第09話 父に書けないこと
父への手紙は、翌日、書き直した。
両国の役に立つという一文を消し、代わりに庭の花が咲きそうだと記した。
大公殿下には、よくしていただいております。
その先には、少し迷ってから、穏やかに暮らしております、と足した。
嘘ではなかった。
ただ、唇が触れた後から何をしていても夫の顔を思い出すことを、穏やかと呼んでよいのかはわからなかった。
手紙を封じ、リナへ渡す。
「これで、お願いします」
リナは頷いた。
「大公殿下に、ご覧いただかなくても?」
「ええ」
返事をした自分が、少し新しかった。
父の返書は、八日後に届いた。
正確には、父の名で側近が書いた紙だった。
初めに健康を祝す短い文があり、その後に、ベルンで面会した人物、大公の日課、近く訪れる外国人を知らせるよう求められていた。
追伸には、第一王女ブランシュの婚約発表に合わせ、夏の終わりに帰国する準備をしておくこと、とある。
オデットは紙を膝へ置いた。
庭の花への返事はなかった。
今までなら、気にしなかっただろう。
父は王で、忙しい。花の話へ答える時間はない。
それは変わっていない。
変わったのは、自分が、返事を期待したことだった。
「お困りですか」
向かいで刺繍糸を整理していたリナが尋ねた。
「困るほどのことではないわ」
言ってから、オデットは紙を持ち上げた。
「でも、少し嫌」
リナは手を止めた。
オデットも、自分の言葉を確かめた。
少し嫌。
王の意向を、そんなふうに呼んだことはなかった。
「夫の日々のことを、お知らせするようにと」
「大公殿下へ、ご相談なさっては」
「そうね」
相談できる相手がいる。
それだけで、紙を持つ手に力を入れずに済んだ。
テオバルトは、温室で袖をまくっていた。
今日は晴れている。
オデットが入ると、彼は土のついた手を見てから、嬉しそうに顔を上げた。
「ちょうど、見ていただきたい物が」
棚の端に、小さな芽が並んでいた。
彼女が城下で買った鉢の一つだった。
「出たのですね」
「今朝」
二人で屈み、細い緑を見る。
こんなものを、父への報告書に書くのだろうか。
今日の大公殿下は、小さな芽が出たことを喜んでいらっしゃいました。
書いたら、父は何を知るだろう。
夫の優しいところを、必要のない情報として読み飛ばすかもしれない。
それが嫌だった。
「お手紙が、来ました」
オデットが言うと、テオバルトは背を起こした。
紙を渡す。
彼は読み終え、折り目を戻した。
「よくあることではあります」
「そうなのですね」
「他国へ嫁いだ方を通じて、様子を知ろうとする。けれど、あなたに全てを伝える義務があるわけではない」
オデットは紙を受け取った。
「お父様は、そうはお考えではないと思います」
「でしょうね」
テオバルトは、父を悪く言わなかった。
その代わり、オデットを見て尋ねた。
「あなたは、どうしたいですか」
また、その問いだった。
今は以前ほど怖くなかった。
「お会いした方のお名前なら、披露宴の招待名簿にもあります。でも、毎日どなたと何をお話しになるかは、書きたくありません」
「では、そうしましょう」
「わたくしが勝手に決めても?」
「あなたの手紙です」
オデットは頷いた。
テオバルトが、もう一度紙の下を見た。
「ご帰国は」
「姉の婚約が決まるそうです」
「ご出席を望みますか」
わからなかった。
姉に会いたくないわけではない。
けれど、王宮へ戻ると考えると、胸の中の何かが身を縮めた。
「まだ、決められません」
「では、日取りが決まってから、改めて」
テオバルトはそれ以上追わなかった。
オデットは紙を懐へしまい、もう一度芽を見た。
温室に来る前より、息がしやすかった。
帰り際、テオバルトが棚の上へ鋏を戻そうとして、顔をしかめた。
一瞬だった。
オデットは見逃さなかった。
「お手が?」
「少し、引きつれただけです」
右手の古い傷が、乾いた光を受けていた。
彼は袖を下ろそうとしたが、途中でやめる。
「寒い日や、長く使った後には、ときどき」
「薬は」
「部屋にあります」
「では、戻りましょう」
テオバルトは、芽を一度見た。
オデットは先に言った。
「今は、水はいりません」
彼が笑った。
「覚えましたか」
「教わりましたから」
夫の部屋へ入るのは、初めてだった。
執務室の奥に、私室がある。
寝台の見える扉は半分閉まっていたが、それでも急に足元が落ち着かなくなった。
オデットは窓際の椅子へ座り、棚を見るふりをした。
ここにも鉢が一つあった。
机の上には本が三冊。布張りの小箱。飲みかけの水。
夫にも、自分のいない時間がある。
当たり前のことなのに、触れてはいけないものを見せてもらった気がした。
「こちらです」
テオバルトが小さな薬壺を出した。
右の袖をまくり、左手で塗ろうとする。
オデットは手を差し出した。
「わたくしが」
「自分で、できます」
「存じています」
彼が顔を上げる。
オデットは、少しだけ笑った。
「でも、したいのです」
テオバルトは、薬壺を渡した。
白い軟膏を指へ取り、傷の周りへ薄く伸ばす。
熱はなかった。
古い皮膚の硬さだけが、指の腹へ伝わった。
「痛くありませんか」
「大丈夫です」
「この傷は、いつ」
「十五の時です」
オデットは手を止めかけた。
彼は穏やかに続ける。
「温室の暖房を、勝手に使いました。寒くなると聞いたので。父に任せればよかったのに、待てなくて」
「火が?」
「油をこぼして。隣に置いていた布へ燃え移りました」
勇ましい戦いの傷ではなかった。
人を救った勲章でもない。
十五歳の少年が、花を守ろうとして失敗した傷だった。
「火は、消せたのですか」
「エーミルが。私は、鉢を抱えて転びました」
オデットは傷へ目を落とした。
「怖かったでしょう」
テオバルトは少し黙った。
「はい」
短い返事だった。
「父に、叱られると思いました」
「叱られましたか」
「ひどく。けれど、翌朝も食卓の席は同じでした」
オデットの指が止まった。
それを彼は、気づいても指摘しなかった。
「エーミルは温室に鍵をつけた。私は半年、薪を運ぶ係になった。春には、また苗を触らせてもらいました」
失敗しても、次の春があった。
それは何と豊かなことだろう。
オデットは残りの軟膏を塗り終え、布で指を拭いた。
「わたくし、きっと叱るほうです」
「何を?」
「同じことを、なさったら」
テオバルトは彼女を見た。
「ええ」
「とても、叱ると思います」
「それは、怖い」
笑いながらも、彼は右手を引かなかった。
オデットはその手を、両手で包んだ。
「でも、お食事には来てください」
テオバルトの表情が静かになった。
「はい」
「怒っていても、一緒にいただきたいです」
夫の左手が、彼女の手の上へ重なった。
オデットは、この話も父には書けないと思った。
秘密にするよう頼まれたからではない。
自分が知っていることを、自分で大切にしたかった。
その夜、父への返事には、公にできる行事だけを書いた。
日々は、穏やかに暮らしております。
前の便りと同じ一文を、もう一度記す。
今度は、手抜きではなかった。
それ以上を渡さないための、短い言葉だった。




