オズと案山子15
瞼が重い。しっかりと眠ったはずだが妙に疲れを感じている。これも先ほどの夢の影響だろうか。私は周囲の状況を確認する。昨日の夜とは大きく異なる光景があった。
そこには、あたたかい朝食があった。きっちり盛り付けられたサラダ、こんがりと焼いたトーストで作ったホットサンド、私の好きなブレンドコーヒー。
「おはようございます、ご主人様。」
いつもと変わらない笑顔がそこにあった。
「ああ、おはよう。スケア。」
私に過去を変える必要などなかった。過去を変えたところで、私の欲しいものは決して手に入ることはない。私が望むものはただ、私が踏み出すことでしか得ることはできない。普段と何も変わらないこの日常の中で体の疲れを感じつつも、それでも私の頭が普段のように重くはないのは、昨夜の夢のおかげだろう。
ベッドからのそりと起き上がり、口をゆすいでリビングの椅子に座り、ホットサンドにかじりつく。さくっとしたパンの焦げ具合と、間に挟んだ卵の甘い風味が食欲をそそり、どんどん食べ進んでいく。
「うまいな。」
そういうと、彼女は少し驚いた顔になり、いつもより嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。ご主人様。」
その様子を見て改めて気づいたが、私は普段彼女にそんなことも言ってやっていなかった。彼女に対して感じる好意や感謝を伝えることが怖かった。だから、奴隷だからこれくらい当然だというような態度でしか彼女に接することができずにいたのだ。本当に、こうして考えるとあまりにみっともない自分自身に眩暈がしてくるようだった。
その後、彼女も席に着き、二人穏やかに朝食をとる。今日は仕事は休みであるため、彼女は食器を片付けた後お気に入りのカフェで買ったらしいお茶菓子と紅茶をを用意してくれた。今は彼女も隣でお茶をすすっている。
「…それでですね、池の向かいにできた新しいカフェなんですけれども、もしお時間ありましたら。ご主人様もいらっしゃいませんか。なんでも、ご主人様の好きなコーヒーもたくさん種類があるそうですし、お茶菓子もとてもおいしいと評判なんですよ。…ご主人様?」
スケアがこちらを心配して声をかける。一応しっかり話は聞いているのだが、これから自分の行うことにばかり意識を集中していたせいで、どこか上の空になってしまっているようだ。
…こうして相も変わらずうじうじ悩んでいては、彼女に不要な心配をかけてしまうだけだ。やるべきことは決まっているのだ。私は意を決して口を開く。
「スケア。すまないが、上着を脱いでくれないか。」
季節はもうじき冬を迎える。秋も深まるとずいぶんと寒く、家の中とはいえ上着を羽織っていることも多い。
「え、あ。今から、ですか。溜まっていらっしゃるのでしょうか。はい、わかりました。身を清めてまいりますので、少々お待ちくださいね。」
「そうではない。」
違うのですか、と彼女は少々肩透かしを食らったような顔をする。朝っぱらから夜伽を求められていると勘違いされたらしい。魅力的な提案ではあるが、今はひとまず上着を脱いでもらうだけで十分だ。彼女は自分が羽織っている上着、というか、薄い肩掛けをおいて、こちらに向き直る。その右腕上部には、彼女が奴隷である証としてはめられた鉄の輪がある。それは、彼女の成長に応じて契約を更新し続け、今の今まで私が彼女を縛り付け、苦しめ続けていた証拠の品でもある。私は、鍵となっている魔法石を腕輪から外し、彼女の腕輪を、この十年の間そこにあり続けた腕輪を、外した。
「…え。」
驚愕の表情に彩られたスケア。あまりにも突然のことで茫然自失となった彼女の表情は、普段の落ち着いた様子とは打って変わり少々間抜けなものであり、少しだけ、スケアクロウの面影を感じさせた。これで、彼女は奴隷という身分から解放されたことになる。あとは、伝えるべきことを伝えるだけだ。
「これで君は自由だ。今までの働きの分もあるし、もし君が本当に望むなら、資金も用意するし、このまま出ていっても、きっと罰は当たらない。」
「…ご主人さま、おっしゃっている意味が、分かりません。」
私が伝えた言葉に対し、彼女は、不安そうにこちらを見つめてそういった。そして、震える手で私の服にギュッとしがみつく。
「ああ、違うんだ、君を不安にさせたかったんじゃない。ただ、そういう選択もあるということを伝えないとフェアじゃない気がしているだけだ。」
時計作りで細かい作業には慣れているつもりなのだが、こういう時ばかり不器用になる自分自身がどうにも恨めしい。そのせいで不安にさせてしまったことを申し訳なく思い、不安を和らげるように彼女の手にふわりと優しく自分の手を重ね、そのまま指を絡めるようにして手をつなぐ。普段と違う私の様子にやはり困惑していながらも、彼女に嫌がる様子はない。
