12話「上には上がいるってこと」
翌朝、アポカリが目を覚ますと、肩の痛みはほとんど消えていた。擦り傷も赤みが引き、腕を回しても昨日ほど突っ張らない。アポカリは一度だけ肩を動かし、何も言わずに毛布を畳んだ。自分でも不思議だったが、いつものことでもあった。
エリナは朝食の包みを数え、ジオは濡れた靴を木の根に打ちつけている。
ジオ「おはよう。今日は荷台に隠れなくても乗れるぞ」
アポカリ「もう隠れないってば」
ジオ「その自信、信用していいのか?」
アポカリ「いいよ!」
ローガンは帰路の痕跡を確かめ、ダークは荷車へ戻るための道具をまとめた。討伐した魔物の周囲には、別の足跡が増えていた。戦いの音や血の匂いに、何かが寄ってきたのかもしれない。
ジオが急に顔を上げた。
ジオ「待って。……水の音がする」
ミレザ「近くに川があるの?」
ジオ「違う。泥を押し分ける音だ。こっちへ来る」
地面がかすかに揺れた。霧の向こうで、何かが木々を押しのける。最初に見えたのは、太い幹ほどもある胴だった。濡れた鱗が鈍く光り、その先から巨大な頭が現れる。
グラドゥーン。
蛇状の魔獣は、倒れた大型魔物の死骸へ頭を向けた。首がゆっくりと持ち上がる。霧の中で、目だけがこちらを捉えた。
エリナ「……あれ、さっきのより大きくない?」
ローガン「比べるな。逃げるぞ」
ジオ「賛成! 大賛成! 今日の俺は逃走に全力を出す!」
ダーク「荷物は捨てるな。持てるものだけ持って走れ!」
グラドゥーンが動いた。巨体が地面を滑り、若木をまとめて押し倒す。速い。あの大きさで、どうしてそんな速度が出るのか分からない。
ミレザが火球を放った。アッツィーヒの炎が頭の前で弾ける。グラドゥーンは怯むどころか、首を振って炎を散らし、そのまま一行へ突っ込んできた。
ミレザ「効いてない!」
ローガン「左右に分かれるな! 倒木の向こうへ!」
全員が走った。アポカリは足元の根を飛び越えたが、背後から迫る振動に足がもつれた。ジオが腕をつかみ、横へ引き倒す。次の瞬間、蛇の胴が頭上を薙ぎ、木が折れて地面へ叩きつけられた。
アポカリ「うわっ!」
ジオ「立てるか!?」
アポカリ「うん!」
ジオは返事を聞くとすぐに走り出した。普段の軽口は消えていた。耳を澄ませる余裕もないほど、グラドゥーンの移動音が大きい。
ダークが倒木を押し、通れる隙間を作る。エリナが先にくぐり、ミレザが続いた。ローガンは最後尾から矢を放ったが、鱗に弾かれ、乾いた音を立てて落ちた。
ローガン「矢は効かない! 止めようとするな!」
逃げる途中で、エリナの荷袋が枝に引っかかった。彼女は振り返って紐を引いたが、布が裂け、中に入っていた道具が泥へ散らばる。
エリナ「待って、帳面が!」
ローガン「置いていけ!」
エリナは一瞬だけ足を止めた。記録係として、帳面を失うのは痛い。だが、グラドゥーンの胴が木を押し倒しながら迫ってくる。ミレザが彼女の腕をつかみ、引きずるように走らせた。帳面は泥の中に残った。
エリナ「最悪……! 帰ったら全部書き直しよ!」
ジオ「生きて帰ってから怒れ! そのほうが声もよく通る!」
その言葉に、アポカリは振り返るのをやめた。戦う相手ではない。さっきの魔物を倒したばかりなのに、目の前のものはその勝利を簡単に踏み潰せる大きさだった。
狭い斜面へ逃げ込む。グラドゥーンの頭が木々の向こうに見えた。胴が幹を巻き込み、枝を砕きながら追ってくる。エリナが足を滑らせ、ミレザが腕をつかんだ。二人とも倒れかけたが、ダークが背中を押して斜面の上へ押し上げる。
アポカリは最後に残った。根に足を取られ、膝をつく。グラドゥーンの頭が、霧を割って近づいてきた。
ジオ「アポカリ!」
ジオが戻り、彼の襟をつかんで引きずり上げた。すぐ横の土が崩れ、蛇の顎が地面を噛む。泥が跳ね、アポカリの頬を打った。ジオの腕にも、折れた枝が深く擦れた。
アポカリ「ジオ、腕!」
ジオ「あとで見る! 今は走れ!」
ローガンが斜面の上から手を伸ばした。アポカリがその手を掴み、引き上げられる。全員が斜面を越えたところで、グラドゥーンの巨体が下の木々をなぎ倒した。追いつかれる前に、倒木と岩の間を抜けてさらに走る。
どれだけ走ったのか分からなかった。ようやく地面の揺れが遠のき、ジオが手を上げた。
ジオ「止まるな……いや、ちょっと止まろう。俺の肺が、俺に抗議してる」
エリナ「肺がしゃべるの?」
