謎の図書館
私は再び暗闇の中にいた。気が付くと、四方を覆っていた文字はもう見えなくなっていた。ただ、今までの暗闇とは違うことがある。この暗闇には輪郭がある。今までがまるで黒しかない空間にほっぽりだされていた状態だとすると、今のこの空間はただ暗いだけだ。しっかりとここがどういった空間なのか、理解できる。自分以外のものが存在する。その輪郭が理解できる。
ここにあるのはたくさんの机と椅子。両面の壁をびっしりと埋め尽くした本棚に、高いところを目指してかけられた梯子。ここまでくればまず疑いようがない。ここはだだっ広い図書館だ。
そして気づくと、私の手には小さな文庫本が握られている。その本の表紙には、何やら細かく複雑な模様が彫り込まれているようだ。この世界にあるものは自分以外、ただ輪郭がわかるだけ、白と黒とで形作られたモノクロームの世界。ただ、この本の表紙には白と黒以外にもう一色、赤が入っている。中をぱらぱらとめくってみる。すると、その中身には不思議なことに、ここに来てからの私の行動と、今さっきまで私が見ていた世界のことが書かれていた。
物語の中の二人は、とても弱い存在で、素直になれず、ちょうどここに来たばかりの私と同じように、不安でいたたまれないような思いの中にいた。それでもお互いに勇気をもって、一歩踏み出すことができたのだ。その二人を見ていると、私は暖かくなる。精神的なものだけではない。実際に、この空間に来て感じていた寒気のようなものがなくなってしまった。体調もすこぶる快調である。
理由として考えることができるのは、この本だろうか。この本の赤に手を触れると、じんわりと温かい。
しばらくその温かさにうっとりとしていた私だが、そうしてばかりもいられない。その温かさに触れている間、どことなしに焦燥感を感じる。自分には早くやらねばならないことがあるというのに、そのなにかはいまいちはっきり思い出せない。ただ、ぼんやりとした心当たりなら、ある。私が一人で、あの空間にいたとき、差し伸べられた温かな手。あの手の主に、会いたい。会わないといけない、そんな気がしている。
私は再度歩き出した。今度は闇雲ではない。しっかりとした輪郭に導かれて、私は歩いていく。自分が今まで歩いてきた方向は私がやみくもに歩いてきたせいで机も椅子も本もぐちゃぐちゃになってしまっている。おかげでというかなんというか、これから進むべき方向はわかる。この図書館は少し奇妙な形をしているらしく、ジグザグににうねった形で本棚が設置されていて、入ったものはそのジグザグの通路を順路に沿って歩いて進むようになっているようだった。これでは目当ての本などそうそう見つけられないと思うけれども、なぜこんなふうな道になっているのか。まったくもって疑問が尽きない。しかしまあ、それも今の私には都合の悪いものではない。おかげで進むべき方向に迷わなくて済む。この上、道が込み入っていたらすっかり途方に暮れていたに違いない。
私はつまらないことを考えつつ、順路に従う。この先に何があるのか、希望的観測をするならばこの空間の出口があると思いたい。しかしやはりそれは私のちっぽけな希望でしかない。この先に何が待っているのか、結局のところそれは、やはり進んでみなければわからないのだ。
それでも私は、会わなければならないんだ。あの温かい手の持ち主に私は会いたい。顔も思い出せない誰かに、どうしてこれほど焦がれるのか、我ながら不思議なほどだ。それでも私は、これほどはっきりと高鳴る胸を、このままにしていたくなかった。私は、以前のとぼとぼとした足取りなどまるで忘れたかのように、どんどんと前に進んでいくのだった。
あれからどれほど歩いたのだろうか。私はすっかり時間を忘れて歩いている。最初は何もない黒の中から解放さえれて、久方ぶりのはっきりとした輪郭のある道筋を楽しんでいるだけだった。しかし、その興奮が収まった今でもこの通路を進んでいくのはどこか心躍るような気持ちになる。それは、まるで冒険譚をつづっているようである。不安とそれ以上の高揚感。ふわふわと踊るような気持ちになる。あたりに反響するこの音も、あたりに存在するたくさんの書物も、私の物語を彩るために存在しているようで、何とも愛おしい。
