10話「僕にできること」
岩メルガラは、倒木の向こうへ回り込もうとしたエリナを見つけ、頭を低くした。走り出す前に、前脚が一度だけ泥を押しつぶす。重い体を向け直すための踏み替えだ。
アポカリ「エリナ、離れて! そっちへ曲がる!」
エリナは身を引いた。岩メルガラは彼女のいた場所へ突っ込み、肩の外殻で幹を押し倒した。木が折れる音が遅れて響く。エリナは息を吐き、短剣を握り直した。
エリナ「今の、あと半歩遅かったら木と一緒に倒れてたわね」
ジオ「木のほうが先に倒れたから、勝負は引き分けだな」
エリナ「勝負してない!」
ジオは笑っていたが、耳は岩メルガラへ向けたままだった。前脚が泥を踏む音、外殻が枝を擦る音、喉の奥で鳴る呼吸。その中に、片方の前脚だけが地面を引きずる音が混じっている。
ジオ「左の前脚をかばってる。踏み直すとき、そっちだけ音が遅れる」
ミレザ「さっきの傷?」
ジオ「たぶん。断言はしないけどな。俺の耳も、何でも分かる魔法じゃない」
エリナ「そこはちゃんと説明するのね」
ジオ「能力の話を掘り下げるのはやめて。恥ずかしいから」
岩メルガラが顔を上げた隙に、ミレザはもう一度だけ火球を放った。炎は頭の横に当たり、外殻の隙間を赤く照らす。魔物は身をすくめるどころか、前脚を振って火を払った。炎が消え、焼けた泥が落ちる。傷は浅い。怒りだけが増していた。
ミレザ「直接当てても大きな傷にはならない。火を当て続ければ、こっちの魔力が先に尽きるわ」
ジオ「つまり、火は攻撃じゃなくて、道案内に使うわけか。すごいな。あいつ、火のついた看板なら読むかな」
エリナ「読む前に看板ごと壊すでしょ」
アポカリは岩メルガラの足元を見た。巨体が向きを変えるたび、前脚の片方が泥へ深く沈む。力はあるが、重さを支えるために踏み替えが必要だ。速く動くのではなく、いったん止まり、体重を移し、それから進む。そのわずかな間に、進路を変えられるかもしれない。
アポカリ「火で怖がらせるんじゃなくて、踏みたい場所を変えるんだ。炎の向こうを避けたら、次に踏む場所が窪地の縁になる」
ローガン「そこだ。窪地に落とすことは考えるな。片足が沈んだ瞬間だけを作る」
ローガンは岩メルガラと周囲の地形を見比べた。左には深い泥の窪地、右には根が露出した斜面がある。窪地へ落とせれば動きは鈍るかもしれない。だが、力任せに這い上がられたら、こちらの退路が塞がる。
エリナは魔物の後ろへ回り、脚の付け根へ短剣を突き立てようとした。刃先が外殻の端に当たる。手応えは硬く、押し込めない。彼女はすぐに離れたが、岩メルガラは腰を振って彼女の退路を塞いだ。
エリナ「また殻! どこを見ても殻じゃない!」
ジオ「目は? 目なら柔らかそうだぞ」
ローガン「近づく前に届く距離を作れ。目を狙うなら、頭を止める必要がある」
ミレザは魔力を整えながら、岩メルガラの進路と風向きを見ていた。火球で外殻を焼いても傷にならない。なら、相手の足元へ火を置いて、避ける方向を選ばせるしかない。だが、森を燃やすわけにはいかない。湿った泥地の上なら炎は広がりにくい。
ミレザ「火を使う場所は私が選ぶ。あなたたちは、炎が出たらその向こうへ回り込まないで」
ダーク「縄は倒木を動かすだけだ。脚に絡めようとするな。切られたら道具がなくなる」
ローガンは二人の言葉を聞き、岩メルガラの足元を見直した。力で止めるのは無理だ。止めるのではなく、進みたい方向を変えさせる。そこで初めて、矢を狙う時間が生まれる。
ローガン「作戦を変える。こいつを倒木の間へ追い込むんじゃない。窪地の縁まで向きを変えさせる。落とす必要はない。足を止める一瞬を作ればいい」
アポカリ「魔法で火を避けさせれば、向きは変えられる。でも、当ててもほとんど効いてない」
ミレザ「分かってるわ。だから体じゃなく、進みたい場所の前に撃つ。火を嫌がって避けるかどうかは賭けだけど」
