母さん、そんなに積極的だったんだ」
リリア「好きな人と一緒にいたかったの。恥ずかしがっているだけでは、何も変わらないもの」
そう言ってから、リリアは少し遠くを見るような目をした。
リリア「もちろん、すぐに何もかも決まったわけじゃないわ。話して、笑って、時々けんかもして。それでも一緒にいたいと思って、私たちは付き合うことになったの」
アポカリ「父さんは、どんな人だった?」
リリアは考えた。特別な言葉で飾る必要はない。思い出すのは、いつもそばにあった小さなことだった。
リリア「優しい人よ。口数が多いほうではなかったけれど、困っている人を見たら放っておけなかった。自分が強いことを見せびらかす人でもなかったわ」
アポカリは、父の姿を頭の中に思い描こうとした。自分の知らない人なのに、母の話し方から、少しだけ輪郭が浮かぶ気がした。
リリア「結婚してからも、あの人は普通の兵士として働いていたわ。特別な立場の人ではなかったけれど、私は、いつか帰ってくるのが当たり前だと思っていたのよ」
その言葉のあと、リリアは少しだけ黙った。
リリア「でも、戦争が始まった。あなたが生まれる少し前に、あの人は戦争へ行ったの。それから、戻ってこなかった」
アポカリは母の顔を見た。
リリア「人間との戦いで、亡くなったと聞いたわ」
器の中の湯気は、もうほとんど消えていた。
アポカリ「……父さんは、帰ってくるつもりだったんだよね」
リリア「ええ。きっとね」
リリアはそう答え、アポカリの手に自分の手を重ねた。
リリア「あなたが生まれる前、あの人はよく、お腹の中のあなたに話しかけていたのよ。まだ声が聞こえるかも分からないのにね」
アポカリ「何を話してたの?」
リリア「帰ってきたら、一緒に森を歩くんだって。あなたに、いろんなことを教えるんだって」
アポカリは唇を結んだ。会ったことのない父が、急に遠い人ではなくなった気がした。けれど、その人がもう帰ってこないことも、同じくらいはっきりと胸に落ちてきた。
リリア「今日はここまでにしましょう。続きは、また話すわ」
アポカリ「うん。話してくれてありがとう、母さん」
リリア「どういたしまして」
母はいつものように微笑んだ。アポカリはその顔を見つめながら、父についてもっと聞きたいことがあるのに、何から聞けばいいのか分からずにいた。