そう、これは冒険だ。あの時真っ黒の中に産み落とされた私がもう一度あの人に出会うための冒険。そう思うと心が高鳴る。
いとしい誰かに出会うための冒険をしているという考えにふっと笑みがこぼれる。私は肝心要のその人間の顔すら今は思い起こすことができないのに、その人はこんなに私の心を占有しているのだ。こんなにまっすぐに歩いて行けてしまう。愛おしくてたまらない。
私の頭の中には今さっきまでいた世界の彼と彼女が浮かぶ。お互いにこれでもかというほど思いを重ねて、其れなのにどこかずれて思いをうまく伝えられなかった彼と彼女。そして、その心の中に積み重ねられた愛おしい思い。あの物語の中には 、思いを伝えた後の彼と彼女らは描かれていなかった。しかし、その先を確かに私は感じていた。とても温かく、満たされる思いを。人を愛する思いの温かさを、感じていた。
ふと、ぼんやりとした温かさを感じる。私の胸中を占有するこの感情の温度だけではない。物理的な何か、実体を伴ったものの発する温度だ。私は、自分の腰に括り付けておいた件の書物を見る。その本を見てみると、ボンやりと暖かな光を発していた。私は本を手に取る。すると、本は何かと結びつくように私の手を引く。
私は、本のそんな反応を疑問に思うこともなく、ぼんやりとその導きに従う。我ながらずいぶんなじんでしまったものだ。もうこの程度のことではそれほど驚くことはない。
そうしてそのまま本の向かうがままにしていると、次第に同様の光を認められるようになった。それはやはり、眼前の書架に置かれていた。新しい、本だ。いや、それは本というには少し奇妙であった。確かに、多くの文字、多くの情報が包みこまれている。しかし、紙ではない。まして繰るページも存在しない。それは、宝石だ。緑色の宝石の中に刻み込まれた美しい銀色の文字。美しいその文字は本の形に作り上げられた緑色の宝石の中をこれでもかというように自由に飛び回っていた。
これは、冒険だ。私が、あの人に出会うための。不安は大きい。でもそれ以上に、ドキドキする。ワクワクする。私はにっと口角を吊り上げ、迷うことなく本へ手を伸ばした。
私が触れると、本はパリンと子気味いい音を立てて砕け散った。砕けた宝石の欠片は本のあったところを中心として私の周囲に飛散する。それはあたかもダイアモンドダストのように美しく光を反射して空中を漂う。宝石のかけらはゆっくりと宙に遊ぶ。その動きは、時間がゆっくりと進んでいくかと錯覚さるほどにゆっくりゆっくりしていた。しかし少し経つと、ずっとそうして漂い続けると思われた宝石のかけらは完全に動きを止める。空中できらきらと光を反射しているその欠片は息をのむほど美しく、私は思わず見とれてしまった。しんと静まった空間に、自分とこの宝石片しかこの世界に存在していないかのような不思議な感覚にとらわれる。
しかし、そんな静寂は急に終わってしまう。砕け散った宝石に目を奪われていたが、もともと宝石が存在した場所にはぐるぐると銀色の文字がずっと渦を巻いていた。そしてそれは、唐突にはじけた。まるで水風船が一気に破裂したようにその文字は飛沫を上げ、飛び散る。高速で宙を舞う文字は、私を包み込むように四方を高速回転する。未知の文字達をじっと目を凝らして見据えると、そこにぼんやりと浮かび上がるものがある。物語だ。
多くの文字が流れ去り、やがて一つの文章が浮かび上がる。私は、再び世界の端っこにたどり着いたのだ。あふれ出る文字たちは、私の口を媒介して新たな世界を奏でる。これから旅する世界には何が待っているのか。これは、冒険だ。私の、そして、別の世界の誰かの。大きな不安を塗りつぶす、もっと大きな好奇心を携えて新たな冒険へと進んだ。