ローガン「賭けを一つに絞る。ミレザが火で向きを変える。俺は目を狙う。ジオは矢が当たるまで動くな。目を潰して視界の片側を奪ったら、死角へ回れ。エリナはアポカリを俺の後ろから離すな。ダークは縄で倒木を引いて、窪地側の退路を開ける。合図は俺が出す」
ダーク「縄は魔物を縛るためじゃない。道を開けるために使う」
ローガン「そうだ。引くのは矢が当たったあとだ。早ければ全員が巻き込まれる」
ジオ「了解。つまり俺は、格好いいところを最後まで取っておけばいいんだな」
ローガン「生きて戻ったら好きにしろ」
ジオ「急に現実的!」
作戦が始まった。エリナは岩メルガラの正面へは出ず、右手の倒木を叩いて音を立てた。魔物がそちらへ首を向ける。ミレザは地面へ狙いを定め、詠唱を短く切った。
ミレザ「マナよりの賜りし根源の力を行使する――アッツィーヒ!」
火球が岩メルガラの進路のすぐ前で弾けた。熱が外殻を赤く照らす。魔物は炎に怯んだのではなく、顔を背けて別の足場を選んだ。狙いどおり、窪地へ続く側へ体が向く。
アポカリ「今、左脚が遅れた! 次に踏み直す!」
ジオは動かなかった。岩メルガラが前脚を置き直す。重い爪が泥へ沈み、首が火のない場所を探して持ち上がった。
だが、魔物は窪地へ進まず、ミレザの立つ場所へ向き直った。炎を避けるどころか、火球を放った本人を押し潰そうとしている。
アポカリ「ミレザ、下がって!」
ミレザは後ろへ跳んだ。岩メルガラの前脚が、彼女のいた地面をえぐる。土が跳ね、片方の靴が泥に埋まった。ミレザは足を抜くのに一瞬手間取り、魔力を整える余裕を失った。
ローガン「予定を変える! ミレザ、もう撃たなくていい。俺が目を狙う。ジオ、合図まで待て!」
ジオ「待つのは得意じゃないんだけどな!」
ローガン「なら今、得意になれ!」
ジオは口を閉じ、岩メルガラの足音へ意識を集中した。エリナはミレザの腕を引いて倒木の陰へ下がらせる。ダークは縄を手にしたまま、まだ引かない。誰か一人が早く動けば、魔物の進路が変わり、ローガンの狙いも外れる。
岩メルガラは頭を振り、残った木を押し倒しながら進んだ。狙いがつくのは一瞬だけだった。
ローガン「まだだ……」
岩メルガラは、窪地の手前で急に止まった。頭が持ち上がり、ローガンを見つける。作戦を察したかのように、地面を掘り返した。泥と小石が飛び、ローガンは木の陰へ身を引く。
ローガン「予定より早い! ミレザ、もう一度、今度は右!」
ミレザ「これで最後よ!」
火球が右側の地面へ落ちる。岩メルガラがそちらを避けて首を振った。視線が一瞬、炎へ逸れる。
ローガン「今!」
矢が放たれた。外殻ではない。頭の横、硬い縁に守られた目へ、矢が深く突き刺さる。
岩メルガラの唸りが途切れた。次の瞬間、森を震わせる絶叫が上がる。魔物は頭を振り、片側の視界を失って暴れた。前脚が地面を叩き、泥が壁のように飛び散る。
ジオはその音の変化を聞いていた。魔物が痛みによって頭を左へ振る。そのたび、右側の足音が一拍遅れる。
ジオ「右が死角だ! ローガン、目はそのまま押さえといてくれ!」
ローガン「矢は刺さっている。長くは持たん!」
ジオは低く走り出した。岩メルガラの前脚が彼の頭上を薙ぐ。ジオは倒木の陰へ滑り込み、脚が戻る瞬間にその内側を抜けた。刃を外殻へ叩きつけても意味はない。彼は頭の下へ入り、装甲の隙間――顎の付け根へ狙いを定める。
ジオ「悪いな。そこは硬くないみたいだ!」
刃が深く入った。岩メルガラは全身をよじり、ジオを振り払おうとする。ジオはすぐに離れたが、肩が外殻にかすめられ、地面へ転がった。
アポカリ「ジオ!」
ジオ「生きてる! あとで文句を言う!」
魔物はまだ倒れない。片目から血を流し、頭を低くしたまま、残った視界で周囲を探っている。ローガンは弓を構え直したが、矢はもう少ない。ミレザの手にも、続けて魔法を撃つ余裕はなかった。
アポカリは岩メルガラの足元を見た。窪地の泥に、傷ついた左脚が沈んでいる。だが、魔物はその脚を引きずりながらも、ゆっくりとこちらへ向き直った。
アポカリ「まだ終わってない……!」
岩メルガラが、残った片目でアポカリを捉えた。