「スケア、君に聞いてほしいことがある。」
「はい。」
彼女は私の目を見つめ、まっすぐに言葉を返す。その視線が、私の言葉にも力を与えてくれるように感じる。
「今まで私は、君にずっと言えなかったことがある。…昨日、時計を買ってきただろう。」
「はい。」
「昨日はただの気まぐれだ、時計などよく知らないというようなことを話したと思うが、実は、そうじゃないんだ。」
私は、生家で魔力時計にあこがれた日々、学院で研究に明け暮れた日々を初めて彼女に話した。今までの長い生活の間、一度たりとも私が触れてこなかった話だ。私にとってこれらの話は、他人の嗤い顔と一緒にトラウマとして封印してきたことだった。私はこの話をするとき、きちんと彼女に伝えられていたのか自信がない。それどころか、震えずにきちんと話せていたのかということさえわからない。それでも彼女は、私の目をじっと見つめて、ただただ黙って私の話を聞いてくれた。
たどたどしい話し方でいったいどれほど彼女にうまく伝わったのかわからない。其れでも一応私の経験したことはある程度伝えられたはずだ。
「…私は、恐ろしかった。前を向くことができなかった。それでも、こうしてずっと黙っているわけにもいかないんだ。…スケア、私は作るよ。もう一度、時計を。」
それが、私の決断だった。ずっと昔からの夢だった、私にしか作れない実用できる魔力時計を作る。たとえ誰にも認められなかったとしても、誰に嗤われたとしても。時計のことを考えるたびにちらついていたかつての友の顔はもう浮かんでこなかった。
「…それが、ご主人様がずっと抱えておられたことなのですね。」
そういうと、彼女は涙を流しながら、こちらに微笑みかけた。
それから、彼女もその思いをこちらに伝えてくれた。
生まれた時からその存在に意味が与えられなかったこと。奴隷商人たちのもとで売り物として扱われ、生きている人間として見てくれる人が誰もいなかったこと。毎日死ぬことも許されず、かといって生きているという実感も持てず、次第にまるですべてが他所で起こっていることのように考えるようになっていったこと。そしてそんなときに、私に出会ったこと。
私に出会って知った美味しいもの、楽しいこと、綺麗な風景。自分を人間としてみてくれる人と二人で生きる、ただそれだけのことがどれほどうれしいことかという事実。それらすべてがモノクロの絵画になってしまっていた自分のいる世界を、暖かく真新しい絵の具で色づけてくれたこと。毎日が楽しかったこと、時々悲しかったこと、たまには怒ったりもしたこと。でもそれらすべて、大切な思い出になったということ。
そしてそんな中で唯一、気がかりだったこと。それは、自分が私の重荷になっていないかということだったそうだ。彼女は私のことを私が思っているよりもずっと見ていたようだった。私が時々する悲しそうな顔、つらそうな顔、つまらなそうな顔。そんな顔を自分のせいでしているのではないかという罪悪感を感じていたという。そうして、彼女はすべてを吐き出した後、穏やかに微笑んで、また、泣いていた。
彼女はそれらのことを震える声で、まっすぐにこちらを見つめて少しずつ、私に伝えてくれた。その言葉はとても暖かく、まっすぐで、心地が良かった。それは、張り詰めた私の心もほぐしてくれるようで、私もいつの間にか、涙を流しているようだった。
彼女は涙をぬぐい、今度は彼女のほうから今まで握っていた私の手を、両手で優しくしっかりと包み込む。
「ご主人様。いつまでも、どこまでも、お伴いたします。」
その眼には、今まで見たこともない、強い光が宿っていた。
「君も案外、馬鹿なんだな。」
「はい。ご主人様がいらっしゃらないと、何もできないうつけものなのです。ですから、どうかこれからも、いろいろなことを教えてくださいね。」
そう言って彼女は笑う。それは私の今まで見てきた笑顔のどれよりも、眩しく、温かく、二度と忘れることのできないものだった。
「一緒に生きよう。スケア。これから、私たち二人の人生をまた、始めよう。」
それから、私たちの日常は進んでいく。彼女はいつしか私のことを旦那様と呼ぶようになり、私たちは今までよりももっと近くにお互いを感じるようになった。私は仕事を変えて、ドロシーとコンビを組み、新しく時計屋を始めた。新型の魔力時計は十分実用に足りるように改良した。それでも結局大人気になるというようなことはなかったが、世間に認知されて、一般的な時計としてみてもらえるくらいにはなった。
細々とではあるが、満ち足りた暮らしが、穏やかに続いていくのだ。きっとそれは、ここで語るまでもない、つまらない小さな、夫婦の話。