ジオ「今にもな」
誰も笑わなかった。笑う余裕が戻るには、もう少し時間が必要だった。ミレザは全員の怪我を見て、ダークは荷物の数を確かめる。ローガンは帰路を変え、同じ場所へ戻らないよう森の外縁を迂回することにした。
ジオの腕には血がにじんでいた。ミレザが布を巻く。アポカリの膝には泥がついていたが、傷は浅い。彼は黙って立ち上がり、荷物を持った。
帰り道は予定より長くなった。何度も足を止め、周囲の音を確かめ、危険な場所を避けた。作業小屋へ戻ったのは、出発時に考えていた日より1日遅れてからだった。
マフラの集落へ着くと、リリアが道のそばに立っていた。アポカリを見るなり、まず膝と腕を確かめる。彼が何か言う前に、リリアは手当ての道具を取りに行った。
リリア「座って」
アポカリ「母さん、僕は――」
リリア「先に手当て」
短い言葉に、アポカリは口を閉じた。リリアは膝の泥を落とし、擦り傷を洗って布を巻いた。それからようやく、息子の顔を見た。
リリア「話して」
アポカリは荷台に隠れたこと、見つかったこと、戦いに巻き込まれたこと、グラドゥーンから逃げたことを順番に話した。途中でジオが「荷台の中で独り言を言ってたのも追加して」と口を挟み、アポカリに睨まれた。
リリアは最後まで聞き、包帯の端を結んだ。
リリア「同行は許していないわ」
アポカリ「……うん」
リリア「それに、ジオさんが助けてくれたとしても、あなたが危ない場所へ行っていい理由にはならないの」
アポカリ「分かってる。……でも、あの人、ちゃんと助けてくれたよ」
リリア「ええ。だから、お礼はきちんと言いなさい。心配したことは、それとは別よ」
アポカリ「うん」
リリア「次に同じことをしたら、荷車の下まで探すわよ」
アポカリ「もうしないよ!」
ジオ「それはぜひ見てみたいな。荷車の下から出てくるアポカリ」
アポカリ「ジオ!」
リリアは呆れたように息を吐いたが、息子を抱きしめたり、長く叱ったりはしなかった。手当ての道具を片づけると、食事の支度へ向かった。
旅人たちは数ヶ月滞在しマフラを発つことになった。ダークは荷車の留め具を直し、ミレザは薬品箱の封を確認し、エリナは記録をまとめた。ローガンはアポカリに「次は荷台に隠れるな」と言いかけて、少し考えてから「次は先に相談しろ」と言い直した。
ジオはアポカリを呼び止め、小さな布包みを差し出した。
ジオ「これ、やるよ。クレイザ大刃って呼ばれてるやつ。俺の平野ユルアの短剣とは別物だ。刃はかなり大きいけど、全体は俺のより短い。森で使うなら、そのくらいのほうが便利だ」
包みの中には、幅広い片刃の大型ナイフが入っていた。厚みのある背と少し反った刃先は、細枝や硬い蔓を払うのに向いていそうだ。木の柄には革が巻かれ、鞘も厚い革で作られている。見た目はナイフというより、短い鉈に近かった。アポカリは刃を抜かず、包みの上から大きさを確かめた。
アポカリ「僕に? これ、ずいぶん大きいね」
ジオ「小さいのを渡しても、お前は刃先をじっと見て終わりそうだからな。使い道があるやつにした。重いから、最初は大人に扱い方を聞けよ」
アポカリ「……ありがとう」
ジオ「不満なら返して。……あ、やっぱり返さないで。俺が渡したんだから」
アポカリは笑い、ナイフを包みに戻した。
アポカリ「大事にする」
ジオ「よし。じゃあ次に会ったときは、もっと面白い話をしてやる」
ローガン「まずは出発するぞ」
ジオ「はいはい。ほんと、せっかちな一行だな」
エリナ「あなたの話が長いのよ」
ジオは大げさに肩を落とし、荷車へ戻った。ダークが手綱を引き、車輪がゆっくり動き始める。ミレザとローガンが手を振り、エリナは最後まで何かを書きつけていた。
アポカリは包みをしまい、母のいる家へ戻った。腹が減っていた。リリアの話もまだ終わっていない。まずは手を洗って、何か食べよう。
森の外から来た旅人たちの声は、木々の向こうへ少しずつ遠ざかっていった。
【注釈】
※グラドゥーン:マフラ深林の沼地や霧の多い場所、古木林などに生息する巨大な蛇状の魔獣。基準個体は全長11.5メートル、基準体重11.7トンで、危険度は5級相当。
※クレイザ大刃:幅広い片刃の大型ナイフ。厚みのある背と少し反った刃先を持ち、木製の柄には革を巻き、厚手の革鞘を備える。ジオの「平野ユルアの短剣」とは別の品で、魔力の仕掛けはなく、野外作業と自衛を想定した道具。




